1960年代末、未だ繁栄していたデトロイトを最初に訪れた時、自動車を世界へ送り出したこの地の先進性に大きな感銘を受けた。フォード、GM、クライスラー、それぞれに多くの変転を経験していたが、あの頃のデトロイトは輝いて見えた。最後の残光だった。その後調査などで何度か訪れたが、衰退の色は濃くなるばかりだった。
最近会ったオーストラリアの友人が、見てきたばかりのデトロイトの惨状を知らせてくれた。一時期、共同してこの産業の国際調査をしたことがあった。彼にとってもデトロイトの最近の衰退の現実は、予想した以上にひどく、衝撃的だったらしい。話を聞きながら、スナップショットのように思い浮かぶイメージがあった。その中から2,3を記してみよう。
ビッグスリーの時代
第一次石油危機前、しばらくアメリカ生活をしていた頃、日本の自動車の対米輸出が始まっていた。しかし、日本車は性能が悪く、サンフランシスコの坂を上れないという「うわさ話」がまことしやかに伝えられていた。路上に日本からの車など、ほとんど目にしたこともなかった。大きく洗練されたデザインのアメリカ車と比較すると、日本の車のイメージは野暮ったく見えた。自動車より前にアメリカ市場で人気があった「HONDA」のモーターサイクルは、スペイン製だと言い張るアメリカ人がいた。発音がスペイン語に似ていたからそう思い込んだのだろう。車はめったに洗わないが、ホンダのモーターサイクルは納屋に入れ、ピカピカに磨いている友人もいた。彼らにとって、自動車は使い捨ての耐久消費財だが、モーターサイクルは別なのだった。
この時代、アメリカの消費者にとって、自動車といえばビッグスリーにほとんど限られていた。外国車はスポーツカー、趣味などで、限られた人たちが特別の目的で購入するものだった。8気筒のアメリカ製大型車は、ガソリンを撒いて走っているようだったが、居住性は良く、走行の安定感もあって、アメリカ文化の象徴だった。ハイウエイで巨大なトレイラーに追い越されても、小型車のような恐怖感はなかった。日本にはなかった体育館のように巨大なスーパーマーケットで、カートで2-3台分の買い物をしても、十分収容できるスペースがあった。カルチャー・ショックのひとつだった。
振り返ると、この時代、ビッグスリーの最後の輝きだった。少しずつではあったが、日本やドイツなどの外国車が、アメリカ市場に拠点を築きつつあった。
UAWが恐かった時代
80年代初め、訪問の機会があったホンダ、オハイオ州メリスヴィル工場で最初に生産していたのは、乗用車ではなく、日本では生産できない大排気量(900cc, 1100cc)のモーターサイクルだった。進取の気性がある同社も、最初からアメリカでの自動車生産は自信がなかったのだ(メリスヴィルでの4輪車生産は1982年)。しかし、当時、年間生産6万台といわれた同工場生産のモーターサイクルは、Made in USA の刻印も誇らしげに出荷されていた。
工場近辺には「大鹿に注意」の道路標識が出ていた。州都コロンバスから車で走ると、ほとんど田園地帯であり、労働組合の勢力が弱い地域であった。当時、アメリカへ直接投資をする日本企業は、いずれも労働組合を恐れていた。アメリカの労働組合は、「ビッグ・ビジネス」に対抗する「ビッグ・レイバー」として、強大な力を持つと考えられ、対米投資の際、経営者が躊躇する大きな要因だった。
日産のテネシー州メリスヴィル工場も、最初は小型トラック生産だった。工場は、ナッシュヴィルから車で1時間近くかかったろうか。広大な野原の真ん中にあった。ローカルな飛行場跡に建設されたとのことだった。日本の立地の制約を受けた、狭苦しい工場を見ていた目には、技術者が白紙の上に理想の工場を設計したようで、その壮大さに大変感動した。日本もここまでやれるのだという思いがした。
追い越し車線の日本
自動車産業を観察していて、最大の転機は、1973年に勃発した第一次石油危機だ。自動車需要は、省エネルギー化の大きな影響を受け、急速に中・小型車へと傾斜した。大型車開発をあきらめて、小型車に特化していた日本企業にとって、石油危機は願ってもない幸運をもたらした。
ほどなく怒濤のような対米輸出が始まった。アメリカのハイウエーを日本車が席巻していたような光景もみたことがあった。それは、日米貿易戦争、対米直接投資の増加へとつながる道だった。
ビッグスリーは、小型車開発の技術的遅れなど、すぐに取り戻せると高をくくっていたようだ。しかし、その差はなかなか縮まらない。日本車はアメリカ国内市場を急速に浸食し始める。アメリカ人の仕事が奪われるとして、労働者が日本車を目の敵として、打ち壊すシーンが報道された。バイ・アメリカンの動きが台頭していた。80年代初め、インタビューのために訪れたデトロイトのUAW(全米自動車労働組合)本部には、「日本車のパーキング・スペースはない」とのポスターが掲げられていた。
80年代に入り、日本企業の優位とデトロイト企業の衰退が一層顕著になった。日本企業の技術力と品質の良さが、確実に競争力の源泉となっていった。長い間、「安かろう、悪かろう」の意味を持っていたMade in Japan は、一転して質の良い優れた製品の代名詞になっていた。 鎌田慧『自動車絶望工場』の英語版 Japan in the Passing Lane: An Insider's Account of Life in a Japanese Auto Factory あるいは、デイヴィッド・ハルバースタム『覇者の奢り:自動車 男たちの産業史』)*など、台頭する日本と追い込まれるアメリカの自動車産業の内幕を描いた作品が注目を集めていた。自動車ばかりでなく、日本経済が追い越し車線を走っていた時代だった。
80年代には日本などの外国企業が、アメリカ市場に一斉に参入した。日本企業はアメリカの労働組合の強さなどを恐れ、対米投資をためらっていたが、堰を切ったように、次々と直接投資へ踏み切った。
今日、組合が未組織で人件費が安い南部諸州中心に日系8社の工場が稼働している。かつて、国内市場をほとんど独占していたビッグスリーは、いわば足下の本丸まで攻め込まれた形になった(2008年にはビッグスリー合計でも市場占拠率が50%強までに落ちた)。しかし、ここまでの路程も決して平坦ではなかった。
(続く)
*
Satoshi Kamata. Japan in the Passing Lane: An Insider's Account of Life in a Japanese Auto Factory, 1982.
David Halberstam. The Reckoning, 1986(邦訳:デイヴィッド・ハルバースタム、高橋伯夫訳『覇者の奢り:自動車 男たちの産業史』)