Rembrandt van Rijn The Conspiration of the Bataves 1661-62 Oil on canvas, 196 x 309 cm Nationalmuseum, Stockholm (details).
まもなく国立西洋美術館でレンブラント展(「光の探求/闇の誘惑」、会期:2011年3月12日~2011年6月12日)が開催される。版画が多く、油彩画の出展は少ないようだ。レンブラントのように作品の数が多い画家の場合は、真作のすべてを目にすることはかなり困難だ。ごひいきの画家だけに、これまで主要な作品は目にしてきたつもりだが、画集でしか見たことのないものもある。さらに17世紀美術の難しいところは、画家が意図した主題の意味を理解するのが、現代人のわれわれには容易ではないことがしばしばあることだ。
最近話題とした「クラウディウス・キウィリスの謀議」もそのひとつだ。初めて見た時は、なにをテーマに描いた作品か分からなかった。カタログを読んで漸く理解した。17世紀、当時(contemporary)のオランダの人々ならば、ほぼ教養?として知っていたことだろう。しかし、ギリシャやローマの歴史についての素養に乏しい現代人、とりわけ日本人には一枚の作品を理解することが至難なことになる。
この作品、本来ならば今では「ダム広場の王宮」として知られるアムステルダム市庁舎ホールの装飾の一部となるはずだった。確かにレンブラントの手になる作品だが、短い期間掲げられただけで、画家の手に戻されてしまった。制作報酬も支払われなかったようだ。そして、すぐに別の画家ヨリス・オーフェンスが依頼を受け、フリンクのデッサンを引き継いで完成させた。
レンブラントのこの作品は後年ストックホルムで発見されたとき、原作の四分の1程度に切断されてしまっていた。なぜ、そんなことになったのか。今日でもその謎は解明され尽くしたわけではない。画家が売却のことを考えたのかもしれない。
作品制作の背景
この作品、今でも解明されていない謎を含んだ経緯の下で制作されている。少し、背景を記すと、1659年、市庁舎2階の大広間の四周をめぐる天井の高い回廊を飾るため、市議会の決定によって政治史、軍事史から発想された12点の巨大なアーチ形絵画の委嘱が、画家ホファールト・フリンクになされた。ちなみに、フリンクはレンブラントの弟子であった。この時、すでにレンブラントは破産して、豪邸を去り、零落の身の上だった。
12点のうち4点は、聖書および古代ローマ史の英雄が描かれ、8点にはローマ帝国の知事たちの腐敗に抵抗して蜂起したバタヴィア族の反乱が描かれることになっていた。オランダのことを古くはバタヴィアとも呼んでいた。
この主題の選択は的確なものだった。ローマの歴史家タキトゥスの語ったローマに対するバタヴィア族の反乱は、17世紀、スペインに対するネーデルラントの反乱を暗黙裏に語る象徴と広くみなされていたからだ。言い換えると、スペインに対抗し、独立したオランダの意志を示すものだった。1648年ミュンスター講和で、オランダは独立を勝ち取った。
スペインに対するオランダの反乱はアムステルダムに経済成長をもたらし、その結果として来たヨーロッパ最大の市庁舎が建設されるにいたったのだが、これだけでもバタヴィア族の反乱を取り上げるに十分だった。 しかし、アムステルダム市当局は同時のオラニエ公家にも気をつかい、オランダ共和国の建国の父である沈着なヴィレム一世を「ユリウス・キウィリスの再来」として描かせようとした。政治的には独立していたにもかかわらず、アムステルダムはオラニエ公を支持する「王党派」とも良好な関係を保っていた。1651年に一時的に総督職が廃止されたのちも、オラニエ公家は軍事的指導力を発揮する機会をうかがっており、また広範な民衆の支持を取り付けていた。アムステルダム市当局が回廊の装飾を企画したのも、総督フレデリック・ヘンドリックの未亡人アマーリア・ファン・ゾルムスの訪問に際しての準備の一環と予定されていたようだ。
さて、この主題の絵画化について、最初に委嘱を受けた画家フリンクが制作を続けたならば統一のとれた見事な連作が完結しただろう。しかし、連作最初の主題の水彩素描を遺して、1660年2月に急死してしまう。その後を埋めるため、師匠にあたるレンブラントは「クラウディウス・キウリィスのもとで誓いを立てるバタヴィア人たち」を彼のやり方で描くよう委嘱される。
ユリウス・キウィリスの反乱
AD69年、ローマの同盟であったバタヴィア人が、ユリウス・キウィリス(後年、誤りでクラウディウス・キウィリスともいわれる)に導かれローマに反乱を起こした。この出来事についての唯一の記録は歴史家タキトゥスによるものだった。それによると:
キウリスは隻眼という見かけの不利な点を別にすれば、大変聡明な指導者であった。彼はある日、部族の首領や勇猛な男たちを、晩餐にかこつけて聖なる場所に招集した。夜が更け、宴会が盛り上がった時にキウリスは彼ら部族の名誉と栄光について語った。彼は部族が奴隷化したことによる多くの不正、侮蔑などについて語った。
TACITUS, Histories, 4, 14-15
ローマはただちにバタヴィア人の反乱に終止符を打ち、旧来の同盟を回復した。キウィリスがその後どうなったかは分かっていない。
タキトゥスは反乱の原点となった誓約の様子について記していない。作品では、レンブラントは、首領たちがキウィリスと剣を交わす形で、その状況を描いた。当時のオランダなどでは、誓約者たちが握手する光景が描かれていた。レンブラントは新しい見方を導入したのだ。
夜景がえらばれたのは、レンブラントの著名な明暗法に定評があったからだろう。タキトゥスによれば、バタヴィア人は宴会という名目で洞窟につどい、酒を飲みながら計画を練った。キウィリスの促しに応じて、彼らは「粗野な慣習に従って」反乱の誓いを交わしている。レンブラントはその情景を描こうとしたのだ。
だが、この絵が市庁舎を飾ったのは数ヶ月だったともいわれる。1662年には書き直しのためレンブラントの手元に送り返されてしまった。どのように、そしてなぜレンブラントが書き直すはめになったのかを語る史料は残っていない。レンブラントはいくつかの修整をする気になったようだが、結局市当局との合意には達しなかった。
幸い全体像については、レンブラントが遺した素描から推察することはできる。カンヴァスを切断縮小することで、レンブラントは当初の大舞台のような設定を排除し、誓約の場だけを遺そうとしたのかもしれない。
それにしても、なぜレンブラントは絵が飾られた後に描き直しを求められたのか。そして、なぜこの縮小された作品も、再び回廊に戻らずに終わったのだろうか。数々の謎が残された。しかし、書き記された記録は少なく、推測だけが残っている。
なぜ返却されたのか
この問題の経緯に関してはさまざまな仮説が提唱されてきた。
レンブラントは歴史家タキトゥスの遺したテクストとその行間の含意の双方を描こうと努力したようだ。タキトゥスの記述通り、キウィリスが隻眼の人物として描かれたのも初めてで、これは英雄の描写に品格を求める17世紀の暗黙のルールに反する決断だった。こうした欠陥がある場合、正常な側の横顔を描くのが普通だった。祖国独立を指導した人物は、それにふさわしい容貌でなければならないと考えられたのだろう。さらに、当時の人々は「まるで艀の船頭や泥炭堀りのように描かれたレンブラントの絵の反徒たちの姿に困惑した」(美術史家H・ファン・デ・ヴァールの指摘)。当時のオランダ市民は圧政に抗して立ち上がったバタヴィア人と自らを重ね合わせてみたかったのだろう。レンブラントの描いた叛徒のイメージはどうも合わなかったようだ。
さらに、キウィリスが王冠を戴いていること、反乱の誓約がそれまでの常識とされた握手ではなく、剣を交叉することで行われていること、酒杯を掲げている者がいることなどへの反発もあったようだ。
当時すでに大画家であったレンブラントの作品が、依頼者からかくも無情に突き返されてしまったのか。これまでの話は、あくまで後世の推論にすぎない。真相はほとんど闇の中だ。あえて断定すれば、レンブラントの画風が徐々に時代の求めるものではなくなっていたのだろう。
さらに謎は深まる。20世紀になって、ミュンヘンで見つかった一枚のスケッチから、破産後にレンブラントは一時スエーデンへ身を隠し、北欧神話の隻眼の王オーディンを描いたのではとの推測も生まれた。問題の作品は、今日ストックホルムの国立美術館が所蔵している。かなり記録が残っているレンブラントの生涯だが、闇に包まれた部分も多い。視点を変えると、次々と興味深い問題が浮かび上がる。17世紀美術のあまり気づかれていない魅力だ。