晴れた日にはGMが見える
グローバル不況の大津波は、世界中の自動車企業を水面下に飲み込んでしまった。今後、水面に顔を出せるのは、どの企業だろうか。浮かび上がれず消えてしまう企業が出るのも、ほぼ確実だ。明暗を分けるものは、これまで培ってきた基礎体力と、新しい時代への革新力だ。
日本企業は比較的有利なポジションにあるが、予断は許さない。今回の大不況でも、先進国中最も損傷が少ないと政府が胸を張っていた国だが、今や傷が最も深い国の中に数えられている。
過去をどれだけ未来に生かすことができるか。肩に背負う重荷は、企業ごとに大きく異なっている。今後の行方を見定めるためにも、前回に続き、いくつかのスナップショットを思い起こしてみよう。
1980年代以降、アメリカ自動車市場における日本など外国勢の台頭は目覚ましかった。その背景には、消費者のニーズを的確に捉えた日本、韓国、ドイツなど外国企業の対応があった。燃費効率が高い中小型車に特化して開発を進め、ビッグスリーよりも低コストで供給してきた。
他方、GM、フォードなどビッグスリーは、さまざまな問題を抱えていた。フォードについてみると、ヘンリー・フォードによる創立以来、フォード家三代の親子の確執、アイアコッカのフォードへの反逆など、枚挙にいとまがないほどだ。そして、GM、フォードなどの巨大化、官僚化した組織、消費者のニーズに応えられない実態など、ビッグスリーには共通の問題が内在していた。
こうした実態を摘出し、厳しく批判する本も多く出版された。パトリック・ライト(風間禎三郎訳)『晴れた日にはGMが見える』新潮文庫、1986年、アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『自動車』*などが思い浮かぶ。
これらの作品で描かれる主役のひとりとなったGMの副社長ジョン・デロリアンは、社内抗争に敗れ、退社する。その背景には、GMが技術革新を怠り、数々の戦略的失敗を重ねたこと、組織の停滞、デトロイト上流社会の退廃などに失望した事情などがあった。そして、新天地を求めて、アイルランドのベルファスト郊外へ、デロリアン・モーターの名で工場を建設、鳥の翼のようなガルウィング・ドアの新モデルを生産し始めた。しかし、その後本人が麻薬所持の疑いで、空港税関で逮捕されたことなどもあって、企業閉鎖に追い込まれた。後に無罪放免されたようだが、事業は結局実らなかったようだ。
新しい天地で
前回も記したが、1980年代初め、テネシー州スマーナの日産自動車の工場を訪れた時にインタビューした現地法人社長M.R.氏は、元フォードの製造部門担当の副社長をつとめた技術者だった。フォードには37年間勤続した後、日産へ移った。彼は、デトロイト企業の問題点、体験したさまざまな歪みなどを率直に述べてくれた。なかでも、消費者の好みなど市場の動向を、経営上層部が正しく把握していないと語っていたことが印象に残った。情報が経営者のところへ届くまでに、組織内部の駆け引きなどで都合のよいように歪められてしまったのだ。デトロイトはどこかおかしいと感じたそうだ。デロリアンの話と重なって興味深かった。
同氏はデトロイトではできなかったいくつかのことを、日本企業という新天地で実施してみたいと、フランクに話をしてくれた。自ら作業着姿で、建設現場の陣頭指揮をしていたことがイメージとして強く残っている。
組合のない企業
1980年代初め、日本企業は、ビッグスリーと比較すると、確かに積極性、独創性などにあふれていた。アメリカに工場を持っていたのは、オハイオ州メリスヴィルのホンダ、テネシー州スマーナの日産など未だ少数だった。
この段階では、日本企業はアメリカへの直接投資にきわめて慎重だった。いずれも労組加入が強制されない(ユニオン・フリー)、保守的な南部を工場立地へ選んでいた。しかし、そこでは日本で試行錯誤の上、培われてきた日本独自の生産様式が、新たな立地(グリーンフィールド)の上に花開きつつあった。
そして、急速に日本車の高い品質が、世界で注目を集めるようになった。それを支える「カンバン方式」「カイゼン」などの日本的経営は、80年代からアメリカ企業が争って導入を図るようになる。しかし、今回の危機にいたるまで、アメリカの経営・労働の風土にはまだ十分根付いていなかったことを改めて知らされた。
こうした状況で、外国企業は89年のトヨタ「レクサス」を初めとして、高級車市場にも参入した。ビッグスリーは次第に追い込まれ、合併したダイムラー・クライスラーも、経営に失敗し、クライスラーは07年に売却された。
悪しき労使関係のもたらした重荷
UAWという強力な労組との関係もあって、ビッグスリーの労務費は、在米日本企業よりも明らかに高い。もっとも「ビッグスリー」の名に値したのは、アメリカという巨大市場を3社が長らく独占的に支配していた時代のことである。強力な労働組合との交渉を背景に、労務費上昇を市場支配力を介して製品価格へ転嫁してきた。結果として、じわじわと競争力を失ってきた。
デトロイトなど組織率の高い北東部の工場と、日本、韓国(現代)、ドイツ(BMW、メルセデス・ベンツ)など外国企業が位置する組合未組織の南東部の工場の間では、賃金率および各種手当の双方において、顕著な差がみられる。特に、ビッグスリーにとって、多額な年金と健康保険給付の支払いが、次第に負担しがたいほとの重荷となってきた。 いわゆるレガシー・コスト(過去の負の遺産)である。
こうした厳然たる事実を前に、UAWなど労働組合への風当たりも強まり、かつては50万人近かった組合員数も、7万人台にまで激減している。2007年末の争議の結果、GMはUAWとの協定に基づき、UAWが管理する特別信託基金へ300億ドル以上を譲渡し、長年にわたった巨額な健康保険債務から解放された。しかし、GMの企業価値は低下し、企業力も大きく弱化した。フォード、クライスラーも、ほぼ同様な道をたどった。
そして、2006年には日米の販売台数は逆転するというかつては想像しえなかった変化を迎えた。しかし、それが今回の危機の直接的原因ではない。
(続く)
* パトリック・ライト(風間禎三郎訳)『晴れた日にはGMが見える』新潮文庫、1986年)On a Clear Day You CanSee General Motors,アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『自動車』(Arthur Hailey. Wheels, 1980)