東京に桜の開花予報が出される直前、快晴の土曜日3月26日、少ししっかり見てみたいと思うことがあって、再び国立西洋美術館へ出かけた。入り口には、「ダイアのエースを持ったいかさま師」が描かれた大きな案内板が待ち受けている。お花見前の週末とあって、上野駅公園口の人出はかなり多いが、美術館入場者の状況はとみると、特に混み合っている様子ではない。海外のラ・トゥール展も見てきた印象からすると、少し寂しいような嬉しいような(ゆっくり見られるので)複雑な気分であった。
「犬を連れたヴィエル弾き」の子犬の目に込められた表情などを見るには、少し行列が途切れるのを待つという感じである。こういう時には、オペラグラスやカタログが役に立つ。今回の「ジョルユジュ・ド・ラ・トゥール」展のカタログは、これまで海外で開催された特別展と比較して、特に印刷や構図の取り方などが良いというわけではない。しかし、ラ・トゥール研究の最前線を知ることができて、大変有益である。とりわけ、ラ・トゥール研究では第一級の専門家ディミトリ・サルモン氏(元ルーヴル美術館絵画部長)の執筆によるラ・トゥール略伝が充実していて、大変参考になった。
日本で最初の「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展とあっては、それだけで大変感銘深いものであり、開催に努力された関係者には感謝の念で一杯である。どこかで埋もれていた作品が発見される可能性もないわけではないが、なにしろ現存する作品が40点余りに過ぎない。加えて、展示の説明パネルが示しているように、作品の所蔵者が、ヨーロッパ、アメリカ、日本と世界中にきわめて拡散している。美術館、個人、そしてイギリス王室に帰属するものまで含めて、所有者も多彩である。作品所蔵者のほとんどは、1―2点しか持っていない。あのルーヴル美術館でも、6点しか(6点もというべきか)所蔵していない。
ないものねだり
このような背景があって、特別展といっても確実な真作は出展を確保するだけでも大変であることは想像に難くない。かなりの展示品が模作や同時代の画家の作品であることも仕方がない。ただ、ラ・トゥールの「追っかけ」を自認する者には、あの作品があったらもっとお客さんが集まるのになあと、思うものは少なくない。たとえば、よく知られた「大工のヨゼフ」は模作である。しかし、これはないものねだりであろう。ルーヴル美術館にとってはいまや国民的財産であり、そう簡単にはリスクの伴う海外貸し出しには踏み切れない。
たまたま、ラ・トゥールが影響を受けたか否かを絶えず問題にされる、あのカラヴァッジョの晩年の作品に集中した特別展(“Caravaggio: the Final Years”)が、ロンドンのナショナル・ギャラリーで開催されており(本年5月22日まで)、その裏話を思い出した。(カラバッジョについては、さらに書く機会もあるかと思う。)
虚々実々の作品貸し出し
それによると、この特別展での展示品の多くは、作品所蔵者との大変な駆け引きの結果だそうだ。1点しか持っていない博物館などは、目玉商品だけに簡単には応じない。ラ・トゥールと比較すると、現存作品の数がはるかに多いカラバッジョでも、作品の貸し出しにこぎつけるまでは、さまざまな取引があるらしい。
代表作のひとつ「洗礼者聖ヨハネの斬首」は、これまでヴァレッタ(マルタ)を出て、他へ貸し出されたことはないとのこと。他方、パレルモの「降誕」は1969年に何者かによって盗まれ、マフィアの手にわたってしまったといわれる。ナショナル・ギャラリーはさすがに交渉力があり、タフなローマのボルゲーゼ美術館と交渉し、門外不出のカラバッジョ作品の貸し出しに成功した。その交渉材料としては、ナショナル・ギャラリーが保有するラファエロの作品を、将来ボルゲーゼに貸し出すことが条件だそうだ。メッシーナの美術館は2点しかない所蔵品を、ナショナルが大事にしている作品(「エマオの晩餐」か)を来年代わりに貸し出すことで同意したらしい。 ニューヨークのメトロポリタン美術館は、昨年カラバッジョ展を開催するについて、ナショナルに協力を求めた代償の意味もあってか、作品を出してくれた。このようにして、世界中から作品をかき集めて、ナショナル・ギャラリーの展示は成立した。ロンドンの展示は「カラバッジョ晩年の作品」というような、特別な限定がついているだけに関係者は苦労したようだ。
「聖トマス」の重み
今回の日本でのラ・トゥール展についても、主催者である国立西洋美術館主任研究官高橋明也氏が、同館広報紙Zephyrosに記しておられるように、背景ではかなりの駆け引きがあったようだ。アメリカの美術館はあまり協力的ではなかったと書かれている。そうした時に、同館が最近入手したラ・トゥールの「聖トマス」の存在が、交渉材料に大きな意味を持ったとのことである。(同作品の購入価格も、さぞかし高かったことは想像に難くないが)。
ラ・トゥール展を見た後、常設展の方ものぞいてみたが、いくつかの作品があった場所に、他館への貸し出しの掲示がかかっていた。クロード・モネの「波立つプールウイルの海」も、ナント美術館へ旅行中?だった。われらの「聖トマス」も、これから何度空を飛ぶのかなと思ってしまった(2005年4月1日記)。
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