時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

人生の一枚:チョン・キョンファ

2010年01月18日 | 午後のティールーム

新春に聴く

 いつの頃からか仕事をしながら、BGMを聴いているという習癖が身についてしまった。これまでの人生で、今ではあまり考えたくもないような仕事にかかわり、常軌を逸した環境と戦わねばならない時期があった。狭い世界にしか生きていない人間の偏狭さ、愚鈍さ、不合理、偏見などがもたらすマイナスの事象が澱のように積み重なってくると、ストレスが高まる。とりわけ、自ら好きでもない管理職を長らく続けていた時は、オフィスにCDカセットを持ち込んで会議の合間に聴いていた。

 以前に記したリパッティのショパンなどもそうした折に頻繁に出動するのだが、同様に登場回数が多かったのは、ヴァイオリンのチョン・キョンファ Chung Kyung-wha だ。この人のヴァイオリンは天上の音楽のように聞こえる。といっても珠玉の如く玲瓏、清涼、クリスタル、というのではない。

 彼女の芸術家人生における苦悩が生み出した、音に込められたすさまじいばかりの情熱と豊かな感情が、紡ぎ出される音に強靱な張りと実質さを与えている。デビュー当時、かつてはたよりなかったような細身の韓国天才少女もすでに60年近い風雪に耐えた大芸術家となり、ジャケットにみるように風格のある容貌となった。若い頃には想像を絶する苦難の時代を経験したようだ。その間、私も公私の仕事にかかわり、彼女の国の友人も多かったのだが、日韓という難しい歴史の関係を越えてわかり合う、心の通った友人を近年相次いで失ってしまった。

 今日の円熟と言われる評価が与えられる以前の、切れんばかりに張り詰めた人間性に溢れた演奏時代の作品が格段に胸を打つ。技巧ばかりに走って、音色は華麗だが心に残ることが少ない演奏家とはまったく異なる強い鋼線のようでありながら、たおやかに切れそうな部分が渾然としている。

 それやこれやで、チョン・キョンファの作品は、かなり多数聴いてきた。とりわけ、サン=サーンス 「ヴァイオリン協奏曲第三番」[L75]、ベートーベン 「ヴァイオリン協奏曲」[dec79]などは、数え切れない回数だ。

 今、平穏な生活に戻った新春の仕事場の空間を充たしているのは、「ツィゴイネルワイゼン~ヴァイオリンヴァイオリン名曲集」[EMI98]だ。小品集で、「ユモレスク」(ドヴォルザーク・ヴィルヘルミ編)、「G線上のアリア」(J.S.バッハ、ヴィントシェベルガー編)、「美しきロスマリン」(クライスラー)、「アヴェ・マリア」(シューヴェルト/ヴィルヘルミ編・ハイフェッツ校訂)などの珠玉の名品が含まれている。このツイゴイネルワイゼンを聴いていると、人間の世界にこんな美しい音があったのかと思うほど、深く引き込まれてしまう。天上から降ってくるような美しさ。生きている間に、この演奏家に会えて本当によかったと思う。

コメント
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