レオナルド・ダビンチ(1412~1519)没後500年ということもあって、この大天才画家に関わる番組、展覧会、出版物などが多数目につく。ダビンチの幻の肖像画と言われる「ルカーニアの肖像画」の鑑定作業のTV番組*を見る。ダビンチという美術史上に燦然と輝く一大巨匠の作品の鑑定だけに、様々な先端科学技術が駆使されている。今や美術史の研究において、年代測定、作品の真贋、工房作品の判別、後世の修復における加筆など、多くの点で、X線、赤外線反射撮影法、顔料や指紋の分析などの科学技術の協力が必要になっている。放映された画面を見ていると、さまざまなことが思い浮かぶ。ナポリの黄色、赤色のチョーク、スフマートなど、このブログで、17世紀のジョルジュ・ド・ラ・トゥールの画家人生を追っている間に出会ったいくつかのことに思い当たった。この画家も謎の多い画家ではある。
ナポリの黄色
さて、そのひとつ「ナポリの黄色」は、絵具の色名である。14~17世紀に使われていた。ダビンチ も使ったようだ。17世紀、ロレーヌの画家ラ・トゥールの作品ではどこに使われていたか、かつて記したことがあるが、ご記憶だろうか。
組成は アンチモン酸鉛の化合物ph3(SbO)2 で,アンチモン・イエローとも呼ばれる。本来はベスビアス火山の土から採取された黄色の土性顔料で,中世からジリアーノの名で地塗りなどに用いられていた。今ではほとんど使われていないが、当時の色相に似せて,今日では カドミウム・イエロー,イエロー・オーカー,ベネチアン・レッド,ジンク・ホワイトなどの顔料を配合してつくる。絵具としてNaples Yellow (例:Holbein 230)として市販されてもいる。
工房の役割
今日では、様々な手段で自分の制作に必要な絵具、顔料などの画材についての情報も得ることができる。誰か画家の弟子として入門し、知識や技能を習得せずとも、自分の努力で制作をすることも可能だ。しかし、ルネサンス期から17世紀までは、いかに才能があろうとも、親方の工房に徒弟として弟子入りし、画材、画法の習得をしなければならなかった。フレスコ画や油彩画など、作品の制作に関わる知識や技能を習得するには、独力では得られる知識が限られていた。
この時代の有名画家でも、若い頃の修業歴が不明で、どこの工房で修業したかわからない場合もある。地方の小さな村や町からフィレンツェやローマのような都市に出てきた画家志望の14-5歳の若者にとっては、かなりのリスクでもあった。彼らの間の競争も激しく、脱落する者も多かった。フィレンツェの裏町で暴力、放蕩、犯罪などの世界へ転落し、身を持ち崩す若者も多かった。時代も下り、場所もローマではあったが、破天荒な生涯を送ったカラバッジョは、表と裏の二つの世界を生きた稀有な画家だった。工房に入るにあたっては、多くの場合、親がついてきて親方と徒弟費用の交渉などをしたようだ。
フランスなどの工房では、徒弟の数はせいぜい数人、大体1人が普通だった。他方、フィレンツエの工房では、しばしば10人から20人という数の徒弟がいた。それだけ仕事の量も多かった。大きな教会、聖堂、修道院など、天井画、壁画、祭壇などを受注した工房は、親方の指示に従って、多数の職人が動員されて働いていた。徒弟は受け入れてくれる工房の親方に多額の費用を支払い、ほとんどは住み込み徒弟として、工房か親方の家に住み込み、身の回りの世話もしながら、工房で仕事を手伝い、画家としての知識や技法を体得する仕組みだった。工房入りを許されると、徒弟、そして見習い奉公人として働くことになるが、ほとんど教育の体系らしきものはなく、兄弟子や親方の仕事から見様見真似で技能を盗み取ることで体得する仕組みだった。後世のOJT(On-the-Job Training)である。工房での徒弟修業が終わると、遍歴職人として他の工房へ移ったり、独立して親方を目指す者もいた。
ダビンチの工房入り
1466年頃、14歳のダビンチは、フィレンツェで、最も優れた工房bottegaのひとつであった画家で、彫刻家でもあった ヴェロッキオの工房に入門した。レオナルドはこの工房 で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた。弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師匠ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったといわれる。ダヴィンチは3年間、この工房において徒弟修業をしたとされる。その後も工房との関係は合計で10年近く続いたようだ。
イタリアやフランスでは、この工房での徒弟修業にはミケランジェロやジョットのような天才でも最低3年、長いと10~15年を要した。しかも、徒弟修業をしたからといって、画家になれる保証はなかった。大工や石工と異なり、持って生まれた才能がものを言う職業であった。多分に才能と運が行方を左右する職業であるだけに、息子が画業を志すと親が強く反対する例が多かった。親たちは、画家はリスクが多いと、聖職者、銀行員、トレーダー、商人などより安定的な職業を勧めたという。ダビンチ でさえ、親との葛藤があったといわれる。時代は下るが、ジャック・カロやラ・トゥールのことを思い出す。願い叶って、徒弟となっても、工房における徒弟や職人たちとの軋轢、横暴な親方などに耐えられず、脱落する徒弟も多かった。
時代は下るが、17世紀、ラ・トゥールの例をみると、生涯で5人の徒弟を受け入れたが、なんとか画家になったことが確認できるのは1人にとどまった。ロレーヌの画家志望の若者が、こぞってイタリアでの修業を望んだのは、フィレンツエやローマでは工房の数が多く、選択の余地が多かったことも背景にあった。
ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。一部の作品については、ダヴィンチが担当した部分が確認されているようだ。 例えば『キリストの洗礼』(ウフィツィ美術館、フィレンツェ)は、ヴェロッキオとレオナルドが協同して描いたとされている。ダヴィンチは20歳になる1472年までに、ギルド 「聖ルカ組合」からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象とした ギルドだった。ダビンチが人体の細部にわたる精密なスケッチを残しているのも、こうした背景によるのだろう。ダヴィンチはその後自分の工房を持ち、独立後もヴェロッキオと協同する関係を保っていたらしい。
レオナルドの才能は、絵画、彫刻にとどまらず、建築、工学、化学、冶金学など、およそ1人の人間がこれだけの領域をカバーできるのかと思うほど広範にわたり、ルネサンス期の天才とはかくも偉大なのかということを痛感する。
当時は美術学校など公的な技能養成制度が無かったため、工房という熟練の取得、養成の仕組みは画家のみならず、多くの職業において重要な役割を果たした。今日、多くの国で学校や公的技能養成制度が硬直的で、変化の激しい現実に対応できず、再考を迫られている。そのため、小規模ながら時代の変化に柔軟に対応できる新たな観点からの工房の役割が注目されている。
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モナリザを描き、建築や解剖学も極め,詩人、思想家でもあった“万能の天才”ダビンチが亡くなって500年。ある収集家の自宅に保管されていた「ルカ―ニアの絵」は、世界の美術界の注目を集め、美術史家や科学者らによる分析がフィレンツェをはじめ欧州各地で行われた。顔料から年代を特定し、残された指紋を解析。最新の3D技術で、巨匠ダビンチの素顔を初めて3次元で復元するという試みだ。
TVでは『糸巻きの聖母』(スコットランド国立美術館蔵)、『プラドのモナ・リザ (プラド美術館蔵)など、ダビンチの作品ではないかといわれてきた絵画の鑑定作業が報じられていた。
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[ダビンチ 幻の肖像画]
NHK-BS1 BS1スペシャル原題:LEONARDO: THE MYSTERY OF THE LOST PORTRAIT制作: ZED & SYDONIA / ARTE FRANCE / NHK(フランス 2018年)11月11日放送
[ダビンチ・ミステリー(1)] 2019年11月10日放送