J.M.Keynes, Economic Possibilities for Our Grandchildren
J.M.ケインズ『わが孫たちへの経済的可能性』1930
このブログという仮の名で始めた覚書(メモ)も、そろそろ幕を下ろす時が近づいている。思いがけず筆者の予想を超えて、今日まで10数年の年月を経てきたので、中途から訪れてくださった方々には何を目指しているのか大変分かり難い内容になっている。多くの断片的記述の集積効果によって、ブログ筆者の意図する多面的な考えが伝達できればと思い試行錯誤もしてきたこともあり、これまで筆者と対面してのコンタクトがない方々には、格別取りつきにくい内容になっていることは想像に難くない。
偶然目にしたTV番組で、台湾のデジタル担当政務委員のオードリー・タン氏とメディア・アーティスト、大学教員など多彩な活動をされている日本の落合陽一氏の対談*を見る機会があった。共感することが多かったので、感想を少し記しておきたい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*オードリー・タン、落合陽一対談:NHK BS1、2020年11月14日
唐 鳳 (とう ほう、タン・フォン、オードリー・タン、Audrey Tang、1981年- )。2016年10月に台湾の蔡英文政権において35歳の若さで行政院(内閣)の政務委員(デジタル担当)を務めている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「危機の時代」に生きた画家と作品を見直す
このブログを始めたきっかけとなったのは、歴史上初めてヨーロッパ、そしてグローバルな次元で、「危機の時代」として認識されるようになった17世紀ヨーロッパに生きた画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品と生涯を見直すことであった。”時空を超えて”、当時の政治社会環境に出来うるかぎり立ち戻り、再発見し、新たな資料を含めて理解し直すことを目指した。そして、美術をひとつの手がかりとして、さらに時代を下り、20世紀の「大恐慌」からこのたびの「コロナ危機」にいたる道筋を「人の動き」と「芸術」作品の観点から見直し、たどってきた。
筆者のブログで記事として選ばれたトピックスは、タン氏のいういわば過ぎゆく”時間のしおり”とも考えてよいかもしれない。
「共生」の概念と徹底
時代を追うにつれて、戦争、地球温暖化、感染症など世界が直面する「危機」の規模や被害の大きさは深刻さを増し、対応いかんでは次の世代の存亡に関わるほどになっている。もはや、ある国や一部の地域だけが生き残る可能性は少なくなり、地球上の人々が助け合い、協力しあって共に生きる道を求めねば次の世代は存立できないまでにいたっている。
オードリー・タン、落合両氏が提示した世界規模で conviviality 「共に生きる」「共生」の道を求める以外に人類の未来は期待できなくなっている。そのためには、大国の横暴、専制、エゴイズムなどは極力制止されねばならない。さまざまな場面で存続から取り残されかねない地域への支援がこれまで以上に欠かせない。人々にはかつてない「謙虚さ」が求められる時代が到来している。
、
後退する生産性重視の視点
経済学者J.M.ケインズが1930年に著した『孫たちの経済的可能性』を確保するためには、時代を主導する経済理念にも変化が求められる。これまで経済界を支配してきた生産性重視の議論は次第に無意味となり、SDGsの考えに基づく「公正な社会」の実現こそが求められるようになっている。社会を前にすすめる思想としての経済学の比重は後退する。
SDGsとは、Sustaiable Development Goals 「持続可能な発展目標」のことである。2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193ヵ国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標である。
「柔らかな境界」は実現できるか
このブログで筆者が意図して重視してきた経済学以外の領域への視点の移行は、ともすれば強化され、分裂、断絶を強め、時代に逆行化するかにみえるさまざまな「境界」「障壁」 border を、より「柔らかな」境界へと変化させ、強固で高い壁のような国境線や一面的な差別観をただすことを意味している。
新型コロナ・ウイルスに感染した人を、注意の足りない人間であるかのように見下すなど、あってはならないことである。筆者はかつて世の中に存在する「差別」discrimination といわれる現象を経済理論の視点から整理することを試みたことがあったが、多くの人たちはその中から「統計的差別」など分かりやすい部分だけを取り上げ、「差別」という現象が内在する複雑な要因・構成にまで踏み込むことは少なかった。安易に「差別」の概念を乱用することが目立つようになった。
人間が人間をある属性を持ったグループとして区分する行為は、きわめて慎重でなければならない。それが必要な場合には、公正さが担保しうる開かれた評価組織などによる公平な検討、判断が求められる。新内閣の成立とともに浮上した学術会議問題などは、その点での公正さ、配慮が欠けた例といえる。官僚組織がこうした問題の対応にはきわめて不適であることは、改めていうまでもない。
民主主義の活性化のために
オードリー・タン氏が台湾の選挙制度として、AかBかの単純な賛否を決める形ではなく、Quadratic Voting (2次元の投票)というポイント・システムを基準としたなだらかな評価を行う制度を提示、実施したことはきわめて興味深い。多くの国が採用している現行の選挙制度は、「賛成」か「反対」かといった結果を求める方式だが、人間の思考、判断のあり方からみると、単純、直截に過ぎ、適切ではないことも多い。世論調査における「分からない」「いずれでもない」などの反応、選挙における無関心、支持する候補者がいないとの理由で棄権するなどの行動は、かなり現行の選挙の仕組みに起因するところがある。
筆者は世の中の議論のあり方について、「黒」「白」いずれかの二分法を強制する思考には、しばしば異論を抱いてきた。人間の思考には、いずれでもない中間領域が存在し、それを重視することが民主主義のこれからにとって大きな意味を持つと考えてきた。台湾がこうした投票制度を導入し、しかもデジタル技術を活用し、問題ごとに頻繁に投票するという方式は、これからの時代に合致する極めて興味深い方向と思われる。タン氏がいうように、「民主主義は生きたテクノロジー」であり、デジタル化など新技術の発展の成果を活かすことで、暗礁に乗り上げたかにみえる現代の民主主義の行方に光明をもたらすものと期待しうる。
新型コロナウイルスの感染拡大とともに加速した働き方改革のあり方にしても、思考が定式化、限定されていて、複雑な現実の変化から離れがちであり、無理が多いと感じられる。
さらに、タン氏は理念としては「徹底的な透明性」Radical Transparencyと呼ばれるものを挙げており、大変興味深い。公開できる、あらゆる情報がインターネット上にあることで、官僚や大臣が何をやっているのか、何を考えているのかをすべて知ることができ、人々が「国家の主人」になれるというヴィジョンを掲げている。ともすれば、国民が「国家の下僕」と化している現実に対して、原点を取り戻す試みとして極めて興味深い指摘である。いうまでもなく、タン氏の指摘は現在ではあくまでヴィジョンだが、その目指す方向は、斬新で期待できる。
タン氏が活動基盤とする台湾が、人口という尺度では小国の範疇に入るにもかかわらず、革新的なアイディアと実行力で大国を凌ぐ存在感を示していることには改めて感銘するものがある。ヨーロッパにおけるエストニアなどの先導的で革新的な活動に比するものがある。その力を生み出すものが大国に対する危機感なのかという点も含めて、さらに注目してゆきたい。
最後に、タン氏が現代を象徴する好みの色として「青色」blueを挙げ、落合氏も「青色」と「黒色」を挙げているのも興味深い。筆者がブログの背景として「青色」に固執してきたのも、この点に通じるところがあり興味深い。
偉大な経済学者J.M.ケインズが記した人類の孫たちの世代へ、資本主義経済は意義ある遺産を残すことができるだろうか。現代の世界はその成否を定めるにかなり危うい段階に立ち至っていると考えられる。コロナ禍の下、急速に展開しつつあるデジタル化の動きは、人間の抱く構想と運営いかんでは、危機に瀕した資本主義経済を救い出す可能性を秘めているかもしれない。