ジャック・カロ『ロスピス』(ハンディキャップを持った人々の
ための家、病院)
Jacques Callot, L'Hospice, c.1622, Etching 53 x 79cm
The British Museum, London, Department of Prints and Drawings
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重要な情報源であった銅版画
日本列島はどこへ行っても猛暑のようだ。暑さを避けて(?)、17世紀ロレーヌの世界に戻ることにしよう。幸い、行動の制限もなくなった。
これまで鑑賞してきた17世紀ロレーヌの画家ジャック・カロは、銅版画家であったことにより、油彩画などよりもはるかに多くの人々、顧客に向けて、その作品を頒布することができた。イタリアから戻ったカロの工房は、生地ナンシーの中心部におかれた。カロはここから驚くほど多様な次元にわたる作品を発信し続けた。銅版画は通常は単色で彩色されていないため、油彩画のような迫力に欠けるとはいえ、カロの作品は、画題もきわめて広範にわたり、ともすれば視野が限られる当時のヨーロッパにおいて、多くの人に広い世界を見るためのさまざまな情報を与えていた。
カロは貴族たちや貧民を自らの画題にとりあげるに際して、どの程度厳密に意識していたか判然としない部分もあるが、、いくつかの類型に分けていたようだ。貴族層(プリンス、プリンセス)については、このシリーズ前半で、その概略を見てきた。
他方、社会階層として反対の極にあった貧民 paupers の場合は、農民、巡礼、物乞い、ジプシー、放浪者、地域から孤立した人物などを描いている。その際、画家は注意深く互いのグループを区分できるよう配慮していた。
カロのこのシリーズのひとつの特徴は、作品に説明も制作番号も付されていないことにある。それらがあれば、画家の制作に際しての思考方向、社会的評価の順位なども推測できるかもしれない。カロはことさら、それを避け、観る人の評価に委ねたと思われる。
たとえば、カロは当時の「物乞い」 begger に一定の同情や憐憫を感じていたと思われる。同じ人間として生まれながらも、さまざまなハンディキャップによって、社会の他の人々から施し alms (聖書:善行)を受けねば生きることができなかった人たちへの思いである。ローマ、フローレンスあるいはより小さなナンシーなどの都市は、いたるところこうした貧民たちで溢れていた。
画家カロがナンシーの町へ出れば、ただちに貧しい人たちを目にした。カロが修業したフローレンスでも同じであった。ナンシーのカロの工房は、町の中心部のきわめて立地の良い場所に位置していたが、貧民はそこでも多数見られた。多くの宮廷画家は貧民を画題にするようなことはなかったが、カロの画家として天性、素晴らしい点のひとつは、決して貴族層の好む題材ばかりを描いていたのではないことにある。
巡礼の旅
この時代、世の中には多くの苦難や不安が満ちており、それを背景として自らの心の救いやよりどころを求めて、さまざまな聖地へ巡礼する人たち、巡礼者も多かった。彼らの身なりは質素であり、しばしば長旅に汚れた衣服を身につけていた。キリストやその使徒たちも、基本的に富や華美を求めず、簡素な生活を旨としていたこともある。大きな町や巡礼者が旅する地では、信仰のために旅をする人々に、教会や修道院が食事、時には宿泊の場所を提供していた。また、宿泊費を支払える人たちには安価な旅籠屋もあった(下図)。
ジャック・カロ『旅籠屋』
Jacques Caoolt, L'Auberge, from Capricci
c.1622, Etching, 57 x 79 mm
Albert A. Feldmann Collection
巡礼者を装う物乞い
しかし、なかには巡礼者に扮した偽者も多く、巡礼者と単なる物乞いの区分をすることは、当時の世俗社会での必要事であった。これらの偽巡礼はしばしば犯罪などにもかかわっていた。
画家は物乞い beggers は汚れ、破れた衣類、靴をはいていない、帽子が破れているなど、細かに観察して描き分けていた。カロにとって、重要な課題のひとつは、単に教会や土地の人々から施しをうけて生きている物乞いと、宗教的な目標を抱いて、巡礼などの旅の途上にある者を区分することであった。このことはその当時、日常さまざまな機会に彼らに対していた社会の人々にとって、生活上必要なことでもあった。カロやカラッチなどが描いた貧しい人たちを、いかに理解するか、その後も多くの論争が繰り広げられてきた。
カロは当時の社会階層の大多数を占めた農民については、しばしば農具や動物と共に、そしてなによりも屋外で働く姿で描いている。基本的に彼らは家族で農地を耕し、質朴そしてしたたかに生きていた。カロは、土地に束縛され、重税に苦しみながらも、懸命に働く彼らに同情の心を抱いていたようだ。
物乞いと巡礼者の区分
他方、物乞いで生活する放浪者はほとんど家族はなかった。家庭を持てるだけの生活上の物的、精神的安定もなかったのだろう。家族は離散していたり、母子家族など、生活上安定した状況ではなかった。現代の目で、カロの作品をつぶさに見ると、そこには身体上の障害を持った人たちがきわめて多いことに気づく。杖をついたり、目が不自由なために、犬を連れた老人などもいる。簡単なカートに座って、他の人に押してもらっている人たちもいる。なんとなく、高齢化が進行した日本の一面を見るような思いもする。
カロは貧乏や貧困は、この世に生まれて以降、多くの場合その人にとって生涯つきまとう条件と考えていたようだ。実際には戦争や飢饉などが原因で、貧困から抜け出した者、あるいは逆に貧困に陥った者などの個別の違いはあったようだが、概して人々は自ら生まれ育った地域、家族、階級などの制約によって、社会における位置を定められていた。カロが残した作品は、こうした社会の最下層部におかれた人たちの状況、生活を理解する上で貴重な資料でもある。
国家による社会保障など存在しなかった時代であり、人々は個人の持つ力を軸に、自ら定められた人生を懸命に生きていた。しかし、生活の手段を奪われ、他人の善意にすがるしか生きるすべがない人たちはあまりに多かった。他方、少数で特権的階級である貴族は、優雅な暮らしを享受し、時に功労や名誉に応じ、君主から年金を授与される慣行もあった。しかし、これはあくまで君主が与える褒賞、功労金の一種であった。
個人の出自は、その後の人生を決定的に定めていた。カロやラ・トゥールは才能、努力、運などに恵まれ、例外的に社会階層を昇り、貴族に叙せられ、画家としても恵まれた人生を送った。こうした事情もあって、多くの画家は宮廷などの限られた社会で認められるための作品制作に専念し、彼らの外の社会に多数存在する貧民の姿に創作意欲をかき立てられるようなことはなかったようだ。
しかし、カロはこうした社会通念をかなり逸脱して、社会の下層に位置する貧しい人たちを積極的に描いた。カロは概してこれらの人たちに同情、憐憫の念を抱いていたようだ。若いころ、祖父の代以降、維持継承されてきたロレーヌ公の宮殿に関連する仕事に就くことに反発し、家出のような形でイタリアに画業修業に行ったカロにとっては、悲惨な状況にありながらも、自立して生きている貧しい人々を画題としても、排除することはなかった。唯一の例外は、ヨーロッパ各地で放浪の生活を送っているジプシー(最近はロマ人とよばれることもある)に対してであった。、彼らに対する当時の社会的受け取り方も反映して、こそ泥、詐欺を平然と行う者として、警戒、侮蔑の感を抱いていたようだ。この点については、いずれ詳しく記すことがあるかもしれない。
ジプシーは、地域に定住することなく、家族や仲間で、時には多くのキャラヴァン(馬車などの隊列)を組んで移動していた。しかし、描かれた画題で農民と大きく違うのは、ジプシーの場合、詐欺や掏摸などの犯罪を犯している場面が多い。実際、この時代、ジプシーは村や町を渡り歩き、日用品の修理、農作業の手伝いなど小さな手仕事をしながらも、そうした悪事に手を染め、各地を放浪していたようだ。そして、そのイメージはすでにヨーロッパ各地で、多くの人々の見方にしみ込んでいたらしい。
ジプシーを含めて、カロの他の『貧民』グループについては、改めて記したい。どう見ても夏向きの話題ではありませんね。
Jacques Callot, Le Mendiant au couvot
ジャック・カロ『手を温めている物乞い』
続く