アパラチア山麓の炭鉱から出てくる炭鉱労働者
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トランプ大統領就任100日に達した段階での政策評価がメディアで取り上げられている。客観的に見れば、ほとんど見るべき成果はなく、暗礁に乗り上げた感じだ。ただ、選挙戦の過程から主たる支持層であった中西部の白人貧困層の間では文字通り圧倒的な支持を維持し続けている。彼らは「プアーホワイト」poor whiteと呼ばれてアメリカ社会で長らく忘れられた存在だった。このブログでも最近では1 月22日に取り上げた。
NHKBS1(4月21日)で、白人貧困層をテーマとした番組を放映していたが、「ヒルビリーズ」(アパラチアン山麓の極貧層)から身を起こした若者をテーマとした番組はいささか安易な作りだった。アメリカで制作されたいわば既製品を日本語化し、少し手を加えた程度の内容だった。べストセラーとなった作品のあらすじ紹介のような印象だった。番組は、主人公ヴァンスがどこかの大学で自著の背景となった生い立ちについて講演したビデオを、ほとんどそのまま流した内容であり、かなり雑な構成で、一般の視聴者には問題の本質が伝わらない。
オハイオ州南部鉄鋼業の町ミドルタウンに生まれたJ.D.ヴァンス という若者が、地域の産業が崩壊し、地域社会、家庭に大きな絶望感が支配する環境から努力してオハイオ州立大学、海兵隊、そして名門イエール大学・ロースクールへ進学し、弁護士となり、さらに自ら1T企業の起業化も果たし、衰退地域の再生に尽くすまでになったという成功談である。
しかし、ヴァンス氏が極貧きわまりない荒れた家庭、地域環境の中から必死に努力を重ね、高等教育を受け、再生に尽力している「ラスト・ベルト」(錆びた帯状の地域)と言われる地帯は、実際に訪れてみると、国際競争力を失った鉄鋼、石炭業など、一瞬息を飲むほどの惨状だ。
著者ヴァンスが生れ育ったのは、アパラチア山脈山麓のほとんど忘れられたような極貧の地域である。その後、半世紀を越える長い時間、この地の労働者とその家族が置かれた実情は、アメリカ人の間でもほとんど理解されてこなかった。トランプ大統領といえども、言葉を弄ぶだけで、問題の核心と解決のための政策はほとんど準備していないように見える。彼の生い立ちも、極貧層とはまったく反対の極に近い社会階層でもある。ましてや一般の日本の視聴者には、問題状況の全容を理解することはほとんど不可能だろう。
実際、こうした極貧地域で全く競争力を失い、廃墟のごとくなっている産業を再生させ、「貧困のわな」に落ち込んでしまっている労働者に雇用の機会を提供することはは、極めて至難なことだ。トランプ大統領が考えていることは、貿易や労働力(移民受入)を制限し、障壁を高めることで、いわば「温室経済」を実現し、なんとか雇用機会を創造しようと漠然と考えているのだろう。しかし、実際に「ラスト・ベルト」地帯を訪れてみると、製鉄所などの設備なども著しく老朽化し、地域全域が 廃墟のような工場群を目にすることになる。
筆者は半世紀近く、アメリカの産業移転の実態を見てきたが、「絶望」の文字がそのまま当てはまるような実態を目前にすれば、「再生」「創造」を構想することがいかに困難であるかを思い知らされる。筆者の産業・労働調査は、最初アメリカの大学院生時代に南部の繊維工業から始まったが、その後、石炭、鉄鋼業を含む金属産業、自動車産業などの実地調査へ広がった。
今回はその中で印象に残る石炭産業の実態を少し記してみよう。1960年代、世界的にエネルギー革命の嵐が吹き荒れた。安い重油に押され石炭鉱山は日本ばかりか世界の多くの地域で閉山に追い込いこまれていた。日本と比較して、はるかに恵まれていたアメリカの炭鉱業も、閉山への道をひた走っていた。アパラチアン山脈付近に多数存在していた炭鉱町は、かつて日本でも九州や北海道によく見られた炭住街が立ち並び、地域の炭鉱以外に生きるすべのない炭鉱夫とその家族たちが、まさに文字通りどん底の生活を送っていた。アパラチア山麓などでは地域再生の芽はほとんど何もなく、人々は極貧の生活に沈むか、どこか他の地へと移っていった。アメリカの歴史ですっかり忘却されたような地域なのだ。
重要産業としての石炭業の衰退を憂慮したアメリカ政府は1979年大統領令12062で、アパラチア山脈から西部にかけて17州55鉱山の実態調査を実施した。アメリカでは産業や労働者の実態が深刻化する度に、こうした調査を行い、関係者、国民の関心を喚起してきた。ブログでも何回か取り上げたルイス・ハインの記録写真もその先駆ともいうべき役割を果たした。石炭業については、1922年に最初の調査が行われた。
手元にある1980年刊行の報告書*は、ルイス・ハインの伝統を継承するかのように、写真集のごとき内容だ。写真はモノクロだが石炭労働者とその生活環境を伝えるに、見る人に文字よりもはるかに強く訴えてくる。被写体にはアパラチア山脈の鉱山町や炭鉱労働者の住宅環境、家庭の生活などが多数含まれていて強い迫力がある。それまでのほぼ30年に及ぶ変化をカヴァーしようとした調査だ。
石炭産業報告書の表紙
*The American Coal Miner, A Report on Community and Living Conditions in the Cpalfields, The President's Commission on Coal, Chaired by John Dockfeller IV, Washington: 1980.
NHKは続いて4月29日、「ラスト・ベルト」の白人貧困層をテーマとした番組を放映したが、これも平板な作りだった。アパラチア山麓から「ラスト・ベルト」に至る産業と労働者層の全体的構図が提示されていないので、アメリカの産業の現状に詳しくない人には、わかり難い。さらに、「貧困な白人層」を背景に当選したトランプ大統領に地域再生の具体的政策があるとはとても考えられない。
J.D.ヴァンスの物語は、強い意志と驚嘆すべき努力を尽くした一人の若者の成功談であるだけに、全米の注目を集め、賛辞の的になった。確かに驚くべき努力の人である。しかし、こうした個人的成功を収められる人は極めて例外的だ。地域再生にはこうした個人の努力が必要なことは言うまでもないが、多くの人々を救う教育機会、それを支える社会基盤などの枠組みが決定的に欠如している。停滞と貧困が支配する地域の再生には、並並ならぬ努力が要求されており、とりわけ自立の努力をする人々を支援する「社会資本」の充実・整備が欠かせない。
筆者もNHK番組が取り上げたインディアナ州ゲイリー製鉄所や全米鉄鋼労働組合支部を訪れたが、政策が体系的に構想・整備され、強力な社会資本の充実を伴う長期的視点に立った膨大な努力がない限り、こうした地域や産業の再生は見込めない。かつては、強大な交渉力を誇った労働組合も、今では組合員や地域の雇用を守ることも十分にできない。組織原理や運動のあり方が、大きく変化している産業社会に対応できなくなっている。トランプを支持層の多くを占める白人貧困層は、概して鉱業、鉄鋼、自動車などの製造業に従事してきた労働者が多く、熟練の程度も低く、ITなどの新産業への転換は極めて困難だ。
トランプ政権には視野が広く、産業、労働、教育などの分野に通じた政策スタッフが極端に欠けているようだ。かつてない激動の時代への布石が全くできていない。
政治的混迷で先が見えなくなったアメリカの前方に待ち受けるのは、社会の一層の分断化、両極化であり、アメリカの覇権の終焉だろう。
石炭を積んだ長い貨車の列。この先に出口はあるだろうか。