サン・ティアゴ・デ・コンポステラへの道
久しぶりに、美術に関するトピックスを取り上げることにしたい。
Fig.1
以下の記述では、Tajan 画廊のオークション紹介資料 NEWS: Saint-Jacques, Atelier Georges de a Tour en vente le 21 juin
2023 及びjean-Pierre Cuzinの協力の下に編纂された紹介記事 Nouvelle decouverte concernant Georges de La Tour
Demanche, 18 juin, 2023-18:29, art lorrain.com
を参考にした。
Demanche, 18 juin, 2023-18:29, art lorrain.com
を参考にした。
本ブログに長らくアクセスしてくださっている方々、あるいは美術史にご関心のある皆さんは、この画像を見て何をお感じだろうか。
筆者はこれを見て、思わず目を見開いてしてしまった。
ひげと長い髪のひとりの男が、蝋燭の光ではないかと思われる明かりの下で、縦長の文書を読んでいる。男は2つの貝殻がついた灰色の革のケープをまとっている。貝殻の帆立貝 St. Jacques はこの人物が誰であるかをはっきりと示している。
男は右手には長い巡礼杖を持っている。これもひとつのヒントだ。そして左手で文書のページをめくっているが、その背後には恐らく燭台あるいは油燭の台が置かれているのではないかと思われる。ロウソクの所在は確認できないが、燭台の一部分が僅かに見えている。
燭台からの光は絶妙な明暗を伴って、書籍のページ、それを読む人の容貌、衣装など、ほぼ全体像をあまねく映し出している。
光のよく届かない足元には、長い衣装とサンダルの部分が確認できる。ラ・トゥールの《大工聖ヨゼフ》を思い起こさせる雰囲気である。
描かれているのは、もはや間違いなく聖ヤコブ(Saint-Jacques, 英語名:Saint-Jacques )である。
この画像を一見して、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのマグダラのマリア・シリーズ*のイメージを思い浮かべられた方は素晴らしい慧眼の持ち主である。
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*ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作とされるマグダラのマリア・シリーズで全身像が描かれているのは、現在判明している限り、4点(the National Gallery in Washington, the Metropolitan Museum in New York, the Los Angeles Country Museum of Art and the Louvre)ある。その他にも、個人の所蔵を含め、多くの半身像の作品がある。
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大きな衝撃波を伴った発見
この作品、2023年6月21日、パリのタジャン Tajan 画廊でオークションにかけられた。作品を一目見た人たちは、直ちにジョルジュ・ド・ラ・トゥールにつながるものだと直感し、大変な興奮状態になったようだ。
今や17世紀フランス絵画の主柱的な存在である画家である。17世紀ロレーヌという戦争、悪疫、飢饉など、大きな危機の中に生涯を過ごしたこの画家は、今日まで継承されている作品数が極めて少ないことで知られている。
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N.B.
オークションの展示カタログには、下記の表示が付されていた(日本語は、筆者付記):
Spectacular discovery: An unprecedented composition from the atelier of Georges de La Tour
劇的な発見:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房からの例を見ない作品
Lot 115
ÉCOLE FRANÇAISE VERS 1640
ATELIER DE GEORGES DE LA TOUR
Saint-Jacques. Toile,
132 x 100 CM
ATELIER DE GEORGES DE LA TOUR
Saint-Jacques. Toile,
132 x 100 CM
FRENCH SCHOOL C. 1640
WORKSHOP OF GEORGES DE LA TOUR
Saint James. Canvas, 52 x 39 3/8 in.
WORKSHOP OF GEORGES DE LA TOUR
Saint James. Canvas, 52 x 39 3/8 in.
フランス派 C.1640
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房
Saint James. Canvas, 52 x 39 3/8 in.
入札基準価格 100 000 / 150 000 €
(この作品、最終的にはコストを除いて、390,000 €で落札された。)
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来歴 PROVENANCE を読んでみた。要旨を記すと、1920年代以来、ワインの産地で著名なボージョレ Beaujolais の私的コレクションとして存在が知られていたようだ、作品は1967年からは同じ家族が保有してきた。しかし、今は所蔵場所はジュラへ移動している。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品としては近年において、最も重要な発見と考えられる。素晴らしく、広がりのあるこれまで見たことのない構図であり、ロレーヌの偉大な画家について、我々の理解を大きく広げ、深める最も重要な発見だ。壮大なイメージ、リアルな芸術的力、暖かな色合いが素晴らしい。
N.B.
十二使徒の一人である聖ヤコブは、キリストの最初の弟子の一人で、キリストの昇天後は、サマリアの伝道にたずさわった。 その後パレスチナの王ヘロデ・アグリッパのキリスト教迫害の際に捕えられ、エルサレムで殉教したと言われている。スペインの守護の使徒と呼ばれているが、それは、後に発見された遺体がスペインに運ばれ、北西部の都市サンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)に埋葬されたからと伝えられている。中世以来の巡礼地で、聖ヤコブの墓跡に建てられたと伝えられる大聖堂がある。
蛇足だが、ホタテ貝をフランス語では「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques、コキーユ・サンジャック)と呼ぶ。
英語圏で多いジャック(Jack)の名は、彼の名前(ジェイコブ)か、あるいは旧約聖書に登場するユダヤ人の祖ヤコブに因むJamesまたはJacobの愛称である。ただし、ヨハネを表すJohnの愛称である場合の方が多い。なお、フランス語のジャック(Jacques)はヤコブに相当する名前である。
目を見開く斬新な構図
現存するラ・トゥールの作品で、聖ヤコブを描いた作品は少ない。僅かに継承されてきたのは、《キリストとアルビの12使徒》Apostles of Albiシリーズの中に残る1点のみである。画家が未だ若い頃の作品といわれ、創作時の意図や思考、モデルの人物イメージも、今回発見された作品の人物とは全く異なっている。 今回の作品は、恐らく画家の精神がみなぎっていた晩年に近い時期に制作されたのではないかと推定されている。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《聖ヤコブ》《キリストと12使徒》
鑑定に当たった美術史家、鑑定家などの間では、この作品がジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房から生まれたものであることには異論は全くないようだ。しかし、作品が全てラ・トゥールひとりの筆で制作されたかについては、専門家の間で全員一致の判定とはいかないようだ。その理由の一つとして、画家の署名がないことが挙げられている。この画家の作品には、全て署名が残されているわけではないことが知られている。署名をしなくとも、ラ・トゥールの制作であることが当時は関係者の間では自明だったのかもしれない。
このアメリカにある《マグダラのマリア》(個人蔵)の構図は、シリーズの最後の一点*ではないかとも言われてきた。焔で書籍のページが捲れていること、光源がこのたび新しく発見された作品では完全に隠されていて、一層の工夫がみられることなど、顕著な注目すべき点がある。そうであるとすれば、画家はマグダラのマリア・シリーズが一段落した後に、新たな構想で聖ヤコブの作品制作に向かったのかもしれない。画家はいったい何を考えていたのだろうか。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《頭蓋骨の前のマグダラのマリア》
個人蔵
脳細胞が活性化する作品
現時点では、この新発見の作品が画家ラ・トゥールひとりの手になる完全な真作であるとの鑑定ではなく、ラ・トゥール工房作となっていることはいささか残念だが、画題の発想から、構図、制作のほぼ全てにわたり、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの意図が貫徹した作品であることには異論はないようだ。
これまでの人生、この画家に魅せられ、ほとんどの作品に対してきた筆者にとっては、できる限り早い時期に、この作品を日本で観る機会が訪れることを願うばかりだ。当時、この画家が抱いた壮大な意図を含め、これまで考えることのなかった新たな地平への展望が広がる瞠目の1点である。