時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(31)

2005年07月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  ラ・トゥールのデッサン?* 

ラ・トゥールは誰に師事したか:徒弟の時代(II)
  
    ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた現在のフランス北西部に位置するヴィック・シュル・セイユの町は、今でもあまり知られてはいないが、16世紀には多くの芸術家を生んだ豊かな風土を誇っていた。その片鱗は今に残る教会その他の建物の装飾、残された絵画などから推測できる。ラ・トゥールを記念してこの町に設立された美術館Musée départemental Georges de la Tourの所蔵品などにも、往時の豊かな精神風土を感じるものがある。

   
    ラ・トゥールと同時代に、ヴィックの近くのナンシーでは、美術史家の間にもよく知られたベランジェBellange やコンスタンConstantが活躍していた。特にベランジェは、1595年にロレーヌへ移り住み、17世紀の最初の20年間はナンシーにおいて卓越した存在であった。ラ・トゥールが徒弟という形で師弟関係にはならなかったとしても、影響を受けたという意味では、最も可能性の高い教師とみられてきた。ラ・トゥールが彼の下で徒弟として学んだ証拠は残っていないが、そうした推測をする研究者はいる。少なくも大きな影響を受けていることは、いくつかの点からうかがい知ることができる(この点については、いずれ触れることにしたい)。

   
ラ・トゥールが当時の職業の多くがそうであったように、徒弟としての道を選んだとすれば、年代、その他の点を考慮すると、次の二人のいずれかが最も可能性の高かった画家であると思われている。

画家クロード・ドゴス  
最も有力と考えられてきたのは、クロード・ドゴス Claude Dogoz or Dogueであり、スイスのローモンに生まれ、1605年に比較的若い年齢で、ロレーヌに移り住んだと推定されている。彼は、ヴィックに移り住み、まもなく徒弟を採用したことが知られている(Thillier 22)。そして、かなり豊かな家族から1611年に妻をめとっている。そして、1632年の段階で、およそ300点というかなり多数の作品を残したと伝えられる。しかし、残念なことに、ドゴスの作品と確認されるものが残っていない。だが、ラ・トゥールの家族とドゴスの間には、親しい関係があったと推定される。実際、後年1647年にジョルジュの息子であるエティエンヌがヴィックの富裕な商人の娘アンヌ・カトリーヌ・フリオと結婚しているが、彼女はドゴスの姪であった。
  
 たとえ自他ともに認める才能に恵まれていたとしても、ラ・トゥールの出自からすれば画家になるために通常の過程である徒弟の道を選んだことは、ほぼ確実であろう。年代としては1605―1611年くらいの間に、誰かの工房、アトリエで修業をしたと考えられる。最もあり得るケースとしては、ジョルジュの生地でもあるヴィックで、ドゴスの下で修業した可能性であり、多くの学者がそのように推定している。 

ドコスの工房と徒弟  

画家ドゴス親方は、ヴィックで1605年頃、20歳近くで工房を開設したとみられる。スイスから移住した直後であるが、小さな町ヴィックで、当初からかなり名が売れていたのだろう。1607年5月に、フランソワ・ピアソンFrançois Piersonという僧院長のおいを最初の徒弟としている。さらに、1610年にも法律家の息子を徒弟にしている。しかし、一般には、同時期に二人の徒弟を抱えることは、教会の壁画などのように大きな仕事を抱えていた時などの他は稀であった。ヴィックは小さな町で、それほど大きな仕事が常時あるわけではなかった。となると、ラ・トゥールは彼の10-15歳しか年上でなかった若いドゴス親方の下で徒弟をした可能性はあるが、普通の徒弟期間である4年近い年月をそこで過ごしたと考えるのは無理かもしれない。当時の徒弟制度では親方の家に住み込むのが普通であった。ドゴスはせいぜい、ラ・トゥールに画法や顔料の調合、選択などを手ほどきしたくらいではないかとも思われる。

画家バーセレミー・ブラウンの可能性  
 ジョルジュが徒弟として師事した可能性のあるもう一人の画家は、バーセレミー・ブラウンBarthélémy Braunといわれる画家であった。彼は現在のドイツ、ケルンからロレーヌに来た画家で、公爵シャルルIII世のお抱え絵師として貴族の称号も認められていた。

  
彼の肩書きは、後年ラ・トゥール自身が同様な肩書きを切に求めたことなどを考えると、ジョルジュや両親の好みに合致したかもしれない。ブラウンは、1605-11年頃は、メッスに住んでいたが、ヴィックとも関係があったようだ。事実、彼の妻とはヴィックで結婚している。そして1605年頃にはヴィックで画家として知られていた。ブラウンがメッスに住んでいたことが、ラ・トゥールの徒弟入りを否定することにはならない。画家にかぎらず、多くの職業で生家を離れて、親方の家に住み込むことは徒弟修業では通常のことであった。   
 

ラ・トゥールの両親は比較的裕福で、息子の才能を伸ばそうとしたのだろう。もしラ・トゥールが30-50年後に生まれていれば、彼は間違いなく芸術の都パリへ行き、誰かの工房かアカデミーで修業したに違いない。実際、ラ・トゥールの親戚にもパリで仕立屋をしていた者がいたことも知られている。しかし、ジョルジュが徒弟を考える頃のパリは、戦乱からの復興途上であり、両親が幼い息子をパリまで送り出したともにわかに思えない。

ラ・トゥールはパリにいたのか  
しかし、近年、パリのギルドの記録から、1613年12月12日付けでメンバーを受け入れたとの興味深い史料が発見されている。これは、フォーブルグ・サントノレFaubourg Saint-Honoré のギルドに所属するGeorge de La Tour なる者を含む人々の面前で、Jean L'hommeなる一人の若者をメンバーに迎える式を行ったという記録だが、文書の余白に乱雑に書かれていたものであり、われわれが問題にしている当の本人か否かは不明である (Tuillier 1972, p25)。ということで、今日の研究史では、ひとつの可能性、検討課題にとどまっている。   
 

他の可能性は、クロード・アンリエClaude Henrietという画家で、シャルルIII世の庇護の下で、当時は著名であった。結婚によって、あの貴族で知識人であったランベルヴィレール  Rambelvillersの家系とも関係が生まれたといわれるが、1606年末頃に死亡している。となると、これも実際に徒弟となった可能性は少ない。

ベランジェに師事した可能性も  
 当時のロレーヌでで高く評価されていたのは、ジャン・サン・アウルJean Saint-Oaulとう画家であったが、ジャン・デイ Jean de Heyという若者を徒弟に採用したことは記録に残っている。それ以上に、著名なのは前にも記したベランジェJacques de Bellangeであったが、1595年2月、きわめて裕福な家の息子クロード・デルエClaude Deruet(ca.1588年頃の生まれ)を徒弟に採用した記録が残っている。デルエよりも4-5歳若かったラ・トゥールを同様に徒弟にすることを、ラ・トゥールの両親が考えなかったとは思えない。しかし、これも可能性にすぎない。

  
もしかすると、ラ・トゥールは当時ラテン語の教育で知られた地元の学校で上級まで進み、14-15歳までいたかもしれない。ベランジェは、当時は画家としての盛時を迎えていた。デルエは1609年4月に徒弟を終了している。ラ・トゥールは他の有名な画家につく前にベランジェに習ったか、デルエの後、徒弟になったかもしれない。しかし、確証はない。
 
ラ・トゥールとベランジェの作品には類似点がある。たとえば、《ヴィエル弾き》hurdy-gurdy playersはラ・トゥールのお気に入りでもあった。ラ・トゥールはベランジェに似たサインを残してもいる。ベランジェはラ・トゥールにとって実際に徒弟となったかは別としても、作風などで最も影響を受けた可能性の高い教師であったとみられる。さらに、ベランジェは画家であるとともに、著名な銅版画家として知られていた。偉大なマネリストでもあり、チャールズII世とも芸術上で密接な関係を保っていた。しかし、残念なことに、今日まで残っている作品は少ない。

ラ・トゥールと同時代の画家  
 二人の画家がラ・トゥールと同時代人であった。その一人、クロード・セリー Claude Celleeは、ローマで名をあげた。また、あの戦争の悲惨さを赤裸々に描いたジャック・カロJacques Callotは、フローレンスとパリで名をあげた(国立西洋美術館の「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」にも出品されていたのでご覧になった方も多いでしょう)。

   
 こうしてみると、ラ・トゥールの徒弟修業の可能性について、断片的な情報はかなり存在するのだが、残念ながら決定的な史料に欠けている。だが、こうした情報を積み重ねると、誰に師事したかは確認できないにしても、ラ・トゥールは、1611年頃に画家としての基礎的な修業を終えたのではないか。年齢にして18歳頃であり、当時の画家のキャリアとしては標準的なものであった。この形は、レンブラントRembrandtなどの場合と近似している。彼はローカルな師匠について4年間画業を学んだ後、アムステルダムで6ヶ月修業をした。

   
もしかすると、ラ・トゥールは1613年頃、(不思議な記録が残っているように)パリで過ごしたかもしれない。そうすれば、パリにいたという記録と合致もする。   
    他方、当時のロレーヌの画家にとって、ローマに行くことも、かなり定着した慣行になっていた。ロレーヌ公爵はイタリア、特にフローレンスのメディチ家と深いつながりがあった。カロはそこで仕事をした(1612-20年頃)記録がある。

明らかな北方絵画の影響  
 ラ・トゥールが通常の年月で徒弟を終わり、大体1606-10年の何年かをベランジェと共に過ごし、パリへも行き、ローマへも行ったことは可能性としては十分ありうる。そして、1616年に洗礼の代父としてヴィックの地方史の記録に再登場してくる。 しかし、コニスビーなどの現代の美術史家は、そうだとしてもラ・トゥールにローマ行きの影響はほとんど見受けられないとしている。オランダとフレミシュの絵画の影響は顕著に見て取れる。私もどちらかというとこうした北方画家の影響を強く感じる。

   
かくして、ラ・トゥールの修業時代は、霧に包まれたままに、1917年貴族の娘との結婚という華やかな舞台でスポットライトを浴びる。既に、彼はロレーヌにおける実力ある画家としての確たる地歩を築いていたと思われる。   

そして、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯において、1617年の結婚はさまざまな意味で彼の人生を定める意味を持っていた。その点については、改めて検討しよう(2005年7月15日記)

*クリストファー・カマーChiristopher Comerとポーレット・ショネPaulette Chonéが1696年、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールによるデッサンではないかと発表した「若い女性」Jeune Femmeを描いた作品。ラ・トゥールのデッサンと推定される作品はきわめて少ない。ラ・トゥールは、あまりデッサンをしなかったのかもしれない。なお、カマーはプリンストン大学博士論文で、これらのデッサンとラ・トゥールとの関連性を指摘、注目された。

よけいな想像:小説家デイビッド・ハドルは「おおかみ娘」wolf girlの発想をどこから得たのでしょう?「おおかみ娘を夢見るラ・トゥール」(7月4日)

Major Souce: Tuillier (1992, 1997)

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