時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家が見た17世紀ヨーロッパの階層社会(2):ジャック・カロの世界

2013年04月03日 | ジャック・カロの世界

 

 Jacques Callot. L'Homme au ventre tombant et au chapeau tres elevé (下掲図と同じ)

Jacques Callot. Varie Figure Gobbi
c.1622
A set of twenty-one etchings with engraving
References. L.279 and 407-26, M.747-67, Ch. 171-94
Albert A. Feldmann Collection

右上から右、左下から右下へ:

Frontispice(表紙扉)
L'Homme au ventre tombant et au chapeau tres elevé
(大きな帽子を被った太鼓腹の男)
L'Homme nasque aux jambes torses(仮面をつけて足を曲げている男)
Le Joueur de vielle (ハーディ・ガーディ・プレイヤー)


クリックすると拡大

 17世紀、近世初期といわれる時代におけるヨーロッパの社会で、人々がどんな状態におかれていたか、貧富の有様はどうか。その実態を全体として見渡せる人々は少なかった。ジャック・カロのような画家で諸国を旅することができた人は、数少なかった。かりに旅をしても旅行者としてみた諸国の実態を、画家のように多くの人々の目に見える手段で、伝えることができる人はさらに限られていた。

イタリア行きを果たしたカロ
  ロレーヌ生まれのジャック・カロは、念願のイタリア行きを果たし、自ら望んだ地で、活発な制作活動を続けた。とりわけ、1611年、ローマからフィレンツェに移った後は、魚が水を得たように次々と作品を制作した。コシモII世の庇護の下にウフイッイ宮殿内に工房をもらったカロは、新しいアイディアに溢れていた。カロがメディチ宮廷に寄与した貢献は大変大きなものであった。

 カロはエッチングの技法についても、17世紀当時のエッチャーの多く、たとえばレンブラントとは大きく離れていた。線の表現においても、従来よりははるかに多彩化した技法を縦横に駆使することができた。そのエッチング技法はビュラン彫りと判別しがたいほど精緻なものだった。こうした技法は、フィレンツェにおける建築家、舞台芸術家であり、版画家であり、カロの師であったジュリオ・パリージによるところが多いだろう。カロはそこでメディチ家の伝統的宮廷祝祭のさまざまな断面を版画という形で継承したと考えられる。

 しかし、時は移り、1621年、庇護者のコシモII世が死去する。后は工房を維持することを好まず、閉鎖の憂き目にあう。仕事の場を失ったカロは不本意ながら生まれ故郷ナンシーへ戻った。ナンシーで、カロはイタリアで蓄積した能力を大きく開花させた。帰国してまもなく、イタリアで蓄積・構想していた仕事を次々と実現に移した。そのひとつがここに紹介する『ゴビのシリーズ』である。

ゴビのシリーズ:イタリアからロレーヌへの架け橋
 イタリアにいた当時、カロはゴビGobbiと呼ばれる矮小化された奇妙な人々のイメージ(合計21点)を構想し、制作の途上にあった。カロはその仕事をナンシーへ持ち込み、プリントまで完成させた。ひとつひとつを見て行くとなんとも妙な感じである。グロテスクと評された作品もある。エターナル・ファンタジーのアニメ・キャラクターに似たようなイメージでもある。

カロの制作したVarie Figure Gobbi(『ゴビさまざま』のシリーズを見てゆくと、なんとも不思議なイメージが描かれている。Gobbiとはイタリア語で「せむし男」(ノートルダムのセムシ男と同じ)、猫背の男の意味である。さらに小人の意味もある。現代の人にとっては、社会でハンディキャップを負った人々を歪めて描いたような気もするかもしれない。

 しかし、当時のイタリア社会においては、受け取り方はまったく違っていた。現代人にとっては、きわめて異様にみえるこの時代のカロが生み出した人物の群像は、当時はむしろ斬新な試みだった。ここに描かれた奇妙な人物は、必ずしも現実のハンディキャップを負った人を戯画化したのではなく、画家の豊かな想像の結果であった。たとえば描かれている右上の人物は、カロ自身のカリカチュアであり、ポートレートであるとしている。むしろ、現実のみにくさや異様さを戯画化することで、さまざまに社会の片隅に追いやられていた人々への偏見を侮蔑を正常な軌道に戻そうとしたのかもしれない。この時代、医療や生活水準の点から、治療を受けることが出来ず、社会の限界的分野で苛酷、貧窮した生活をしていた人々は数知れなかった。

  ヨーロッパの宮殿には、こうした身体上のハンディキャップを背負った人々が、雇われ、働いていた。あのベラスケスの『ラス・メニーナス』(女官たち)にも、登場していますね。彼(女)らは宮廷内での道化役、子供たちの遊び相手などとして雇われていたようだ。だが、そこには必ずしも、彼らが惨めな、気の毒な人々という意識だけが支配していたわけではない。こうした社会の限界的な人々がかなり多く、宮廷などで異様な役割を負って生きていた人たちも少なくなかったという事情もあったようだ。カロは、現実、仮想の双方において、こうした奇怪で、ファンタジックな人物を描くことで、現実の醜さや悲惨さを多少なりと埋めたいと思ったのかもしれない。描かれた人物や動物、怪物の多くは、まったく架空の存在である。しばしば怪奇な人物や動物が登場してくる。

 いずれにしても、自らを含めて豊かな発想で、ファンタジックなイメージを描き出した。1400枚くらいといわれる膨大な版画、そしてほぼ同じくらいともいわれるスケッチなどの画集を眺めていると、カロという非凡な天才が思い描いた近世ヨーロッパの多様なイメージが浮かんでくる。

 このシリーズはこうしてカロにとっては、イタリアからロレーヌへ帰国した際のひとつの架け橋のような作品となった。このブログでも記したことがあるが、カロが生まれ育ったロレーヌ公国、その中心となっていたナンシーの宮廷生活の大きな特徴は、この国が当時のヨーロッパでも際だった祭典国家であったことにある。歴代ロレーヌ公は、ことあるごとに、さまざまな祭典、祭儀を催し、華やかな行事を実行してきた。そのたびに外国から多数の貴賓、宮廷人などが招かれた。小国の生きる道のひとつでもあった。カロがイタリアから持ち帰った時に奇怪な、ファンタジックなイメージは、こうした行事などの折には、重要な発想源となった。

 こうしたイタリア的なやや奇矯な、ファンタジアが、ロレーヌの厳しい現実に戻った画家カロの作品態度にいかなる変化を迫るか。事実、画家の制作態度は、ロレーヌの現実を前にして、大きく変わってくる。この画家の社会観、世界観がどう変わってくるか。

続く


N.B.
 4月4日のBS1でリチャード3世の遺骨の埋葬場所をめぐるニュースを報じていました。発見されたレスター市と王が生前希望していた(?)とされるヨーク市が、議会まで動員して争っているようです。目的は新たな観光スポットの争奪戦でしょう。死んだ王もなかなか安住の地を見つけられない!

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