横顔は
John Constable, Selfportrait 1806, pencil on paper,
Tate Gallery London
コロナ禍の下、多くの美術展や音楽会が中止になる中で、「コンスタブル展」(東京駅三菱1号館美術館)が開催されたのは、薄暗い闇の中に灯火が見えるようで大変うれしい思いがする。
この画家コンスタブル (1776-1837)については、このブログでも何度か記事に取り上げたことがあるが、西洋美術史に輝く巨匠のひとりであるだけに興味深い点が多々ある。在英中に画家の故郷を訪れたこともあり、好きな画家の一人である。
コンスタブルについては、イギリスの国民的画家であるだけ、非常に多くの研究書が刊行されている。筆者もコンスタブル研究者ではないが、かなりの数を手にしてきた。その中で、第一にお勧めするのは画家コンスタブルの手紙に基本的に基づいた下記の伝記*である。筆者はかつて在英中に英文原著を読んだことがあるが、今回は本棚にあった翻訳書で読んでみた。
*C.R. レズリー著/ジョナサン・メイン編『コンスタブルの手紙:英国自然主義画家への追憶』(斉藤泰三訳) 彩流社, 1989年
Memoirs of the Life of John Constable: Composed Chiefly of His Letters (Landmarks in Art History) by Charles Robert Leslie, Text has been edited and the illustrations chosen and annotated by Jonathan Mayne, Phaidon Press, 1951
通常の伝記と異なり、コンスタブルが知人・友人たと交わした書簡を基礎に、画家の生い立ちから国民的画家への人格形成の過程が見事に描かれている。読み物としても、大変読みやすくお勧めの一冊と言える。
秘められた才能を見出したのは誰か
とりわけ筆者が関心を抱いたのは、この画家の才能を誰が見出したかというテーマである。ジョン・コンスタブルは、かつては東イングランド小村の粉挽き屋の息子であった。 それがどうして英国美術史に燦然と輝く大画家にまでになりえたのか。長らく教育・研究の世界に身を置いたことも影響してか、若い人たちの才能の発掘にはかなりの関心を抱いてきた。本ブログの柱の一つ、ジョルジュ・ト・ラ・トゥールについても同じことを記したこともある。
例えてみれば、磨けば光るダイヤモンド原石であることに最初に気づき、画家になることを勧めたのは誰であったかというテーマなのだが、簡単に記しておきたい。ある若者がいかに優れた才能を秘めていても、それに気づき、激励、支援をして世に送り出すにはかなり偶然や運も作用する。多くの場合、芸術的蓄積があっても、行方定まらない若者に秘められた才能を発掘する教養人や時代を見通せる才人、そして資金の支援ができるパトロンの存在が必要だ。
本書は19世紀初期のイギリス自然主義画家ジョン・コンスタブルの生涯と作品を、家族や友達からとの間に交信された手紙を通して語ったものである。
今でこそ、西洋絵画史を飾る巨匠としての評価は揺るぎないが、コンスタブルの生涯は決して順風満帆なものではなかった。出自は地方の富裕な製粉業者の次男であったが、家業の後継者となるべきことを強制され、画家の道へ進むには多くの難題が立ちはだかった。
晩成の画家
52歳になってようやくロイヤル・アカデミーの正会員に推されたが、ほとんど同じ年齢のジョン;ターナーと比べても大きく立ち遅れた。イギリスではあまり作品も売れず、むしろフランスで人気があり、バルビゾン派に大きな影響を与えた。
イングランド東部サフォークのイースト・ベルゴルに生まれ育ったコンスタブルは、生涯を通してこの地の自然を風景画として描き続けた。
幼い頃からの父親の反対、周囲の無理解、ラヴェナムの寄宿学校などでの教師のいじめなど画家への修業に踏み出すまでに多くの障壁があった。コンスタブル自身の悩み、煩悶、絶望感なども高まっていた。
裕福な製粉業者としての父親は自分の仕事を継がせたいと思っていたが、それが叶わないならば聖職者の道を歩ませたいと思っていた。画家は不安定でどうなるかわからない職業だった。17世紀ロレーヌの小さな町のパン屋の次男として生まれたジョルジュ・ド・ラ・トゥールのことが思い浮かぶ。現代においても、芸術家の道を歩むことには大きなリスクが立ちはだかることが多い。
ジョン・コンスタブルは、しばらくは家業の手伝いをし「ハンサムな粉挽き屋」と呼ばれていた。自画像を見ても、その点がうかがわれる。粉挽き屋にとって毎日の天候がどう変わるか、大きな関心事だった。仕事を通して身につけた気象変化に関する経験は後の画家としての人生に大きく役立ったことだろう。
John Constable by Daniel Gardner, 1796
家族の理解を取りつけるまで
父親は次第にジョンを後継ぎにすることは難しいと感じるようになったようだ。しかし、なかなか思い切れなかった。他方、母親は最後まで息子の味方であった。ジョンのために、ジョージ・ボーモント卿 に紹介する労をとってくれた。卿は、当時デダムに住んでいた母上のボーモント老夫人に会うためにしばしばこの地を訪れていた。そして、ジョンの模写した版画などを見て、画才があると見抜いていた。そして所蔵していた水彩画家ガーティンの作品などを見せ、荘重さと迫真性のある作品だから研究するように勧めたようだ。
クロード・ロランの作品に接する
さらにジョンはボーモント老夫人の邸宅で、ロレーヌ出身で風景画家の大家となったクロード・ロランの『ハガールと天使』Hagal and the angelという作品を見せてもらった。このことをコンスタブルは後年、自分の生涯における画期的な出来事として回想している。さらに、著名な画家とは言えないが、ミドルセックスの親戚の家で職業画家ジョン・トーマス・スミスにも紹介された。
ウエスト氏の励まし
コンスタブルの描いたフラットフォード製粉所の風景画がアカデミー展で落選した時、ロイヤル・アカデミー館長ウエスト氏は「君はまだ若いのだ。落胆してはいけない。きっと再び君の名前を耳にすることになるだろう。君はこの絵を描く前に、その自然をとても愛したに違いない。」(レズリー, p47)と激励している。実際にその通りになった。
コンスタブルの父親も、ジョンの画家への強い志望に一時は頑なであった心を緩め始めていた。人気があり、作品が売れる肖像画家になってくれるならばと思うようになる。製粉業の後継は三男に委ねようと思い始めていた。
ロイヤル・アカデミーの付属絵画学校でコンスタブルは、Gainsborough, Claude Lorrain, Peter Paul Rubens, Annibale Carracci, Jacob van Ruisdael などのオールドマスターズの作品の模写などで習作を重ねた。さらに詩文や古典もかなり読んだようだ。
1803年頃までにコンスタブルは、風景画家として身を立てる決意を固め、英国内を旅行するなどして、制作を続けた。かくしてコンスタブルは風景画家として自立してゆくが、生活の糧を得るため、肖像画や農家の家々の描写にも手を染め、かなりの数の作品を残した。
マリア・ビックネルとの愛
1809年には多くの反対に抗して、幼な馴染みのマリア・ビックネル嬢 Maria Elizabeth Bicknell との愛を深め、周囲の家柄の違いなどの反対にもかかわらず、40歳でようやく結婚にこぎつけた。イースト・ベルゴートの教区司祭は、コンスタブルは家柄から見て不釣り合いだと考えていた。
Maria Bicknell, painted by Constable in 1816
Tate Britain
ジョンの母はまたしても息子の大変良き理解者だった。二人の在り方を暖かく見守った。マリアの父チャールス・ビックネルは、マリアが弁護士としての名家の後継者でなくなることに難色を示していた。それでも、愛の力で難関を越えたジョンとマリアはその後も愛情に溢れた生活を送ったとみられる。その現れは1816年にコンスタブルが描いた婦人像は、肖像画としても極めて美しい秀作である。マリアの父とジョンとの折り合いの悪さなども、結婚後はまもなく解消し、ビックネル氏はジョンを大変好きになっていった。
しかし、コンスタブルの生活は依然として苦労が続いた。義父ビックネル氏は、二人の結婚に乗り気でなかったが、2万ポンドに近い遺産を残してくれた。これは貧しい画家にとって大きな支えとなった。コンスタブルがロイヤルアカデミーの正会員に推される前に、1928年マリアは世を去っている。ジョンはさぞかし残念な思いだったろう。
さらに1832年には生涯の友であったフィッシャー副司教とダンゾーン・ジュニアを相次いで失った。この時期はコンスタブルにとって、息子ともども病に伏すなど多事多難であった。そして、コンスタブルは1837年の突然の死を迎えた。死因は不明であった。
没後に高まる評価
総じてコンスタブルの生涯は、存命中は必ずしもターナーのように華やかで恵まれたものではなかった。作品の評価も十分高いとはいえなかった。むしろその仕事、評価は画家の没後急速に高まっていった。
本書はジョン・コンスタブルというイギリス風景画の巨匠の生涯を単なる画家の形成を記した伝記という域にとどまらず、一人の人間の苦衷と努力の過程が丁寧に描かれ、きわめて優れた著作に仕上がっている。巻末に付された資料と丁寧な翻訳は、読むことを楽しくしてくれる。コロナ禍の中、静かに人生を考えるにお勧めの一冊である。
Flatford Mill c.1816, oil on canvas, Tate Britain