時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ガリレイの生涯(3)

2009年08月10日 | 書棚の片隅から

 ブレヒト『ガリレイの生涯』の舞台は見ることができなかったが、この卓越した劇作家の生き方、作品には強く惹かれてきた。とりわけ、『ガリレイの生涯』については、ブレヒトが自らの作品の制作態度について、詳細に覚え書を残していることもあって、彼がいかなる考えの下に、細部の演出を行ったかが迫真力を伴って伝わってくる。17世紀の歴史的事件を20世紀の激動の過程に身を置きながら、いかに解釈し、戯曲として提示するかというひとりの劇作家が立つ位置を知ることができる。

 劇作家でブレヒトの翻訳者でもある岩淵達治氏によると「ブレヒトの演劇の特徴は「異化効果」といわれる「われわれが無意識にもっている先入観を打ち壊すことから始まる。だが異化とは、そのようにして偏見を取り除かれたものが、もう一度偏見にとらわれない新しい目で、その現象を見直し、自らの判断を下すことを言うのである。」(291)とされる。

 こうした劇作家の意図を、意識して舞台を見たり、脚本を読んだりするかどうかは別として、ブレヒトの作品は多くのことに気づかせてくれる。ブレヒトは古典化したといわれているようだが、今日読んでも十分新鮮だ。

 『ガリレイの生涯』に関わる重要なテーマのひとつは、やはりガリレイの歴史的位置づけだろう。ブレヒトはこの点について、次のごときコメントを残している。やや複雑なニュアンスが込められており、読み手が勝手にパラフレーズしてしまうのは問題かもしれない。そこで、前回に引き続き、ブレヒトの言葉をできるだけそのままに以下に引用してみよう。

ガリレイを賞賛するか、弾劾するか?
 もしも私にむかって、――肯定的な調子で――ガリレイの学説撤回は、若干の「疑義」は残すにせよ、この撤回が彼に科学の研究を継続し、その仕事を後世に引き渡すことを可能にしてくれたという理由によって、理性的な行動だったと描かれていますね、と言った物理学者たちが正しいとすれば、それはこの作品の大きな欠陥ということになる。

現実にガリレイは、天文学と物理学を豊かにした、だが同時にこの両科学から社会的な意味を殆ど奪いとることによって豊かにしたのである。天文学と物理学は、聖書と教会への不信を示すことによって、一時期はすべての進歩陣営のバリケードに立っていたのである。それ以後の数世紀のあいだに、それでも大転換がなしとげられたことは事実である。そして両科学はその転換に一役買っていた。しかしそれは革命ではなくあくまでも転換であり、騒動といってもそれは退化して専門家だけの範囲内の討論に堕してしまった。教会と、それと結びついた全反動勢力は秩序整然たる退去を完了することができ、多少なりとも自分たちの権力を主張することもできた。このふたつの科学のほうはといえば、以後二度と社会において昔日の重要な地位に到達することはできず、民衆とあれほど接近することもできなかった。1947年、211

 ブレヒトは当時のカトリック教会、とりわけローマ教皇庁については、次のように述べている。

教会の描き方
 この戯曲のなかでは、教会は、自由な研究と対立するような場合でさえ、ただ権力当局という役割を果たしているだけである。科学はかつて神学の一部門であったのだから、教会は宗教的な権力当局であり、科学の最終決定機関でもあるのだ。しかし、教会はまた世俗的な権力当局であり、政治の最終決定機関でもあるのだ。この作品が示すのは、権力当局の一時的な勝利であって、教会の一時的な勝利を示すのではない。この作品中のガリレイが決して教会に直接に対決しようとしないのは、史実に即している。対決というような方向をもったガリレイの言葉はひとつもない。ひとつでもそんな言辞があったとしたら、異端審問所のような徹底的な調査期間がそれを暴きださぬはずはなかっただろう。214

 知識なしではひじょうにやっていきにくい時代は、まさに最も切り抜けにくい時代である。知識なしでやっていけるように見える時代には、貧困は極度に達している。もう計算できることが何もなくなり、尺度というものまで焼失してしまっている。手近な目的が遠くにある目的を覆い隠してしまう。手近な目的が遠くにある目的を覆い隠してしまう。こういうときは目先の幸福が決定を下してしまうのだ。1947年、222

[個々の場面についてのメモから]

[狡智と犯罪]
 この戯曲の初稿の最終場は今と違っていた。ガリレイは全く秘密裡に『新科学対話』を書き上げていた。彼は愛弟子アンドレアの来訪を契機に、この本を国境を越えて外国に密輸させた。彼の学説撤回が、決定的な書物を完成するチャンスを彼に与えたのだ。彼は賢かったことになっていた。 
 カリフォルニアの稿本では、ガリレイは彼の弟子の賛辞を拒み、彼の撤回は犯罪行為であったこと、どんなに重要な著作によっても、その罪は帳消しにされないこtを証明する。
 もし興味がある人がいたらいっておくが、これが台本作者の下した判決でもある。


 いうまでもないが、ベルトルト・ブレヒト自身のこと。

ベルトルト・ブレヒト作 岩淵達治訳『ガリレオの生涯』岩波文庫、1979年 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする