The Little Street (detail) 1657-58 Oil on canvas Rijksmuseum, Amsterdam
「光の旅」第4回(2月18日「日本経済新聞」日曜日連載)は、やはりフェルメール Johannes Vermeer(1632-75)だった。今は大人気のこの画家も、不思議なことに20世紀初めまで長らく歴史の闇に埋もれて忘れられていた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやル・ナン兄弟と同じように「再発見」された画家の一人である。
ラ・トゥールの作品に最初に魅せられた頃、フェルメールも未だあまり知られていなかった。オランダでもニューヨークでも、美術館のフェルメール作品の前は、特に人が多かったわけではなく、きわめて楽に観ることができたことを思い出す。
しかし、その後の人気の上昇ぶりは目を見張るばかりだった。今では大変集客力のある画家になっているだけに、美術館なども企画展を計画しやすいのだろう。今年も、東京都美術館などがすでに予定しているようだ。
1875年7月、オランダの美術紀行を著した、フロマンタン*も、フェルメール(ファン・デル・メール)については、次のように、きわめて短くしか記していない: 「「ファン・デル・メール」[フェルメール]はフランスではまだほとんど知られていない。そして、彼のものの見方にはオランダの画家の間でさえ非常に風変わりなところが多々あるので、オランダ美術の中のこの特異な存在についてぜひ詳しく知りたいと思う人にとっては、かの地へ旅行してみるのも無駄ではあるまい。」(邦訳p286)。
訳者によると、フロマンタンはルーブルなどが所有する作品に加えて、このオランダ旅行で他のフェルメール作品を見ており、「牛乳を注ぐ女」、「デルフトの小道」などの感想を本書の覚え書に、「ボンヴァン風、ミレー風、現代の素朴派風。抑制された雰囲気」[牛乳を注ぐ女の]手の色調――これこそ、今この画家がたいへんな人気を呼んでいる理由であることは間違いない」(邦訳 p286注)と記している。しかし、訳者注(上巻pp346-347)によると、フロマンタンは完成稿では、フェルメールについての論評部分を残していない。
今の人々には不思議に思えるかもしれないが、1875年の段階ではフェルメールについての評価は、今日とはかなり異なったものであることを推測させる。この点は、ラ・トゥールについてもいえる。
他方、フロマンタンはライスダール、カイプ、フランス・ハルス、レンブラントなどには多大な紙数を割いている。画家の評価が時代によって大きく揺れ動くことが分かる。
フェルメールについての評価は、20世紀に入って急速に拡大する。しかし、その評価は必ずしも手放しに高いというわけではない。美術史家エリー・フォール**は次のように評している:
デルフトのフェルメールはオランダを要約する。彼はオランダ人のあらゆる平均的な性質を持つが、それらをひとつに集中させて一回の筆さばきを最高の力までに高める。この男は、絵の具のもっとも偉大な巨匠だが、なんら想像力を有していない。自分の手の触れるものも彼方に行こうという欲求を彼は持たない。彼は人生を全面的に受け入れている。彼はその人生を確認する。彼は自分と人生の間に何も割り込ませず、熱烈な注意深い研究によって発見されたその輝き、強度、密度の最大限をそれに返すことに集中する。まさにレンブラントの対極である。レンブラントは、その時代にあって、彼を取り巻く市民階級の壮麗な物質的な流れをただ一人さかのぼり、それを通して、その力を全身に浴びながら、瞑想の無限の国々に到達しえたからである。 (エリー・フォール邦訳p113)
受け取り方によっては、フェルメールにかなり厳しい評ともいえる。この画家についてはもう少し時間をとって考えてみたい。
* フロマンタン(高橋裕子訳)『オランダ・ベルギー絵画紀行』上、下(岩波文庫、1992)
** エリー・フォール(谷川渥、水野千依訳)『美術史:近代美術[I]』(国書刊行会、2007)
「光の旅」第4回(2月18日「日本経済新聞」日曜日連載)は、やはりフェルメール Johannes Vermeer(1632-75)だった。今は大人気のこの画家も、不思議なことに20世紀初めまで長らく歴史の闇に埋もれて忘れられていた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやル・ナン兄弟と同じように「再発見」された画家の一人である。
ラ・トゥールの作品に最初に魅せられた頃、フェルメールも未だあまり知られていなかった。オランダでもニューヨークでも、美術館のフェルメール作品の前は、特に人が多かったわけではなく、きわめて楽に観ることができたことを思い出す。
しかし、その後の人気の上昇ぶりは目を見張るばかりだった。今では大変集客力のある画家になっているだけに、美術館なども企画展を計画しやすいのだろう。今年も、東京都美術館などがすでに予定しているようだ。
1875年7月、オランダの美術紀行を著した、フロマンタン*も、フェルメール(ファン・デル・メール)については、次のように、きわめて短くしか記していない: 「「ファン・デル・メール」[フェルメール]はフランスではまだほとんど知られていない。そして、彼のものの見方にはオランダの画家の間でさえ非常に風変わりなところが多々あるので、オランダ美術の中のこの特異な存在についてぜひ詳しく知りたいと思う人にとっては、かの地へ旅行してみるのも無駄ではあるまい。」(邦訳p286)。
訳者によると、フロマンタンはルーブルなどが所有する作品に加えて、このオランダ旅行で他のフェルメール作品を見ており、「牛乳を注ぐ女」、「デルフトの小道」などの感想を本書の覚え書に、「ボンヴァン風、ミレー風、現代の素朴派風。抑制された雰囲気」[牛乳を注ぐ女の]手の色調――これこそ、今この画家がたいへんな人気を呼んでいる理由であることは間違いない」(邦訳 p286注)と記している。しかし、訳者注(上巻pp346-347)によると、フロマンタンは完成稿では、フェルメールについての論評部分を残していない。
今の人々には不思議に思えるかもしれないが、1875年の段階ではフェルメールについての評価は、今日とはかなり異なったものであることを推測させる。この点は、ラ・トゥールについてもいえる。
他方、フロマンタンはライスダール、カイプ、フランス・ハルス、レンブラントなどには多大な紙数を割いている。画家の評価が時代によって大きく揺れ動くことが分かる。
フェルメールについての評価は、20世紀に入って急速に拡大する。しかし、その評価は必ずしも手放しに高いというわけではない。美術史家エリー・フォール**は次のように評している:
デルフトのフェルメールはオランダを要約する。彼はオランダ人のあらゆる平均的な性質を持つが、それらをひとつに集中させて一回の筆さばきを最高の力までに高める。この男は、絵の具のもっとも偉大な巨匠だが、なんら想像力を有していない。自分の手の触れるものも彼方に行こうという欲求を彼は持たない。彼は人生を全面的に受け入れている。彼はその人生を確認する。彼は自分と人生の間に何も割り込ませず、熱烈な注意深い研究によって発見されたその輝き、強度、密度の最大限をそれに返すことに集中する。まさにレンブラントの対極である。レンブラントは、その時代にあって、彼を取り巻く市民階級の壮麗な物質的な流れをただ一人さかのぼり、それを通して、その力を全身に浴びながら、瞑想の無限の国々に到達しえたからである。 (エリー・フォール邦訳p113)
受け取り方によっては、フェルメールにかなり厳しい評ともいえる。この画家についてはもう少し時間をとって考えてみたい。
* フロマンタン(高橋裕子訳)『オランダ・ベルギー絵画紀行』上、下(岩波文庫、1992)
** エリー・フォール(谷川渥、水野千依訳)『美術史:近代美術[I]』(国書刊行会、2007)