テロリズムの15年間
西ヨーロッパ、2001年9月11日ー2016年3月22日
2人以上のを死者を出した場合:
ひとつの□が、死者一名に相当。
Source: 'The end of insouciance', The Economist March 26th 2016
地球上の各地で相次ぐ残酷、悲惨なテロ事件、地震、豪雨、気温上昇などの自然災害・・・・・。人災、天災を問わず、いずれもこれまで経験した規模を上回る。なにか根源的な大きな変化が起きているのではないか。実はこう思うことはそれほどおかしいことではない。このブログでも時々紹介したが、自然科学、社会科学などの研究者などの間で、こうした考えを抱く人々が増えてきた。さらに社会学者自らがこれまでの社会学理論では到底説明できない、社会学者はお手上げ、破産(店じまい)!というコメントにまで出会った(幸い?、筆者の専門は「社会学」ではない)。
他方、社会学に限ったことではないが、現代社会に起きている諸変化を体系的に解明、説明できる理論には、まだ出会ったことがない。いずれも、現代の世界に起きている事象を十分説明できないか、まったく無力に近い。多くは起きたことを別の言葉で述べているだけのことだ。
心配のない時代の終わり
上に掲げた統計が掲載されている歴史ある著名雑誌記事の表題は「心配のない時代の終わり」✳︎となっていた。記事の内容は昨年のフランス、ベルギーなどヨーロッパ諸国でのテロリズムの続発の回顧になっているが、数字でしめされたテロ事件の推移を見ると、今世紀初頭からテロによる犠牲者の数は確かに急激に増加している。この統計の後の時期には、さらに発生件数が増加した。日本人8人(内7人死亡)が痛ましい犠牲者となったバングラデッシュ、ダッカ・テロ事件、続いてイラク、バクダッド空港での死者約250人、負傷者200人余を出したテロ事件など、テロリズムの発生事象も自爆テロなどが増加し、20世紀とはきわめて異なった状況になっている。
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'The end of insouciance', The Economist March 26th 2016
insouciance の語源は、18世紀フランス語のinsouciant (in 'not' + souciant 'worrying' (saucierの現在分詞)。心配のないこと、無関心、のんき
Ulrich Beck, the Metamorphosis of the World, Cambridge, UK, Polity, 2016(cover)
昨年初めに亡くなったドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック Ulrich Beck (1944-2015)の遺稿ともいうべき著書(上掲表紙;英語版)が送られてきたので、手にとってみると、 「世界の変容」The Metamorphosis of the World, 2016 という表題がつけられている。 metamorphosis という概念は、どちらかというと生物学などで使われることが多い言葉で、蛹(さなぎ)から蝶に脱皮するような名実ともに、大きな変化を意味している。このブログでも、何度かベックの考えについては記してきた。
今回、ベックは遺稿となった本書の冒頭でかなり衝撃的な表現で語っている:
世界はタガが外れている。多くの人が感じているように、このことは言葉の二つの意味で正しい:世界は接ぎ手がなくなりばらばらになって、狂ってしまった。われわれはああでもない、こうでもないと、議論しながら、さまよい、混乱している。しかし、世界中の敵対意識などを超えて、あらゆる地域で多くの人々が同意できることは、「世界はどうなっているかもはや分からない」というこどだ。
世界でも傑出した社会学者のベックがいわんとすることを、ブログなどの小さなスペースで説明することは不可能に近い。ここではわずかに一部分を紹介するにすぎない。元来、ここに紹介する本書は、ベックの名著「世界リスク社会」 Weltrisikogesellschaft (2008)に続く思想のスタートラインを構成するはずだったが、著者が2015年1月1日に急逝し、課題は未完成のままに残されている。本書はその意味で、ベックが今後に構想していた仕事の新たな出発点での見通しともいえる。ベックは本書で、「社会における変化」change in society と「世界における変容」metamorphosis in the world を区別すべきだという。社会学者の概念としては、この表現で内容が推測できるのかもしれないが、筆者にはあまりしっくりこない。これからの時代は、むしろベックの旧著のように、混沌とし、多くのリスクがいたるところに横たわるかつてなく困難な時代であるように思われる。
「変容」という概念が適当かどうかはひとまずおいて、ベックが例示するように、世界的な気象異変が起き、海水温度が上昇し、北極、南極の氷が解けて、海面が上昇、かつての海岸線が変化している。気象変動をもたらしている原因は、かなりの程度まで確定されてはいる。他方、原因に対する政策、たとえば自然エネルギーの活用などでに、世界にはこれまでにはない変化も生まれている。そうした動きの上に、世界の「変容」が進行していることが語られている。
「変容」という概念には、ひとたびあるステージ、たとえばさなぎが蝶になると、しばらく相対的に安定した時期が保証されるというイメージが筆者にはある。しかし、来たるべき世界は、はるかに混沌とし、不安定で、ひとつの定まった路線をイメージし難い時代に見える。破断の危機はいたるところに潜み、突如として人間をしばしの平穏から恐怖や混迷の世界に押し戻す。しかし、わずかな救いは、そうした災厄、破断につながりかねない危機のいくつかは、過去の経験の累積で見えている。あるいは、なんとか対応することが可能である。
このブログを開設した当時、題材とした17世紀ヨーロッパは、世界史上例を見ない「危機の時代」であった。その後の世界は、度々の大きな危機をくぐり抜けてきた。危機の性格、内容はそれぞれ姿を変え、次第に対応が厳しくなっている。前方に広がる見えにくい世界をあえて見通す力を貯え、危機を乗り越える新たな努力が必要な時だ。そのためには、これまで以上に、広い次元を展望しなければならない。結論は飛ぶが、教育段階におけるリベラルアーツの必要性を今ほど感じることはない。