時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

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2008年04月30日 | 雑記帳の欄外

  春は生気をもたらす。気温が上がり、花々が咲き乱れ、新緑があたりに満ちてくると、冬の間眠っていたような思考の世界にも、光が差し込んでくるようだ。日々の生活の折々にふと思い浮かんだ雑多なことを、書き記している。とはいっても、無意識にある程度のふるいわけをしている。世の中の憂きこと、煩わしきことには、ほどほどに付き合い、タイムマシーンで過ぎ去った世界をめぐる。日常の生活ではあまり考えないことを考える。

  いつの頃からかタイムマシーンのひとつの停泊地は、17世紀の画家の世界となった。画家たちの日常に入り込む。作品を見ているうちに、画家の制作風景、工房の生活、それに連なる外の世界などが、次々と思い浮かび、想像がかき立てられる。時には、その手がかりを探し求めてさすらう。 ひとつひとつは他愛もない些事なのだが、積み重ねている間にイメージが浮き上がってくる。これまで闇に埋もれて見えていなかったことが見えてくる。記憶の衰えは避けがたいが、書き記すことである程度はおぎなえる。次々と思い浮かんだことを脈絡を考えることなく書き留め、あちこち行き来している間に、思いがけずも隙間が埋まったりする。

  あのテル・ブルッヘンの「キリストの磔刑」が、塵や埃で読めなくなっていたモノグラムの発見で、にわかに脚光を浴びたように、光はしばしば小さな合間から入ってくる。

  「神(真理)は細部に宿る」とは、けだし名言だと思う。1960年代末の頃だったか、歴史で概論が書けない時代になったという話を聞いたことがあった。歴史に限らずあらゆる学問領域で専門化が進んだ。それまで概論・総論を組み立てる土台になっていた部分に新たな発見が次々と生まれると、土台が揺るぎだし、ある程度落ち着くまで総論が描けなくなる。確かに書店の棚を眺めても、多くの分野で「○○概論」、「○○原論」というタイトルが少なくなった。他方で専門化の弊害も感じられるようになる。一口に言えば「木を見て森を見ず」という状況だ。

  絵画作品が作られた時に立ち戻って、追体験をしてみたい。単に作品だけを見るのではなく、工房に入り込む。そんなことはできるわけではないが、タイムマシーンにはほど遠いにせよ、インターネットはプリミティブな疑似体験をさせてくれる。衰えた脳の活性化には、多少の効用もありそうな気がする。

 

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2 コメント

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本当に源が大事ですね (seigu)
2008-04-30 16:55:30
・・原論、その他、源を問う論、本が少なくなりました。これは問題だと思います。

それにしても入れ込みようが素晴らしく、驚きながら楽しみに読んでいます。
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手探りで生きる (桑原靖夫)
2008-05-01 15:15:14
原論、概論が書けない時代は、世界の行方が見えない時代ですね。北京五輪にしても、こんなことになるとは誰が考えたことでしょう。自ら播いた種とはいえ、最終日まで、中国首脳部は寝られない毎日となることは必至。そして、五輪後に待ち受ける世界は。

人間の「進歩」とはなにか。改めて考えさせられます。手探りで生きるにしても、厳しい世の中、源泉の再発見はいつのことやら。
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