時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

カードゲーム・いかさま師物語(1):ギャンブラーとしてのリシュリュー(1)

2015年02月05日 | いかさま師物語

Philippe de Champaigne(1602-1674) and studio
1642?
Oil on canvas, 58.7x72.8cm
London, National Gallery 

画像はクリックで拡大


 

  前回お約束の通り、17世紀に飛ぶことにしました。このイメージ、誰かはすぐにお分かりでしょう。ブログにも度々登場しました。名前はアルマン・ジャン・ドゥ・プレシ-・ド・リシュリュー Armand-Jean du Plessis de Richelieu, 歴史上は、リシュリュー枢機卿および侯爵(1585-1642) として知られる有名人物のフルネームです。

 あのアレクサンドル・デュマがそれからおよそ200年後の1844年、剣豪小説『3銃士』 Les Trois Mousquetaires において、アトス、アラミス、ポルトスの三銃士と組んだダルタニアンとともに登場させました。リシュリューを三銃士に対する悪役に仕立てて書いたことで、その名をさらに世界に広めました。このリシュリュー枢機卿、17世紀の代表的政治家ですが、現代にあって再び、さまざまな点で話題になっています。リシュリュー枢機卿あるいは宰相リシュリューは、実際にはいかなる人物であったか。新たな史料の丁寧な読み込みなどもあって、これまで世の中で形作られてきた宰相リシュリューのイメージとは、かなり異なる人物像が浮かび上がってきました。

肖像画の重要さ
 写真がなかった時代、肖像画はその人物の性格をイメージするにきわめて大きな役割を果たしてくれます。リシュリューを描いた画家は、数多いのですが、この作品は枢機卿が最もごひいきの王室画家フィリップ・ド・シャンパーニュに、前面と左右側面から描かせた珍しい肖像画です。描く画家も、描かれる枢機卿も双方が自信を持っている作品といえるでしょう。どこから見ても、頭脳が冴えた抜け目なく、3方隙がない用意周到な政治家であり、しかも聖職者(枢機卿)でもあるという構図です。リシュリューが望んだように、肖像画はフランスの偉大さを生み出した重要な政治的プレーヤーの姿として画かれています。赤い枢機卿の衣装が白い襟に冴えわたって、美しく描かれています。

ラ・トゥールとリシュリュー
 リシュリューは1585年に生まれ、1622年にはカトリック教会の枢機卿となり、1631年に彼が仕えたルイ13世と国家への功績により、リシュリュー侯爵に任じられました。

 他方、これもこのブログに登場する主要人物である画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1595-1652)も、まさに同時代人です。権勢並ぶ者なき枢機卿に対比して、ロレーヌの小さな町のパン屋の息子から身を起こした画家ラ・トゥールは、リシュリュー枢機卿に作品『聖ヒエロニムス』を贈呈しています。あの砂漠で自らを縄打ち、苦行する聖ヒエロニムスの傍らに赤い枢機卿帽が画き込まれた作品です。ヨーロッパにその名を響かせた宰相リシュリューに献呈し、自らも画家として名を挙げたいという画家の思いがこもった作品です。

 この時代、リシュリューはフランス王を介して自らがフランスを支配していたといわれた一大政治家でした。ラ・トゥールにも覚えめでたく?フランス王の王室画家の肩書きが授けられました。リシュリューに贈呈された作品は、リシュリューの死後、枢機卿の衣装部屋の中から発見されています。生前、ラ・トゥールは王室が全費用を負担し、パリのルーブル宮に招かれており、リシュリューに謁見の機会があったことは間違いないでしょう。もしかすると、ルイ13世にも会っている可能性もあります。当代きっての文人といわれたリシュリューの知られなかった側面も、かなり明らかになってきました.

  リシュリューは宰相でもあり、フランスの歴史家たちは18世紀、19世紀の絶対王政の設計者として、リシュリューを賞賛してきました。現代きっての外交官のひとりヘンリー・キッシンジャーは、その著『外交』Diplomacyにおいて、リシュリューを「近代ヨーロッパ政府システムの父」と位置づけています。『三銃士』でリシュリューを悪役としたアレクサンドル・デュマのような文豪でも、フィリップ・ド・シャンパーニュの肖像画に描かれたような明晰で、熟達した手腕の持ち主であったリシュリューの臨機応変の才にしばしば賛辞を送らざるをえなかったのです。

変わってきたリシュリューの位置づけ
 しかし、リシュリューが実際にいかなる人物であったかについては、デュマの『三銃士』などのイメージが強く影響し、眞実のところは必ずしも明らかではありませんでした。リシュリューはフランス史上、実績、風格その他の点で時代を代表するひとりの重要な政治家のモデルと考えられてきました。最近、話題のブランシャールの伝記などは、この点を大方裏付けています。しかし、これまでリシュリューに与えられていたような理由からではありません。

 リシュリュー枢機卿は壮大な制度(たとえば近代的な行政府や合理的な国際秩序)を構想、建造するようなタイプの政治家ではなかったようです。また、キッシンジャーが考えたような存在意義 raison d'etat のある国際秩序を創設するというようなタイプでもなかったと考えられるようになりました。さらに、リシュリューは国益を道徳あるいは宗教的命令より上に位置づけたり、近代ヨーロッパの国家システムを国家権力をバランスさせながら維持するといった構想の持ち主でもなかったようです。こうした考えはリシュリュー没後6年ほどして締結にいたったウエストファリア条約によって、初めて形を表したと考えられます。他方、リシュリューは、のるかそるかの大きな賭ができる偉大な政治家のひとりと 考えられるようになりました。彼にとっては、なにをなしとげるかよりは、どう行ったかということが大事であったようです。

17世紀的テロリズム
 現在進行中の「イスラム国」およびイスラム過激派の残虐なテロリズムによって、フランスのオランド大統領は一時的にせよ、政治的窮地を免れ、ポイントを稼いだといわれています。確かにフランスばかりでなく、各国首脳はいまやテロリズムへの対応で、右往左往の時を過ごしています。実際、「イスラム国」やイスラム過激派が行ったテロリズムの実態は、あまりに非人道的、残酷の極みであり、到底許しがたいものであり、その対応で政治の空白が生まれたのも当然ではありました。

 17世紀フランスの宰相リシュリューが置かれた状況も、現代のわれわれがTV画面を通して知らされるような残虐、非道、目を背けるようなものでした。リシュリューは17世紀ヨーロッパにその名を知られた辣腕政治家のモデルでした。しかし、リシュリューの政治的キャリアを彩った状況は、華麗とはほど多く、しばしば残忍で予測し難い緊迫した政治的環境でした。

 リシュリューの人生で経験した最初の二人の王、アンリIII世(Henry III), アンリIV世(Henry IV)は、二人とも暗殺されています。リシュリューは1610年のアンリ4世の暗殺後、国民に知られる著名人物となっていきました。ルイ13世は権力志向のきわめて強い母親マリー・ド・メディシスとの対応で心理的に圧迫され、かなり鬱屈した日々を過ごしていたようです。それを知って、貴族たちは再三にわたり反乱を仕掛けました。ルイ自身が自らの母親マリー・ド・メディシスに対して謀反の行為を重ねていました。そのひとつがマリーがイタリアから同行させ、重用してきた寵臣コンチーニの暗殺でした。路上で射殺された死体をはポン=ヌフで八つ裂きにされたと伝えられています。リシュリューは馬車ではあったが、その現場に出くわしたようです。さらに、コンチーニの妻は、魔女として告発され、断首されました。

 当時の宮廷の事情は、こうした貴族の謀反や裏切りが頻繁に起きる、きわめて残酷きわまりないものでした。王を含めて大貴族たちは、絶えず刺客などの暗殺者に狙われており、リシュリュー自身、刺客に襲われるなど同様な危険に陥ったこともあり、身辺警護は厳重でした。馬車の下に爆弾を仕掛けられたこともあり、パリの町中に視察などに出る時は、マスケット銃隊、伝令などでまわりを固めていました。

ギャンブラーとしてのリシュリュー
 最近のリシュリューに関する研究が明らかにしたところでは、これまでに築かれてきたリシュリューの政治家としての高い評価にもかかわらず、実際には、リシュリューはフランスの将来に大きな構想を抱き、壮大な制度構築を目指していた指導者というイメージではなかったようです。

 現実のリシュリューは、その生涯において、互いに分裂し、しかし恩義もある、そして統治システムとしても機能不全をもたらした強大な諸勢力と戦い、自らの影響力をさまざまに行使して、生きてきたといわれています。

 当時のフランスの政治は乱れ、邪悪な意図を持ったものたちが百鬼夜行の状況でした。そのためリシュリューの統治は、実際は複雑きわまり、一時は麻痺状態にあったともいわれています。

 ここで、時空をひと飛びして、現代に戻り、もし彼が今日のアメリカ、ワシントンにいるとしたら、その力量が十分発揮できて大変居心地がいいのではないかという冗談かほんとの話。   (続く)

 

ギャンブラーとしてのリシュリュー(マンガ)

Source: Bell, Foreign affairs, March/April 2012




References
David A. Bell, 'Poker Lessons From Richelieu: A Portrait of the Statesman as Gambler' Roreign Affairs, March/April 2012

Jean-Vincent Blanchard, Eminence:Cardinal Richelieu and the Rise of France, New York: Walker & Company, 2012.

コメント (2)
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