時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​額縁から作品を解き放つ(1)

2022年09月20日 | 絵のある部屋
  


現代の人々が油彩画などの美術品を観るのは、主として美術館、展覧会、画廊、個人の所有などの場である。ほとんどの場合、作品は額装されている。作品を観る一般の人たちは、小品や大作の違いはあっても額縁で限られた次元に描かれている限りで、作品を鑑賞し、評価を行う。額縁も時には作品を凌ぐのではないかと思われるほど、精巧、美麗なものもあり、画面より額縁が目についてしまうという場合もないわけではない。

作品の独立性と可搬性を確保するために額縁が生まれた背景については、下記の書籍が興味深い。
望月典子『タブローの「物語」: フランス近世絵画史入門』慶応義塾大学三田哲学会、2020年

しかし、美術史などの進歩もあって、人々は作品の額縁という制約から解き放たれた背後の世界へと評価、鑑賞の次元を拡大していった。美術史の専攻ではないが、筆者の場合も感動を受けたごひいきの画家については、図らずも美術史の研究者以上に画家や作品の追跡、活動した地での実地調査に近いことを半世紀近く行なってきた。そのひとつの表れが、このブログにメモ代わりに記したジョルジュ・ド・ラ・トゥールやL.S.ラウリーである。

実際にこれらの画家の作品を鑑賞するに当たって、作品が制作された時代の政治・経済、文化などの社会的環境、さらには宗教的背景などを考慮することなく作品を鑑賞することは難しい。制作に際し画家あるいはパトロンなど当時の人々が思い描いたイメージとは異なった受け取り方で、現代の鑑賞者が観ていることは十分考え得ることだ。

現代の作品ならともかく、作品が創り出された時代から数世紀を越える時が経過した場合など、現代の鑑賞者が作品を観て思い浮かべる内容との間に大きな乖離が生まれるこはむしろ当然なのだ。イコノグラフィー(図像学)などが生まれたのは、ひとつには作品が制作された時代に意図された通りに、後の時代の鑑賞者が理解、鑑賞できるためとも言える。

我々は作品を正しく観ているのだろうか
ブログ筆者が時折強調してきた「コンテンポラリー(同時代)の視点」に立ち戻るとは、ひとつには作品が創り出された時代の状況に我々が近づくためには何をしたらよいかという問題を提示することになる。

美術史の流れにおいても、この問題領域でいくつかの学派が生まれてきた。これらの問題に近づくために新しい美術史学も生まれた。ここで取り上げるのは、イギリスの美術史家マイケル・バクサンドール(1937~2008)の『15世紀イタリアの油彩画と経験』と題した著作である。

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Michael Baxandall's Painting and Experience in 15th Century Italy, Oxford University Press, (1972), second edition 1988
最初は1972年に出版されて以来、各国語版に翻訳され、第2版は1988年
刊行以来好評に推移してきた。
マイケル・バクサンドールは、イギリス出身の美術史家。長くヴァールブルク研究所の教授を務め、その後、コーネル大学、カリフォルニア大学バークレー校で教壇に立った。20世紀後半の欧米の美術史学において中心的な役割を果たした。ブログ筆者はたまたま生前のバクサンドールの講演に参列できた経験があったが、その博識には圧倒される思いがした。バクサンドールは若い頃、エルンスト・ゴンブリッチの下でヴァールブルグ研究所の研究員を務め、自らを‘Gonbrichan’と称してもいた。ブログ筆者は美術史とは全く異なる領域を専門として生きてきたが、同時代人で身近に感じたことのあるバクサンドールの著作にはしばしば関心を掻き立てられてきた。

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バクサンドールが大きな関心を寄せた問題のひとつは、絵画の鑑賞者がいかに作品を見るかという点での理論化にあった。ハスケル、ラカン、ゴンブリッチ、チェンバースなど、バクサンデールの前にも類似のテーマで貢献してきた美術理論家もいた。

バクサンドールの『15世紀イタリアの油彩画と経験:描写スタイルの社会史入門』(第2版)は、182ページ、3章から成る一見小著だが、かなり手強い。アメリカ型のテキストによく見られる平易なトピックから段階的に高みに上るような叙述ではなく、読者の予想しなかったテーマから出発する。J.M.ケインズの『雇用・利子及び貨幣の一般理論』などに近似するものがある。問題のコンテクスト(文脈)を十分理解していないと、全体像の俯瞰に困難が伴う。

バクサンドールの著書の中核は、第2章 THE PERIOD EYEで展開される認識スタイルの全概念にある。著者の叙述の根底には、それまで作業を共にしてきた文化人類学者的思考が流れている。それに沿って、バクサンドールのいう「時代の眼」’Period Eye'の概念の深化に当てられている。

最初は人間の生理学的接近の説明から始まり、われわれはすべて同じものを見ているとする。しかし、続く解釈の段階で、視覚的認識への人間の対応は一人一人異なり同一ではないとされる。

単純に表現すると、バクサンドールの提示する「時代の眼」(period eye)とは、ある文化において視覚的形態を形作る社会的行動であり、文化的行為であるとされる。さらに、これらの経験はその文化によって形作られ、それを代表するものとなる。

バクサンドールの「時代の眼」に関する章は、我々21世紀の観衆が、15世紀の観衆と同様のレンズで、美術作品を見るに際して使われる道具箱ともいうべきものである。この意味で「時代の眼」は、美術の理解のための共時的な概念 synchronic approach なのだ。

例を挙げれば、我々21世紀に生きる者が15世紀のイタリア絵画を見るについては、相応の準備をしなければならないということになる。これは図らずもブログ筆者の「コンテンポラリーの視点」に通じるものがある。しかし、バクサンドールの論理は、かなり定式化されており、専攻領域の異なる筆者から見てもそのまま受け入れ難い部分もある。

バクサンドールが何を言おうとしているのか。その具体例は第1章 CONDITIONS OF TRADE で提示されている。このブログで以前に簡単な紹介をしたことがあるが、次回では、さらに立ち入って考えてみたい。


続き

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