時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ペシミズムでもオプティミズムでもなく

2019年12月31日 | 特別トピックス

新年おめでとうございます。
私たちはどこから来て、どこへ行くのでしょう。

2020年(令和2年)元旦


ペシミズムでもオプティミズムでもなく
新年の予想あるいは見通しがさまざまに提示されている。いまだ実現していない近未来のことであるから、近い過去に引きずられることが多い。加えて、人間の常として、いまだ実現していない将来には少しでも明るい光景を期待したい。これまでは、戦争前夜など、いくつかの例外的時点を除いては、多くの場合、明るい楽観的な基調の見通しが提示されてきた。

急速に後退するオプティミズム
しかし、今年はかなり異なる印象を受ける。2020年の日本はやや例外で、オリンピック開催国として、ことさら明るさを前面に出しているかに見える。しかし、世界の多くの国々では、楽観、オプティミズムは急速に影を潜めている。地球温暖化、異常気象、人口爆発、核の脅威、米中対立、テロリズムの脅威、保守主義の抬頭、BREXIT、自国第一主義、政治的対立・紛争、長い経済停滞など、ペシミスティックに傾く要因は数多い。実際、前途についての楽観は影をひそめている。

元旦のNHK番組、「これからの10年が地球と人類の運命を定める」  
NHK :10 Years  After, 2020年1月1日

その流れの中でひとつの注目すべき点に気づく。近未来についてあえてひとつの方向性を提示することを回避し、現在を大きな流れの中での転換点と捉える動きだ。その代表的な例は、The Economist 誌(Christmas double issue, 2019)のように、「ペシミズム」と「進歩 」(pessimism v. progress)を対比し、現時点はそれらが交差する段階にあるという。(「ぺしみずむ」と「進歩」は対比概念では必ずしもないが、今は問わないでおこう。)

 

技術がもたらす負の側面への不安
同誌が指摘するように、過去においてはこうした時期には、停滞を破る要因として、新しい技術に期待がかけられてきた。技術は戦略的な閉塞打開の武器と考えられる。しかし、このたびは様子が異なる。いかなる技術も善悪双方に使用される可能性がある。なかでも最も恐ろしいのは、核技術あるいは遺伝子を扱う生化学だが、他の技術でも起こりうる。これまで社会メディアは人々を結びつけると思われてきた。例えば、2011年のアラブの春には、歓迎された。しかし、それはいまやプライヴァシーを侵し、時にフェイク・ニュースまで伴って、プロバガンダを広め、民主主義を破壊しているところがある。親たちは子供がスマートフォンに入り浸り、広い世界が見えない中毒・視野狭窄症になるのではないかと心配している。ネット世代の子供たちは、SNSの負の側面を知らないのだ。

過去においても長い停滞を打破すると期待された新技術について、手放しで明るい期待が込められていたわけではない。21世紀の最初の20年が過ぎようとしているが、次の10年を支配することがほぼ定まっている技術 AI (人工知能)は、これまで人類が開発してきた新技術以上に前途に不安な暗い影を落としている。

歴史軸上の産業革命
産業革命は蒸気機関、繊維機械などを中心に、多数の労働者が生み出された。1920年代 自動車産業の興隆期にそれが文明へ及ぼす影響について、その社会的費用をめぐり、単調労働、大気汚染などネガティブな受け取りが生まれたこともそのひとつの例だ。L.S.ラウリーが描いた世界でもある。多くの人の仕事を脅かし、専制的なルールを生む可能性も出てきた。莫大な富を数少ない富豪が手にする反面、多数の貧困な人たちが生まれ格差が拡大する。しかし、これまでは生活水準の向上など、光もさしていた。

健全な懐疑主義の役割に期待
現在進行している第4次産業革命では、スマートフォン、ロボット、ソーシャル・メディアなどが形成するペシミズムのムードが漂う。技術はエイジェントがない。結果は、それを使う者次第となる。廃絶が期待できない核技術への脅威、さらに遺伝子を取り扱う生化学については、神の世界へ踏み込み、冒涜することへの恐れがつきまとう。核技術が専制的為政者の手によって軍事力拡大のために使われる可能性も大きい。ペシミズムを生むものは技術それ自体ではなく、それが根ざす社会が抱く政治的ペシミズムと思われる。社会に根ざす健全な懐疑主義は、技術の無謀な利用、暴走を防ぐ重要な装置だ。それをいかにして育み、維持して行くか。2020年はその成否が問われる残された短い期間の始まりではないか。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セピア色からよみがえる:芥川龍之介の上海

2019年12月31日 | 午後のティールーム

 

和平賓館コースター

このところ、タイムマシンで時空を遡る試みが多い。NHK「ストレンジャー 上海の芥川龍之介」(12月30日NHK)を見た。ブログ筆者にとっても、かなり懐かしい場所、上海が主たる舞台となっていた。今からおよそ100年前の大正10年(1921年)3月、大阪毎日新聞の特派員として上海を訪れた芥川龍之介の過ごした世界がそこにあった。予期した以上に迫力をもって再現されていた。

欧米、日本など列強が上海に租界を設け、蹂躙し、欲望をほしいままにしていた時代の中国社会が見事に再現され、映し出されていた。当時の中国は動乱真っ只中、清朝を倒した革命は、やがて軍閥の割拠という混乱に至り、絶望的な退廃と貧困の中にあった。

全編がほとんど上海で撮影されたとされるが、その舞台と人物が見事に映し出されていた。日本映画界を代表すると言われるカメラマン・北信康氏のカメラワーク、映像の美しさに圧倒された。今日の上海は見違えるほど美しくなり、世界有数の大都市となっているが、この時代を彷彿とさせる建物や街並みが至る所に残っている。それにしても、あのセピア色に沈んだ時代の上海が驚くほど感動的に再現されていた。

今は改装されて見違えるほど美しくなっているが、この映画作品の冒頭に出てくるダンスやジャズの光景はかつての和平賓館(1929年サッスーン家により「キャセイホテル」として創業し、幾多の歳月を経て、2010年「フェアモントピースホテルとして改装、再開)が使われたのではないだろうか。だが、確かではない。というのも、こうしたダンスやジャズ演奏が見られた場所は、芥川の頃は未だほとんどなかったはずで、事実、芥川は「万歳館」という今は存在しないホテルに宿泊した。今日に残る写真を見ると、ホテルの建物はかなり立派であったようだ。

ブログ筆者が何度か滞在した頃は、和平賓館はいまだ古いままであり、客室にゴキブリがいたりして驚いたこともあった。南京路の入り口に近く、外灘(バンド)地域のランドマークであった。このホテルのジャズバーは長年にわたり1920-30年代のファンを魅了してきたが、ブログ筆者が訪れた頃はジャスマンはほとんど皆が、オールド・ジャズマンというべき、かなりの年齢に達していた。その後、訪れた時は「フェアモントピースホテル」として新装され、見違えるほど立派な豪華高級ホテルになっていたが、いたる所にキャセイホテル時代の面影が保存されていた。

芥川の上海訪問時にはキャセイホテルはなかったとはいえ、ほとんど同時代の建物である。ブログ筆者は、芥川が船上から望んだガーデンブリッジ近くの上海大楼にも宿泊したことがあるが、こちらは内装も古く、普通のホテル並みだった。しかし、客室から眺める黄浦江風景は格別だった。


ガーデンブリッジから上海大楼を望む

さて、今に残る記録によると、芥川は1921年(大正10年3月28日から7月17日頃)、120日余りかけて、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、大同、天津、沈陽などを巡歴した。「老大国」が中華民国になって10年に満たない時期であった。流石に大作家であるだけに、多くの資料、研究が残っている。


江南の春

芥川は、かねて抱いていた理想と目前に突きつけられた現実の断裂に絶望感すら覚えながらも、急速に中国の精神世界の深みへと沈潜していく。上海は「魔都」といわれ、そこ知れぬ妖しさ、いかがわしさを秘めた暗黒な都市であった。『上海遊記』にはそこに生きる妓楼の女たち、そして微かな可能性を信じて革命に生きる男たち(その代表が李人傑こと李漢俊であり、1902年に14歳で来日。東京帝国大学を卒業し、帰国後は21年の中国共産党設立に関わる。27年に軍閥により殺害)との短い出会いの断片が、見事に描かれている。

1920~30年代の上海を映像化した作品は、カズオ・イシグロの傑作『私たちが孤児だったころ』(2000年 )など、いくつか見たことがあるが、1920年代の退廃、貧困、絶望の極みにあった上海がこれだけ見事に映像で再現された作品は見たことがなかった(ちなみにイシグロの作品は、1923年の上海がひとつの舞台となっている)。8Kという映像技術の先端が生み出した迫力に感嘆した。日本が生んだ偉大な作家であるだけに、時代考証もしっかりとしていて、ネット上で見ることのできる研究成果も多い。

芥川は中国の古典文学にも詳しかった。最近読んだ『蜜柑・尾生の信他18篇』(岩波文庫、2017年)にも、その造詣を生かした短篇が多数含まれ、この作家の中国文学への並々ならぬ傾倒ぶりを忍ばせる。上海滞在時、芥川は29歳、その中国文学、社会への造詣の深さと共に、天才の真髄を改めて実感させられる。芥川にとって、この中国への旅はいかなる意味を保ったのだろうか。心身ともに疲労が蓄積したのか、作家は帰国後、1927年7月に服薬自殺している。

「上海游記・江南游記」は、半世紀近く前に初めて上海に旅した頃に読んだ記憶が残るが、新年にもう一度読み返してみたい。



「上海游記・江南游記」講談社文芸文庫、講談社、2001(平成13)年10月1第1刷刊

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする