ヘンドリック・テルブルッヘン『福音書書記者聖ヨハネ』
現代人はさまざまな不安を感じながら生きている。自分、そして人類や地球が、将来このままの形で存続していくとも到底思えなくなっている。未来へのいい知れぬ不安は、恐らく多くの人の抱くものだろう。なにかにすがって生きたいと思う人も多い。心の拠り所を求めて、宗教あるいは超自然的なものへの関心は着実に高まっている。
本当に神は存在するのだろうか。あるいは超自然的、霊魂 spiritual のごときものに出会えるのか。個人として、その存在を実感することはありうるのか。こうしたことを考える本人はもとより、神学者や牧師、説教者などに突きつけられた問いは、重く、簡単には答えられない。
「神に出会うことはできるのか」
その中で、ひとりの女性説教者の考えが注目を集めている。アメリカを代表するキリスト教説教者バーバラ・ブラウン・テイラー女史はそのひとりである。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー本リストの常連でもある。それらを通して、不安に満ちた時代の状況が分かる。「どこへ行けば、神に出会えるのか」。最近のTime誌の表紙を飾っているのは「暗闇に神を見る」というテーマでもある。こうした宗教的、スピリチュアルな問題が、多数の人が目にする、このような著名な雑誌や新聞書評に大きく取り上げられることは、それほど多くはない。しかし、現代アメリカを代表する説教者のひとりとしての彼女の考えに、やや興味を惹かれた。このブログに記してきた内容と多少関わってもいる。
取り上げられているテーマは神 God あるいは霊的、超自然的な存在 spiritual と、それとの遭遇の可能性ともいうべきものだ。ここで使われている神とは、自ら説教師でもあるテイラーの立場から、キリスト教の神が想定されてはいるが、漠然と超自然的な存在を含んでいる。
暗闇に潜む鍵
これまで、多くの説教家や霊的な求道者は、神を光、啓発 enlightment と結びつけて考えてきた。実際、enlightmentには、なにかを照らし出すという含意がある。神は光として、あるいは光の中に見出されるという暗黙の想定である。しかし、テイラーは、違った考えを提示している。多くの現代人があまり目を向けなかった闇 dark, darkness の存在である。彼女は光とともに闇の重要性を説く。そこに現代人が神や救いの存在をイメージする鍵が潜んでいるという。彼女はそのことを森の洞窟や自宅の暗い部屋などで過ごすことを通して、少しずつ闇から学んだという。
神の存在を証明すること自体、宗教家や説教者にとって、究極の問題なのだが、きわめて困難な課題だ。ここでは簡単にテイラーという宗教家の考えの輪郭を理解したかぎりで平易に書き直し、提示してみたい。
闇に向かって歩く
彼女はいう。森や林などの暗闇に向けてゆっくりと歩み入ってごらんなさい。現代の人はあまりそうしたことに慣れていないでしょう。そこに、なにかを見出すというような気負いなど抱かずに、あてもなく旅するという感じで一歩を踏み出しなさい。そうして歩いている時に、どこかでふとなにか違ったものを感じたり、聞いたりすることがありますか。
神や霊感について考えながら歩いていると、どこかにかすかな光、月の光のようなものが射していることに、気づくかもしれません。信仰や神、霊的な存在について、しばらく深く思索してきた人には、そういう時が生まれることがあります。長い間、神学の領域では、深く暗い闇には悪がひそんでいて、大きな未知な空間であり、怖ろしく、単純に闇はネガティブ、悪のイメージで見られてきました。
iPhone、PC, タブレット、ラジオ、コーヒーポット、.....いつも使っている人工の品々を忘れ、プラグを抜いて、それらの器具に関わる人工の光、輝きをひとつひとつ捨てて行きます。それらが生む光のすべてが消え去っても、あなたの外側あるいは内側から光るような思いがした時、あなたはなにか超自然なものを見出すのです。人工の光に満ちあふれた都会にあっても、神を見ることは不可能ではありません。すべての灯りを消した自宅の一室で、静かに深く闇に沈み込み思索する時、暗闇の中に新たな生が始まるのです。(B.B.Taylor. Learning to Walk in the Dark, 2014 Quoted in Time, Atpri 28, 2014*、筆者意訳)。
テイラーはこのように、分かりやすい表現で、神、超自然的な存在を、現代人でも感じ取ることができるという。
「初めに光ありき」
テイラーは神と暗闇は互いに長い間結びついてきた、隣人のような関係であるともいう。神は「初めに光ありき」といったではないか。聖書は光を聖なるものとし、闇を悪、地獄とイメージさせてしまった。神とは光と共にあるといつの間にか、人々は思い込んでしまった。人は暗黒の中にいるかぎり、神はそこにいないのだと思い、そして、人はいつの間にか闇を怖れ、遠ざけてきた。子供は夜を怖がり、大人はしばしば病気や失業と闇、暗黒を重ね合わせてきた。暗闇はいつの間にか、なにか人間を脅かすものと、理由がないままに結びつけられてきた。
現代社会では、人間が悲しさ、惨めさに耐える文化的許容度が低下している。人々の心は弱くなっている。われわれの文化は光に重きを置き過ぎ、悲惨さを受け入れる力が弱まっている。そして、ひたすら暗さ、闇を消そうとしてきた。確かに、現代社会は人工の光には溢れている。反面で闇を怖れ、嫌い、ひたすら抹消しようと斥けてきた。
闇と対峙する
闇から目をそらすことなく、正面から対峙する。それは現代人を悩ましている多くのことを癒し、治療する道につながっているとテイラーは考える。
「暗闇の中を歩むこと」を習う、というのがテイラーの新著のエッセンスでもあるようだ。人は子供も大人も闇を怖れ、暗闇に立ち入ることを避け、人工の光で闇を消そうとしてきた。現代社会にも昼があり、夜がある。しかし、その夜は気づかずにいれば、昼とはほとんど変わりはない。闇が秘める超自然的、霊的存在を人間は怖れ、遠ざけてきた。こうしたテイラーの考えは、キリスト教神学の古い考えを再生させているともいえる。
ここまで来ると、賢明な読者は、もう話の行方がお分かりかと思う。テーラーが言わんとすることは、実際に特定の神を求めたり、どこかの暗い森の中を歩いて見なさいというわけではないのだ。彼女はこう記している。「もしあなたが暗闇の中で落ち込んでいるとしても、そのことはあなたが人生を失敗した、あるいはとんでもない誤りをおかしてしまったということを意味するのではありません。長年にわたりこのような問題や疑問、そして神はいないのではないかということも考えてきました。それらはすべて私の信仰が欠けている証拠なのです。しかし、今ではこれこそが時代の精神、スピリットが向かっている道なのだと思うようになりました」(Time April 24,2014)。
信仰というものがこの世に生まれてから、暗闇には神の神秘が静かに座してきた。そして、古来、ながらくの間、闇は日没とともに訪れ、希望や活力に充ちた昼の世界、光の世界を消し去り、怖れ、恐怖、そしてしばしば悪魔や魔女が飛び交い魑魅魍魎がうごめく世界をもたらすものでもあった。
「危機の時代」ともいわれた17世紀は、とりわけそうした闇の世界が大きな存在であった。当初は「夜の画家」ともいわれ、夜や闇の深さを描いた画家ともいわれるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの宗教画、そして他の同時代の画家の作品には、蝋燭や松明の光とは別に、どこからか超自然的な光が射し込んでいる。時には昼とも夜ともつかない不思議な背景の下に人物などが描かれている。しばしば画面の全体を覆う闇、暗黒の世界は、人間の力が及ばない、神や悪魔が住む次元とみなされてきた。しかし、この画家の世界には、どこからともなく光が射し込んでいる。光源は分からないが、その光は人物をはっきりと映し出している。ラ・トゥールと現代をつなぐ光であり、闇がそこにある。
* "Finding God in the Dark" The Time, april 28, 2014
この世の最後まで神とご自身の関係を真摯に考えられていたS.T.先生、今はその思いをかなえられていることでしょう。ご冥福を祈りながら(2014.04.25)。