ヴィック・シュル・セイユ郊外 Photo YK
ヨーロッパ、16世紀から17世紀への転換期は、実に不思議な時代だった。科学の面ではガリレオ・ガリレイの大発見などが行われていた反面で、人々は魔女や魔術の存在を信じ、名状しがたい恐れを感じていた。これは単に農民などの一般民衆にとどまらず、かなりの知識人の間にも広く見られた。
この時期の魔術や犯罪にかかわる詳細な裁判記録はヨーロッパ全体を見渡しても、稀にしか存在しない。ところが、今日残る最も歴史的に価値ある記録は、ナンシーのArchives Departmentales of the Meurthe-et-Mosell at Nancy に保管されていた。当時魔女裁判にかけられたおよそ300例の完全な書類が残っている。時期としては、ほとんど1580-1630年に集中している。しかし、これらはロレーヌで行われた魔女審問のおよそ5-10%程度と推定されている。他の判例記録などから新たに魔女審問の記録として区分変えもなされた上での推定だ。同様に魔女裁判が行われたイングランドやフランスではこうした記録はほとんど残存していない。ヨーロッパ全域でみても、散発的にしか残っていない。いずれにしてもナンシー文書館所蔵の文書は、この時代の最も複雑怪奇な社会現象を探索するに、大変貴重な素晴らしい記録だ。
ナンシーに保管されていた魔女審問記録は、ある一定のルールで構成されている。15-25人の証人、目撃者の確保、証人の証言、こうした証言に基づく容疑者の尋問、証人と被告の対決、そして普通は1-2回以上の拷問による尋問という手順を踏んでいる。
これらの記録の性格はきわめて重要だ。なぜなら法律家や判事が編集する以前の第一段階での尋問、告発内容が含まれているからだ。審問の初期段階であり、拷問の下での強制された告白ではないことがきわめて重要な意味を持っている。告発が行われた当時の一般的な人々の考え、いいかえると時代の空気が感じられるからだ。判事などに強制された部分と自発的な告白部分の境界は、ほぼ判明している。たとえばsabbat (魔女の夜会)に行ったか、そこではどんなことが行われたかなどについて、当時人々がどう考え、いかに伝承されていたかを推定できる。
ロレーヌはヨーロッパ史では、厳しい魔女裁判の舞台として描かれてきた。ロレーヌ公国の検事総長ニコラ・レミNicolas Remy は、1580-90年代に900人の魔女を火刑にしたとして、その悪名をほしいままにしてきた。魔女の歴史が示すように、そこにはかなりの誇張が入っている。しかし、容疑がひとたび裁判所まで達すると、魔女としての告発率は90%近くなった。他方、この時期に合計3000例くらいの裁判が行われたという推定が妥当であるとすると、少なくも40万人の人口のロレーヌ公国で毎年60件近い裁判があったことになる。人口あたりの比率とすると、エリザベス朝のエセックスなどにおける、発生ピークの率とさほど変わるものではない。しかし、ロレーヌにおける死刑の比率はかなり大きかった。
ロレーヌにおける一般民衆とエリートとの間で、魔女の存在、行為などについて、明瞭な区分があったかどうかは、きわめて難しい問題だ。大多数の裁判は地方の裁判所で行われた。裁判官といえども、ある者はまったく無学だった。裁判官としての職業的水準をほとんど充たしていない者も多数含まれていた。審問官レミにしても、彼の考えの中心を成していたものは、学者の伝統に基づいたものというよりは世俗のものだった。実際の審問を記述した部分は大変直裁で正確だ。しかし、一般化の段階では言葉だけが躍っている。
こうした風土で、容疑者となったのは、コミュニティできわめて特別なグループだった。レミと他の裁判官の態度は、人々に裁判所を使うようにさせたかもしれない。そして容疑者を尋問の渦中に放り込んだ。典型的容疑者は20年近いローカルでの評判の持ち主が多かった。魔女とされた者の範囲はかなり広く、ばらつきがあり一般化は難しいが、魔術の行為で告発される容疑者の多くはコミュニティの片隅に生きた放浪者や乞食、そしてある意味で厄介者であり、村人などから受け取る謝礼や施しもので生きていた。
彼(女)らが告発された契機は、隣人や彼らの家畜に何年にもわたり実害を与えたなどの容疑によることが多かった。村落の人々の思い込みは共同体や個人に加えられた現実の損害に強く根付いたものだった。そうした例*をひとつ紹介しよう。もちろん、魔女裁判の事例はひとつひとつ異なり、特異である。しかし、ヨーロッパの他の地域でも十分見出されるような事例だ。
1584年、ロレーヌのカトリーヌ・ラ・ブランシェという60歳代の寡婦が魔女審問にかけられた。25人の証言者のひとり、クレロン・バルタールは次のように証言した。5年ほど前、彼女と夫が飼育していた牡牛に餌をやっていた。その時カトリーヌがやってきて、いつものように施しを願った。証言者クレロンは「カトリーヌ、もう私はお前にはなにもやらないことにしたから、他の人の所へ行って施しをもらいなさい。私たち家には幼い子供もいるし、夫の兄弟の子供も扶養しているからお前に与えるものなどないんだ。あんたより子供たちを養うことが、神にかけて大事なの。だからどこかへ行きなさい。」この証言にみるかぎり、そこには後に魔女審問の容疑者とされたカトリーヌから脅迫されたなどのしるしはなにもない。
しかし、その後牡牛が死んでしまったことについて、クレロンは施しを断られたカトリーヌが呪いをかけたせいだと証言している。施し、慈善を拒否したことに対する報復を要素として作り上げられたひとつのタイプともいえる。カトリックの影響が強く、伝統的風土が色濃く根付いた地域では、こうしたタイプの出来事がかなりあったようだ。プロテスタントが浸透し、社会経済上の変化が激しい地域では見られないタイプとされている。しかし、こうした関係が生まれるには、時に20年間というような長い年月を要している。
さらに魔女とされた容疑者は、いつの頃からか地域に対して強い憎しみの念を抱くにいたっていると考えられている。もちろん他方で、告発されることにまったく納得ができず、強く反発した者もいただろう。そうした事例も残っている。
魔女狩りを生んだ風土と背景はきわめて複雑だが、審問の数が多少なりと指標になりうるとしたら、そのピークはおそらく16世紀末頃と思われる。その後審問数は少しずつ減少し30年戦争という悲惨な混乱の時期へ突入していった。30年戦争はそれまでの人々の普通の生活のあらゆる特徴に終止符を打った。魔女狩りも皮肉なことにその一部だったと考えられる。悲惨な戦争の前には、コミュニティの片隅の問題にかかわる余裕もなくなったのかもしれない。 (続く)
* Robin Briggs. Communities of Belief. Oxford: Clarendon Press, 1989, reprinted 2001. pp.69-70.