The Economist cover
March 29th-April 4th 2014
このブログが頼りとする「タイム・マシン」The Time Machine は、このところ乱気流に出会う時が多くなった。時代の行方が急速に重く濃い霧で覆われるようになった。尖閣、ウクライナ、大気汚染、温暖化、中国、韓国が突きつける「歴史問題」、居丈高な中国政府、北朝鮮の異様な姿、アメリカ、EUの衰退..........。先が見えがたい問題が次々と起きている。連休中にもかかわらず、さまざまなことを考えさせられた。
「ラテン民族の国々では、中年、高年の男子の話題は、政治だけで十分、下層階級になると、それにスポーツが加わる。アングロサクソン系の場合は、政治はむしろ経済や金融にとってかわり、時に文学などもつけたしに出てくる」(ミッシェル・ウエルベック、『地図と領土』)とのことだが、日本人はどうだろうか。このブログから政治は意図して落としてきたが、このところ不本意ながら取り上げることもある。
これだけ重要課題が迫ってくると、次世代のために多少なりと記したいと思うことも出てくる。ウクライナ問題にしても、一部に短期終息と楽観する見方もあったが、ブログが予想したとおり、内戦状態となり、もはや長期化は避けがたい。世界が幸い次の安定期を迎えるとしても、それまでかなり長い動乱・動揺の時期が続く。ヨーロッパ、そして世界の勢力地図がかなり塗り替えられるだろう。当面、アメリカの外交力の低下、EUの弱体化が目立ち、燃えさかる事態に対する消火能力は期待しがたい。これまでならば、間もなく軍事介入をほのめかしたアメリカも、ヴェトナム戦争以来、他国での戦争への介入による後遺症は深く、国力、外交力の衰退は覆いがたい。その間隙を狙ったプーチンの力の外交が押し気味だ。EUを含め、民主主義体制を標榜する国は、活力がなくなり、後退が目立つ。
政治に限らず、大気汚染、自然破壊などを含めて、現代社会が抱える重大問題、そして近い将来起こりうる国家の破滅につながりかねない重苦しい予兆が次々と起きている。
目前の問題に目を奪われて、時代を見通す視点を失いがちな政治家や官僚のあり方に強い懸念を感じる。それは国民自身の問題でもある。近未来に予想される重要問題がひとたび発火すれば、国家の衰亡、破綻につながる惨憺たる事態になりかねない。その火種はいたるところにある。しかも犠牲となるのは、これからの若い世代だけにことさら懸念は強まる。
首都圏直下型地震の危機
ひとつの例を挙げてみたい。5月5日早朝、東京首都圏を襲った地震が発生した時、幸い管理人は目覚めていた。地震発生の瞬間、あわや直下型地震かと思った。地震を予知する警報もなく、突如揺れ出したからだった。
幸い、地震のマグニチュードは心配したほど大きくはなく、東京直下型地震との関連性は薄いとの気象庁の発表で、少しばかり胸をなで下ろした。それでも、直下型地震発生の可能性自体が否定されているわけではない。かなりの確度で近い将来に勃発する可能性が指摘されている。その規模次第では、政治、経済など、すべてが東京に大きく依存しているこの国は壊滅状態に陥りかねない。
それにもかかわらず、東京への人口集中はさらに進み、東京へ向かう人口の流れはとどまることがない。このままでは、東京にこの国のすべての運命が託される、きわめて危うい状況がさらに強まるばかりだ。
生き残る道は
南海トラフ地震の可能性についてのニュースに加え、保険会社の地震関連保険の料率引き上げ、津波のアジア諸国への波及などの報道もされるようになった。考えたくもない光景だが、日本の太平洋岸のほぼ全域、そして周辺アジア諸国が、地震と津波で壊滅的な被害を被ることさえ起こりうる。
この国の危機対応のあり方には、不安がつのる。嫌なことは考えたくないのは、人間の常だが、やはり東京の機能は分散しなければならないという確信が強まるばかりだ。以前に記した「東北都」構想にしても、小さな会合などで、少し突き詰めて議論をすると、反対、異論はまったくなく、政府、東京都はすぐにも着手すべき最重要課題だという結論に収斂する。ところが、肝心の政治家や行政は、こうした問題に、関心も危機感も持っていないようだ。3.11はなにを残したのだろう。
必要な「新生」のイメージ
「東京オリンピック」にしても、管理人としては「東北オリンピック」であるべきであったと今も思っている。もちろん、そのスローガンでは採用されなかったろう。重要なことは、被災地を単に以前に近い姿に戻すのではなく、まったく新たな構想で、二度と大災害の起きない、安全で健康に心豊かな生活ができる地域を実現させることだ。いうまでもなく、被災した地域を故郷とする人々の間つながりは、できうるかぎり確保された上での話である。そのイメージは震災以前の状態に戻すという「復興」「再生」を超えた「新生」を目指す。
といって、被災地に巨大都市を構築せよとか、被災地域の復興をあきらめるというのではまったくない。この未曾有の災害を契機に、被災地と支援する人々の間に生まれた「人間の信頼のつながり」を基盤とした、世界のどこにもないヒューマニスティックな居住地域を、英知を集めて描き、構築する方向が選択されるべきなのだ。そのためには東北だけでも、道州制の先駆として県の行政枠を撤廃した広域プランが欠かせない。東北を次の世紀にも生き残る、文化的にも日本の先端地域として創り出すようなイメージが必要ではないかと思う。
東京五輪の施設構築のために、東北被災地、福島原発などで厳しい条件下で働く労働者が、賃金につられて吸引されてしまうなどの話は、本来あってはならないないはずだ。安倍内閣が掲げる戦略特区にしても、どうして被災地の中に、日本の未来をかける高度な生活モデル特区を構想しないのかと思う。短いブログで「復興」のイメージ論を記すつもりなどないのだが、「少し離れて見れば」、まったく新しいプランが浮かんでくる。
破綻してからでは間に合わない
日本の人口にしても、多くの人は実感していないが、驚くべき数で減少している。増加から減少への転換点となったのは、2005年であった。その後、間もなく10年が経過する。その間反転する兆しはなく、日本の人口は加速度的に減少の坂道を下ってきた。このまま行くと、国立社会保障・人口問題研究所の予測では、現在約1億2730万人の総人口は、2060年には8674万人と減少してしまう。
日本が直面する人口減少の問題は、これまで硬直的な予測に頼りすぎ、背後で展開する大きな社会変化を十分認識できず、有効な政策対応ができなかった失敗に主として起因している。現在進行中の人口減少には慣性効果が働いていて、出生率が仮に下げ止まったとしても、反転上昇させることは、少なくとも近未来にはほとんど不可能に近い。人口減少は経済力などに反映し、国家の衰退につながってゆく。
こうした危機的局面にいたっても、政治の世界から生まれてくる対応は国民を欺瞞するような内容だ。たとえば、日本の歴代政権は、「移民」受け入れという問題を国民的議論の俎上に載せることを極力回避してきた。とりわけ不熟練労働者の受け入れは、一貫して行わない方針であった。その裏で、歴代政権は巧みにそれを隠蔽し、そうした労働者を受け入れてきた。他方、本来積極的に受け入れるべき高度な技術・技能、専門性などを持った人々は、日本にほとんど来てくれなかった。そして、最近唐突に打ち上げられている構図は、およそ的外れで欺瞞的だ。
簡単に言えば、国民的議論もないままに、2015年から毎年20万人づつ移民を受け入れ、2030年以降には合計特殊出生率が2.07に回復していることを条件に、日本の総人口を2060年に1億989億人の水準にまで戻すという構図が提示されている。まったくの数あわせで、体裁を取り繕う考えとしか思えない。
さらに、4月には制度創設以来、本来国の方針とは異なる不熟練労働者受け入れの隠れ蓑となってきた「技能実習」制度の規制緩和を行い、従来の最長3年の上限を撤廃し、2年間の延長を認め、最長5年間の在留を認めることにした。さらに、3年間の技能実習を終えて帰国した外国人に再入国を認めることまで容認することにした。そして、その実施については、「技能実習」制度そのものは手をつけず、法務大臣の裁量的運用に委ねる具体的規定のない「特定活動」という既存の在留資格を援用するという、制度のあるべき姿を完全に無視したとしか思えない、こそくな方策だ。
本来、この制度は日本で身につけた技能の成果を、送り出し国の発展に役立てるという眼目で生まれたはずだ。それが、日本の特定業界における不熟練労働者の人手不足を補うために使われてきた。制度創設段階から、この問題を見てきた管理人には、もはや救いがたいという思いがする。
さらに、国民の間でいまだ十分に理解されていない「移民」と「外国人労働者」の概念を、ご都合主義で使用している。これまで、さまざまな機会に説明してきたが、国際的には両者は、”migrant workers” として今日では、ほぼ同義語なのだ。
分かりやすい例として、近年アメリカで問題になっている1200万人近くの国内に滞在する「不法移民」をあげることができる。その多くは、入国時に求められる旅券や査証などの必要書類を保持することなく国境を越え、賃金の高いアメリカで労働者として働き、本国の家族などに送金し、なんとかアメリカ市民権を得ることを考えている。彼らの多くは、不法入国時からアメリカに居住することが目的で帰国するつもりがない。
正しい道へ戻る
このことは、日本でいう「外国人労働者」なる者も、そのある部分は滞在年数の経過とともに、帰国することなく、日本に定住し、そのままでは「不法滞在者」となる可能性が高いことを意味している。滞在期間が長くなれば、それだけ帰国の意思は薄れる。「外国人労働者」という名目で受け入れれば、実態を熟知しない国民には「移民」に見えないという、言葉の上での欺瞞ともいえる。
日本でも外国人労働者はもはや珍しい存在ではない。日系ブラジル人を初めとして、中国、韓国などアジア諸国からさまざまな経路で入国し、働いている外国人労働者が増加した。滞在期間も長期化し、外国人労働者という名の移民が増加し、住宅、医療、社会保障、犯罪など、さまざまな問題が生まれた。
人口減少に対する政策として、外国人を受け入れる方針ならば、理路整然と制度を整備、再構築して実施しなければ、次の世代にとって大きな負担を残すだけだ。いうまでもなく、国民的議論を十分尽くすことが欠かせない。
国家衰亡の兆候はすでにさまざまな分野に見られる。人口が減少するままで、平均寿命だけは世界最高水準にあるため、高齢化が急速に進行し、社会の活力が失われ、社会保障などの財政負担に国も家庭も耐えられなくなっている。
一国の急激な人口減、それに伴う高齢化の問題に対応する手段として「移民」受け入れが有効な時代は確かにあった。しかし、いまや移民に関わる内容と環境は大きく変わった。移民はもはや人口や労働力不足への対応案にはならない。EUの盟主となったドイツでさえも、「多文化主義は失敗に終わった」とメルケル首相が明言するほどだ。移民を受け入れるからには、これまでとはまったく異なった考えと覚悟が必要なのだ。日本ではほとんどまともに議論されたこともない。
人口減少に対して、本来最重要な政策は、改めていうまでもなく出生率の改善であり、国家的政策の基軸となるべき最も望ましい方向である。しかし、今の日本には、出生率が顕著に改善することが期待しうる政策的対応や基盤は決定的に不足している。このままで、女性がさらに働くことになれば、出生率はもっと低下してしまう可能性が濃い。政策立案者は現実を見ているのだろうか。
未来からの移民は?
そして、残された最後の手段。それは今回表題とした「未来からの移民」*である。日本を救うまったく新しい方向になりうるだろうか。
2012年時点で、日本の保有する製造業における産業用ロボットは311千台(人)、アメリカの169千台、ドイツの162千台、韓国の139千台を上回っている。ロボットはすでにはるか以前に、SFの世界を飛び出し、現実の人間とともにある。
かつて1960年代にアメリカで、未来の家事用ロボットのモデルなるものを見たことがあった。高さは人の背くらいで円錐状の胴体に目鼻のついた頭があり、長い手足が動いていた。当時、このロボットは、簡単な家庭内の掃除、来客があると入口まで出てきて Hello! welcome くらいの挨拶ができた。これを見た人々は大変驚いていた。今でははるかに人間に近い、精緻なロボットが生まれている。
世界で爆発的に売れている掃除用ロボット、ルンバは、1990年にMITから生まれたベンチャー企業アイロボット社の製品だが、過去12年間に1000万台以上も売れている。人間に換算したら、1000万人の家事労働者が参入して、働いていることになる。競合製品も出てきたようだから、全体でははるかに多くなる。一般にイメージされる人間の形に近いロボットよりは、一見ロボットとは見えないロボットの方が数は多い。
問題の多い移民受け入れよりは、「未来からの移民」といわれるロボットとの共存を図る方がまだ対応の選択肢が多いだろう。ロボットに象徴される技術の問題のひとつは、省力化である。欧米諸国はこの点を懸念している。しかし、労働力不足がさらに深刻化する日本にとって、ロボットは開発の方向を誤らなければ、かなり頼りになる存在となりうるかもしれない。
ロボット技術の発展ぶりはめざましく、すでに予想もしない分野で使われている。福島第一原発の廃炉作業もロボットなしには、実施できない。医療技術分野でのロボットの活躍もめざましい。プログラミングと個別データの入力さえ正確ならば、練達した外科医を上回る分野もあるといわれる。最近のThe Economist 誌の表紙には、子供を保育、見守るロボット、高齢者の食事を補助するロボット、人や宅急便を輸送する無人の航空機まで、カリカチュアされているが、そのかなりのものはすでに実用化している。
ロボットはどこまで人間に近づくか。工場やオフィスではロボットは、はるか以前から人間の労働者と並んで働いている。家族が働きに出ている日中はロボットが、家の管理、掃除、洗濯、手紙や宅急便の受け取り、時には要介護者を助けながら、仕事をこなし、夜に戻ってきた家族とロボットが対話しながら、食事をする風景は、もう近未来の光景になる。
ロボットと人間の関係には、ここでは触れないが、倫理問題など、これまで想像しなかった新たな領域の問題が生まれている。人間を超えてしまうかもしれないロボット技術の将来を、今から十分考えておかねばならない。深く考えると、背筋が冷えてくるようなこともある。難しいことやいやなことを代わりに考えてくれるロボットはいないものか。そうなれば、連休も本当の「お休み」になったのだが。
* ”Rise of the Robots; Immigrants from the Future” The Economist March 29th 2014.