「春闘」という文字が、久しぶりに新聞などメディアのトップに散見されるようになった*。日本に特有な労使慣行でもあり、英語では spring wage offensive などと訳されることが多い。しかし、背景を知らない外国人にとっては、なんのことか全く分からないだろう。アメリカなどでも、かつて「パターン・バーゲニング」と呼ばれた産業別の独特な賃金交渉が、自動車、鉄鋼、鉱業などで行われたことがあったが、今はほとんど消滅した。労働組合自体が衰退し、雇用労働者10人のうち組合員はひとりくらいしかいない。
この言葉、少し考えてみると日本人にとっても、分からないことが多々ある。とりわけ、非正規雇用の多い若い世代の人たちには、今頃「春闘」などといわれても、それなあにという感じではないか。その概念にしても、辞書によると、「春季闘争の略であり、1955年以来、毎年春に、賃上げ要求と中心として労働組合が全国規模で一斉に行う日本独特の共同闘争」(『広辞苑』第6版)とされてきた。元来、「闘争」としてみられてきたのだ。
遠い存在になった「春闘」
この言葉に接して人々が抱くイメージも、そして実体も大きく変わってしまった。かつてはしばしば交渉過程でストライキなどの争議行為もあり、私鉄などが運行停止したこともあった。春闘という賃金交渉は、労使という当事者ではない一般の市民にとっても、その存在を身近かに感じるものであった。
こうして春闘は、一時は華々しく新聞などの紙面を飾ったこともあったが、1990年代のバブル崩壊後、急速に存在感が薄れ、当事者の意向などもあってか、「春季賃金交渉」など、より分かりやすいがインパクトの小さな用語に変わってきた。
長く続いた不況の過程に、賃金引き上げなどの恩恵を受けたことがない若い世代の労働者にとっては、いまさら春闘といわれても、自分たちには関係ないことと受けとっている人たちも多いかもしれない。業績好調の企業の従業員だけが、企業の利益増加に応じた報酬、処遇を求めているだけのことと考える労働者もいるようだ。
賃金交渉であるからには、当事者は経営者と労働者あるいはその組織であることは予想されるのだが、その当事者の実体はどう考えるべきなのか。経営者側としてメディアに登場するのは、概して経団連などに加盟している有名大企業である。中小企業はどう位置づけられているのか、よく分からない。
他方、労働者側は、概して連合加盟の主として大企業の正社員の組合であり、パートタイマー、派遣社員、契約社員、などの非正規で未組織の労働者は交渉の当事者となりえないばかりか、春闘の影響範囲に含まれるのかも定かではない。
こうしてみると、春闘の当事者となりえて、交渉のカバーする範囲に含まれるのは、主として大企業の正社員(組合員)に限られるとも考えられる。業績好調な大企業の正社員はベアが期待できても、利益の出ていない中小零細企業で働く労働者や労働組合のない多くの派遣社員や契約社員は傘の外になる。
組合(正社員)にとっての緩衝装置?
本来、労働組合は組合のメンバーの地位や利益を擁護する組織であり、組合に加入していない労働者は、対象外であるばかりでなく、同一企業内では、正社員でもある組合員の地位を擁護する上での安全弁のような存在になっている。分かりやすい例をあげれば、雇用調整を行う場合には、最初に削減対象となるのは、組織されていない非正規社員である。かくして、組合員である正社員の地位は、組織されていない非正規といわれる労働者の存在によって守られてきた。
日本が高度成長を続けていた時期には、こうした組織の外に置かれた労働者も、組織された大企業などの組合が獲得した賃上げの余波を、いわば「おこぼれ」(スピルオーバー、spillover)として恩恵に与ってきた。
このたび、ようやくめぐってきた賃上げの機会に、連合などの指導者は、(多くは未組織である)中小企業や非正規の労働者へも応分の配慮をしてほしいと述べているが、単なるリップサービス以上の意味が込められているのか、真意はほとんど伝わってこない。労働組合を組合員以外の非正規労働者の利害をも代表する者と考えることは、長い歴史的事実の蓄積からも危うい解釈となる。現代の民主制、とりわけ職場民主制論の再構築につながる課題でもある。
労働組合の連合体などが、未組織の労働者への賃金引き上げの波及に言及することは、他の国でもみられるが、実質的に行動が起こされ、組織化などが顕著に進んだことはきわめて少ない。労働組合が未組織労働者をバッファー(緩衝材)のように、位置づけてきたことに原因がある。
こうしてみると、、日本の労働者の5人にひとりしか組合員でない労働組合が、労働者全体の利益を代表しているとは、とてもいえない状況にある。冷静に考えれば、未組織である労働者の方が、日本の労働者の大多数であり、主流なのだ。この意味でも、筆者は「正社員」(企業に正規に採用されフルタイムで働く労働者。また、長期の勤続を前提とする常用労働者。「広辞苑」第6版)という用語と使い方に強い違和感を抱いてきた。
デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ノルウエーあるいはベルギーなどのように、ヨーロッパで労働組合の組織率(通常、雇用者全体に占める組合員の比率)が50%を越えるような国では、たしかに労働者の主流は組織労働者なのだが、そうした国は数少なくなった。日本(2012年推定17.9%)やアメリカ(推定11.9%)のように組織率が低い国の場合は、主流は明らかに未組織労働者なのだ。
「日本的雇用」なる特徴の構成にも、かねがね違和感を抱いてきたが、もし「日本的」なる要素を見出すとすれば、多数部分のサンプルから抽出されたものであるべきだろう。少数部分のサンプルから抽出した特徴をもって、多数部分(未組織、中小企業など)を概念化、一般化するのは、本末転倒に近い。
鏡に映るものは?
さて、今回久しぶりに巡ってきた賃上げの機会も、環境を含め内実ともに、以前とはまったく異なったものに変容している。「春闘」は紙面に出てきても、「ストライキ」や「争議行為」の文字は出てくる可能性もない。ほとんど「死語」のようになってしまった。一時は年間5千件を越えていた争議件数も、近年は50件以下である。
日本の労使関係の理解について、疑問は尽きないのだが、筆者はそれでも、あるいはこうした状況だからこそ、労働組合の存在とその活動の必要性を強く主張したい。このままでは絶滅種の運命をたどること必至だ。そのためには、思考の大きな革新が欠かせない。現代の組合はなにか大切なものを失ってしまったように思われる。もう一度、原点に立ち戻り、自己否定をするほどの覚悟と距離を置いて、自らを時代の鏡に映してみる必要があると思うのだが。
*「春闘:期待と苦悩」『朝日新聞』夕刊 2014年2月5日1面
* 平成24 年労働組合基礎調査(上掲グラフ出所)
http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/toukei/