時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

危機の時代:酷暑によぎる思い

2013年08月12日 | 特別トピックス

 しばらく、自由に身体が動かせない時間を経験した。頭脳の方はそれを補おうとするのか、これまで以上に色々なことを思い浮かべ考えてしまう。とりわけ気になるのは、このごろの日本人の「忘れやすさ」だ。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざもあるが、今年の酷暑などは早く過ぎ去ってほしいし、忘れたいことだ。しかし、決して忘れてはいけないこともある。そのひとつを挙げておきたい。

 福島第一原発から海に流出する放射能物質による汚染水が1日300トンに達するという衝撃的なニュースに
言葉を失った。これまでは配水管の漏れで数リットルといった報道ばかりだったのが、突然驚愕すべき水準の数字になっていた。しかも、地上ではなく海へ流出しているという。さらに驚いたのは、当面有効な抜本的対策はないと明言されていることだ! 

 小さな井戸を掘って地下水をくみ上げただけで、これだけの流水を阻止できないことは、素人でも推測できる。あれだけ海への流出が懸念されていたのに、関係者は汚染された水を貯蔵するタンクが果てしなく累積する先に、いったいなにを見ていたのだろうか。結局、その場しのぎの対策しか持っていなかったのではないか。汚染された水が海流に乗って、世界へ広がることを思うと、背筋が寒くなる。被爆国としての体験を後世に伝える努力はなんとか続けられてきた。しかし、
その国が犯したこの出来事はどう伝えるつもりなのか。

 マスコミは総体としてこの衝撃的ニュースを短く報じたが、その後いかなる状況にあるかを客観的、詳細に知らせることなく、ほとんど沈黙を維持しているのはどういうことなのかという疑念も生まれる。3.11の震災と原発事故発生直後は他のニュースなど報じられないほど、汚染拡大への懸念一色だった。責任の追求が、自分たちに向くことを恐れているとしか思えない。情報が積極的に公開されない、秘匿されているということは、さらに疑惑を深めかねない。 

 あの大事故直後ならば、全体像も見えず、多少あたふたしても仕方なかったとしても、すでに2年5ヶ月もの年月が過ぎた時点で、開き直ったような事実が突如明らかにされるとは、この国の企業や政府の危機管理はいったいどうなっているのだろうか。

 やはり「東北都」を創って、政府など政治・経済活動の一部を被災地近傍へ移し、政治家も現場に近く、緊迫度をもって国家の危機に対する気構えが必要ではなかったのかと改めて思う。国家の危機管理の上でも、政治・経済ベースの分散は望ましい。産業の新生や雇用の創出にもつながる。復興ソングは美しい。しかし、現実は言葉にならない。

 原発報道に加えて、この酷熱の夏、全国で大小の災害が相次いでいる。ながらく17世紀への旅を続けてきた。近世初期「危機の時代」といわれた世紀である。この400年余りの間に、人類はどれだけの「進歩」をしたのか。このことを考えるだけでも、われわれは過去からの教訓を十分学んでいないことを感じる。実際、以前に紹介したG・パーカーの新著『グローバル危機:17世紀の戦争、異常気象と破滅(カタストロフィー)』などを見ていると、17世紀と21世紀の前後関係が危うくなるほど近似している。とりわけ戦争がもたらす惨禍は、現代になるほど使用される武器の破壊力が圧倒的にすさまじいだけに、その後の破滅的状況が恐ろしい。再生は不可能に近くなる。世界各地で発生している戦争、紛争、そしてその可能性までふくめるならば、われわれは「危機の時代」に生きているというべきだろう。

 酷暑が続く夜、偶然見たBS1のEL MUNDOなる番組(8月11日、18日再放送)で、ニューヨークのセントラールパーク*2など、市内の大小さまざまなパークで行われている美化、再生や新企画の活動状況を目にした。

 1960年ー70年代にかけては、立ち入ることが危険な場所とまでいわれ、荒廃していたセントラルパークが、今素晴らしい市民の憩いの場に変容していた。パークの中にある『不思議な国のアリス』像を見つけようと、友人と歩き回った日々が思い浮かぶ。当時はヴェトナム戦争の最中、パークにはヒッピーといわれるタイやミャンマーの僧侶のような黄色の衣を身につけた若者たちが、なにをするというわけでもなくたむろしていた。パークの東側を北上すると、多数の美術館が建ち並び、目が洗われるような時間があった。パークは確かに荒れてはいたが、危険を感じることはなかった。広大なパークを吹き抜ける夏の風は爽やかだった。パークの周囲の高いビルなども、パークの美しさを守っているようにさえ見えた。



 その後、3.11という歴史的大惨事を経験したニューヨーク市だが、今は大人も子供も広大な芝生や緑の木々の美しさを楽しんでいる。そして、感銘したのは、危険な場所のひとつとされ、市民からも敬遠されたこのパークが、驚くほど美しく修復・再生されたことだ。ニューヨーク市が財政危機で破綻状態であった頃、市民の自発的な活動で募金が行われ、素晴らしい別天地のように生き返り、輝いてみえた。あの時代、パークばかりでなく、ニューヨークの道路や橋梁などもこれが世界有数の大都市と思うほど荒れ果てていた。

 パーク新生の契機となったのは、あの3.11の出来事だった。あの経験を背景に、市民の間に同じ地域に住む人間としてお互いにもっと理解を深めようという動きが持ち上がり、その具体化を目指して健全で真摯な努力が実ってきた。かつて輝いていたパークの復活はそのひとつだった。晴れた夏の日、セントラルパークの広大な芝の上に寝そべって、木々の間を吹き抜ける爽やかな風と頭上に広がる透き通るような青空を体験してみたいと思う人は多いだろう。大人や子供、犬などが跳ね回っていた。そして、公園のそこここで、小さなコンサートも開かれていた。かつてパークを構想した人たちの理想が再現されている。市民の地域に向ける愛と情熱、斬新で大きな構想と小さな努力の積み重ねが、こうした結果を生む。



 被災地となった東北にいつ爽やかな風が吹くのだろうか。単なる「再生」ではなく、「新生」new bornとなるような構想の再構築と迅速かつ強力な具体化を、若い世代に改めて託したい。そのためには、世界から「新生」のプランを募集してもよいだろう。いまや「福島」そして「東北」は日本だけの関心事ではないのだから。



Geoffrey Parker, Global Crisis: War, Climate Change & Catastrophe in the Seventeenth Century, Yale University Press, 2013.

*2
 セントラル・パークは1857年から1860年にかけて創られたアメリカ最初の都市型の公園である。マンハッタン島のほぼ中心部に、およそ336ヘクタールを占める広大な公園である。1850年頃のニューヨークは階級、宗教、人種、そして政治によって分裂状態にあった。資産階級や名士たちは、街路での暴力や犯罪を恐れ、憂いていた。パークの構想を練った企画者の一人、フレデリック・オルムステッドはパークを市民の教育の場と考え、貧富、アイルランド系移民やエピスコパリアン(アングリカン)教徒が多かった先住白人などのコミュニティを統合する空間にしたいと考えた。候補地に選ばれた地域は、マンハッタン島で最も荒涼として、無法がまかり通っていた。公園の構想と完成に伴う秩序の維持、規則の遵守などの徹底は、公園空間のすばらしさ維持に役立った。1866年にパークには783万人を越える入場者があったが、110人が逮捕されたにすぎなかった。春夏、秋には野外コンサート、劇、冬はスケートなど四季を通して賑わった。その後、時代の推移とともに、パークの性格も変化したが、今もニューヨーク市民の最大の憩いの場であることに変わりはない。
 

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