Jacques Callot
Les Gobbi, BdN, Paris
ジャック・カロ(1592-1635)の企画展(国立西洋美術館)が近づいてきた。この希有な銅版画家については、さまざまなイメージが思い浮かぶ。17世紀を代表する銅販画家でありながら、一般に知られた戦争の惨状を描いた作品ばかりでなく、その反面でファンタジーに溢れ、ダイナミックな創造的作品を多数残している。戦争の世紀ともいわれる過酷な時代に身を置きながら、それに押し流されることなく、冷静な目で時代の隅々まで目を配りながら、ファンタジーの世界でも同時代の人々ばかりでなく、21世紀の現代人でも瞠目するような創造の成果を開花させた。
後者のファンタジーに溢れた作品は、前者のリアリスティックな作品に比較して、日本ではあまり知られていない。画家の天才的ともいうべき空想・幻想の力を存分に発揮した作品には、あっと驚くような人物や仕掛けが次々と繰り出される。現代人の目からすれば、時に当時の人々にとっても、グロテスクに感じられるようなイメージも提示される。いったい、これはなにを描いたのだろうと思わせる奇矯な人物も次々と登場する。しかし、それらは画家の時代を踏まえた確たる創造力の冴えが背後で支えていた作品だった。
17世紀理解に不可欠な画家
ジャック・カロはジョルジュ・ド・ラ・トゥールと並んで、17世紀ロレーヌ、そしてヨーロッパの世界を理解する上で欠くことの出来ない画家だ。カロの場合は、ラ・トゥールのように長い間歴史の闇に埋もれることはなく、現代にいたるまでほぼ正当な評価を受けてきたといえるだろう。これにはその作品の素晴らしさとその広範な普及を助けた銅版画というメディアが、大きな役割を果たした。カロの作品に影響を受けた画家、文学者は枚挙にいとまがない。
このブログでも時々記してきたが、カロはラ・トゥールの1年前に生まれ、43歳という働き盛りに世を去っている。その間に残した作品は1400点を越えるといわれる。画家が銅版に刻み込んだ光景はきわめて多岐にわたり、今日その作品世界を知るためには、時代背景の理解を含めて、鑑賞する側にかなりの努力が必要となる。
画家としてひたすら生きたい
ここでは、カロが銅版画家を志し、修業過程を経て独り立ちするまでの跡を少し追ってみたい。ナンシーの貴族の家系に生まれたジャック・カロだが、父親ジャンはロレーヌ公の紋章官(宮廷の祭事、紋章などの管理を行う)であったこともあり、父親ジャンは教会の司祭のような聖職か自分のような宮廷官吏への道を選ぶのが当然と考えていたらしい。しかし、ジャックは絵を描くこと以外はまったく関心なく、学業は徹底して嫌いだった。そして、先にイタリアへ行った友人の手紙などに刺激を受け、家出をしてローマへ行こうと試み、志半ばで連れ戻されることなどがあったようだ。
カロの両親は度重なる説得にもかかわらず、息子が画業以外にはまったく関心を示さないことで、ついにイタリアへ修業に行くことをしぶしぶ同意した。この折、ロレーヌ公シャルルIII世が亡くなり、公位継承者アンリII世はローマへ状況を知らせる特使を送ることになった。ジャックは父親の力もあったのだろう、この特使の随員に加えてもらい、ローマを訪れることができた。
ナンシーを出発したのは1608年12月1日と記録されている。翌年年初にローマに着いたジャックは、子供時代の友人で一足先にイタリアへ行っていたイスラエル・アンリエ Israel Henriet とも再会することができた。
ローマで解放されたジャックは、水を得た魚のように活動を始めた。最初は画家テンペスタ Tempesta の工房で修業したといわれる。さらにフランスの版画家で当時はローマに住んでいたフィリップ・トマッサン Philippe Thomassin の工房で3年近く働き、銅版画の技術を完璧に修得した。
画家としての自立
1611年の末になると、フローレンスへ移り、当時画家・銅版画家として活躍していたジュリオ・パリジ Julio Parizi の下へ身を寄せた。この時期、トスカーナは以前にも記した天文学者ガリレオ・ガリレイも支援していた熱烈な文芸・美術愛好者でもあったメディチ家のコジモII世が統治していた。幸いカロの後援者にもなってくれて、カロはたちまちその潜在的な能力を発揮し始めた。
1615年、トスカーナ大公はウルビノのプリンスのために大きな祭事を企画しており、カロはこの祭典の記録版画を制作するよう依頼された。これは、カロにとってその後の名声を生み出すことになった仕事だった。そして、翌年にはパリジとの間での雇用契約も終わり、カロは独立した親方職人となった。
カロは自らのオリジナリティを発揮した最初の作品 "Caprices" を斬新なデザインで構想し、"Varie figure di Gobbi, di Iacopo Callot, fatto in Firenze l'anno 1616"と題したシリーズとして製作した。カロは後に故郷ナンシーに戻った時に再彫しているが、その前書きに、「美術的価値あるものとして制作した最初の作品」と記している。他人に依頼されて製作したものではなく、自らが主題を構想し、下絵を描き、銅版に彫刻するという、独立した画家としての喜びと自負が感じられる。ローマで働いていた当時は、カロは下絵を描き、彫り師が別にいた。
このブログには、"Gobbi"(背中の丸い、猫背に人の意味)と題されたシリーズから、数枚を掲載してみた。いずれも奇妙にデフォルメされ、不思議な印象を与える作品である。当時の祝祭のコメディ、仮面劇や町中で見られた音楽師などの姿を、画家がシリーズとして構想したものだ。
これらの作品は一見、グロテスクにも見えるが、当時のフローレンスの祭事の一部を写したものであり、フローレンスの人々にはなじみのある場面の数々であった。多くの作品は当時上演されたコミカルな場面であった。
特に毎年10月18日の聖ルカの日に Imprineta と呼ばれる盛大な祭礼が開催され、多数の人々が楽しみに参集した。これらの光景を描くことはカロが得意とするところであった。
続く
Jacque Callot. Les Gobbi
BdN, Paris