ネフェルティティ胸像
18王朝(アルマナ期 1340年頃)
ベルリン 新博物館 (旧エジプト美術館当時Photo)
普段は見ることもない番組*なのだが、ニュース番組に続いて、スイッチを切らないでいた折、偶然にも美術に関わるテーマを扱っていることに気づいた。
*2023年7月21日 NHK番組「チコちゃんに叱られる」
「美」の理想を求めて
なぜ西洋美術の絵画、彫刻は裸体が多いのかという議論が行われていた。これについて、コメントをした宮下 規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)は、イタリア・ルネサンス期から遡ってみて、理想とされたギリシャ・ローマ時代には、人間は衣服を着けない裸の状態が最も美しいとされたからだと答えていた。ちなみに裸はヌード (nude, 美術作品の裸体)と同じではない。ヌードとは古代ギリシアから始まりヨーロッパに発達した裸体の造形表現である。
17世紀までに美のヒエラルキーを形づくり、独占したイタリア美術が探し求めた「理想の美」の原点は、ギリシャ・ローマであったことは以前にも記した。ギリシャ人が追い求めた「理想の身体」は,イタリア・ルネサンスの芸術家が学ぶべき最大のテーマとなった。そして「理想の身体」は,古代とルネサンスを強く結びつけた。よく知られる《ダヴィデ=アポロ》から感じ取れるのは,古代の身体の理想像と,それを基礎としつつミケランジェロが自ら創造した彼独自の理想の身体であった。
ミケランジェロ・ブオナローティ
ダビデ像(上半身)1501-1504年
イタリア・フィレンツエ
アカデミア美術館
それでは、なぜギリシャ・ローマではなく、エジプト美術、あるいは東洋美術などの非ヨーロッパ美術などが、理想の美を求めての探求の過程で考慮の対象にならなかったのか。なったとしても排除されたのか、あるいは無視されてきたのか。しかし、それについて十分納得できる論証はない*。
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*イタリア・ルネサンス期においても、kunstkammer, wunderkammer あるいはart-cabinetなどの名称で、エジプト、アフリカ、中東などの珍しい石、宝石、骨董品、ガラス、石などの美術的加工品、鳥などの剥製、新大陸からの珍しい産物などが保管、展示されていた。しかし、これらの文物といえども、主として好奇の目から収集、展示された場合がほとんどだった(Wood, p p .130-31,)。本ブログでも取り上げたペイレスク*のコレクションなどは、その好例といえる。
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これまで取り上げてきたWood (2022)も、その点に論及してはいるが、西洋美術がエジプト美術と交流、競い合うことはなく、独自に発展したきたと述べるにとどまる。彼の著作の記述は年代では800年頃から始まっている。そして西洋美術史はほとんどの場合、16世紀頃までは概して退屈だ。
イタリア・ルネサンス・ヒエラルキーの形成
イタリア・ルネサンスの誕生と形成に伴って、ヨーロッパにはギリシャ・ローマ美術を理想とする一大美術ヒエラルキーが形成された。17世紀には美術家、彫刻家などを目指す若者たちが競ってローマ詣でを志した。「全ての道はローマに通じた」時代である。17世紀ロレーヌなどの画家志望者が挙ってイタリアを目指したことは、ブログでも再三論及した。イタリアでの美術修業は、当時のヨーロッパにおける大きな流れだった。
その後、ヨーロッパ美術の拠点は、オーストリア、フランドル、パリなどへと分散を始める。それと共に、イタリア・ルネサンス・ヒエラルキーの衰退、崩壊が進んだ。
価値の多様化
今日、世に出回っている美術史の本は、概して西洋美術史、東洋美術史あるいは日本美術史などに区分されている。西洋と東洋では美の基準が違うのだろうか。Woodはこの点を意識してか、西洋と東洋その他世界の間にあえて区分を設定してはいないが、議論の対象は圧倒的に西洋美術と言われる領域に限られている。今日では多くの事象がグローバルに展開する時代になっているが、名実共にその名にふさわしい「グローバル美術史」に筆者は未だ出会ったことがない。
今日では美術活動の拠点は、イタリアにとどまらず、世界各地に拡散した。Woodの「相対主義」がもたらしたひとつの帰結は、自分の文化が形作った尺度を、別の文化の芸術にそのまま適用できないことを意味している。さらに言えば、多様化した対象を正当に理解するために、そこに生まれた多くの異なる概念についての認識が求められる。美術史は関心が拡散して求心力を失ったかのようだ。
コンテンポラリーの確認
ある美術作品が正しく理解されるためには、その作品が生み出された時代と場所において文脈化されねばならない。図らずも、この点はブログ筆者が目指してきた立場に近い。鑑賞者が対面する作品の範囲(額縁に拘束された次元)から思考を切り離し、それが生み出された時代空間へと広がるコンテンポラリー(同時代)の視座が必要といえる。作品が制作された時代が第一義的に重要だが、鑑賞者が立つ時代、現代あるいは今日(これもコンテンポラリー)は、第二義的な位置づけとなる。その関係をいかに理解するか。
しかし、美術史家にとって、この作業は新たな理論構築を求めることになる。しかし、今日、それが実現しているとは思えない。美術史は袋小路に入り込んでしまったようだ。1970年代以降、美術史の世界は一種の文化的健忘症となり、過去への関心が薄れ、かつてのような熱意が喪失している。
先の見えない現代:「現代への執着」と「過去の放棄」
Woodは、『美術史の歴史』の論述を20世紀前半(1960年頃)で終えている。さらに先に進める意欲が感じられない。ある種の文化的悲観主義に陥っているかのようだ。なぜ、20世紀前半で終わるのか。
Woodによれば、今日の芸術は形式よりも、効果的なスピーチとアクションの可能性の条件、発声とパフォーマンスの間の緊張、イメージの美徳に関わる作品などが主流を占めてきているという(Wood, p380)。美術品という形態、様式も大きく変化しつつある。例えば、アーティスト、バンクシー(Banksy)の作品などは、発見、確認されれば、抹消される前に写真などのイメージが保存される場合もあるが、存在すら不明なままに消え失せるものも多い。
さらに、異なった文化の美術史には必要な場合にのみ、つまり言語の制約などがあり、主要な議論に貢献する場合のみ言及されるようになっている。例えば、ジャポニズムはそれが受け入れ側からその意義、影響を認識された時に限って美術史上のトピックスとなる。
美術品と見做される対象は、その数と多様化が急激に進んだ。商業化もそれに拍車をかけ、現代ではどこまでが美術的考察の対象となるか、ほとんど判然としない。
美術史は終焉に向かうか
美術史は歴史的構築物であったことへの再検討もなされているようだ。これらの試みが、美術を対象とする歴史学の修正につながるだろうか。最近のイエール大学のように、美術の入門コースのカリキュラムを改定、よりグローバルで多文化包括的な方向へと転換しようとする動きもある。しかし、伝統的なヨーロッパ中心の美術史家側の反発も強いようだ。
美術史とは歴史的な構築物であり、その再検討は文化的相対主義ができることを超え、歴史学の修正につながる可能性が大きい。相対性を律する規範は見出されそうにはない。美術史といえども、その規範は固定されたものではなく、流動すべきと考えられるが、現状では美術史自体が、かつてのような目標を失い、終焉に向かっているかに思われる。果たして、美術史の世界は新たな活力を取り戻すのだろうか。
*Peter N. Miller. PEIRESC'S EUROPE: Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Heaven: Yale University Press, 2000.
続く