すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

真似して真似して生きていけ

2013年11月20日 | 読書
 『真似する力』(中島孝志  知的生きかた文庫)

 動物に限らず人間もまた99%真似で生きているのだなあ、と改めて思う。産まれたばかりで保護されている時はともかく、真似させようという人がいて、その通りにすれば誉められ、様々な能力を身につける。いうなれば真似する力が根本にあり、そこから全てが派生する。ビジネス書なのにそんなことを考える。


 話す聞く、読み書き…全ては真似だ。仕事も同様。だいたいこの本だって、知り合いの先生が読んだことを知って「真似して」買った。世の中に真似でないものがはたしてあるのか、と極論したくなるほどだ。と言いながら、人は「オレが」「ワタシの」と言いたい動物。結局それは真似という行動を知っているから。


 つまり人間とは唯一「真似していることを意識できる動物」だから、真似の意義とか、比較とか、効率性とかを考えることができる。真似することは本能みたいなものだから、そのこと自体に良し悪しはないのだが、そこに利害とか発生すれば、複雑になる。法律もできる。しかしそれを無視してパクる国家もいる。


 話が変な方向にいきそうだ。『真似する力』という題名からもある程度の予想はできたが、年間3000冊を読破するという著者はさすがに本質をついている。簡単にできることからすぐ取り組み、範囲を絞りこみながら、かつ結びつきを重視する。その繰り返しの中で本当に真似すべき芯が見つかるという過程が見える。


 真似に関する格言が、章ごとに記されている。味わい深い言葉が並んでいる。「独創力とは、思慮深い模倣以外の何ものでもない(ヴォルテール)」「模倣も極致に到着すると真実と同様になる(中村天風)」…では、すぐに真似して作ろうと思うが「人生は真似しだい」「真似はマネーなり」程度しか浮かばない。

やせ我慢の人の語り

2013年11月19日 | 読書
 『始末に困る人』(藤原正彦 文春文庫)

 『始末に困る人』の一般的なイメージは良くないだろう。連想すれば「扱いにくい人」「トラブルメーカー」的か。藤原正彦氏が「出でよ、『始末に困る人』」と待ち焦がれるは、この国のリーダー。けして逆説的な話ではない。わずか数年のうちに何度も替わる首相でいいのか、と誰もが持つ思いなのである。


 かの西郷何州がこう言ったと書いてある。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」。それにしてもこの国は、そういう人の足を引っ張り、潰しにかかるのがとても得意なようだ。これは「宿痾」のようだ。


 宿痾(しゅくあ)は「長い間治らない病気」という意味だ。著者は「民族の宿痾」として、対外的には相手を諌めるより、自らを相手に合わせ波風を起こさない体質に触れている。そして内部では共通理解の名のもとに、出る杭を打つ。抜本的な体質改善には時間を要するが、治療は急務だ。まず自分がメスをもつ気で。


 さて、この文庫にまとめられたエッセイは、東日本大震災をはさんで連載された。非常時に日本を代表する学者、エッセイストが何をどう書いたかは、貴重な資料となるだろう。本人が「動揺」と認めるように、いくぶんその様相はある。しかしその動揺の中で「花見へ出よう」と呼びかけたことに著者の矜持をみる。


 藤原氏の文章の面白みは、例えば奥方への表現によく表れている。自身を品格豊かに描くのと対照的に、皮肉交じりにこきおろす。ただ奥方にも藤原家の内部事情を記した著があり、単純に氏の表現を受け取る読者はいまい。ユーモアと呼んでいい文章、著者自ら墓穴をこう掘った。「ユーモアとはやせ我慢なのだ

「始末」の始末記

2013年11月18日 | 雑記帳
 NHKの朝ドラ『ごちそうさん』の先週の見出しは「たいした始末」だった。話の筋は,嫁ぎ先で嫌がらせに合う主人公が大量の鯛をどう始末するか。様々な調理法で鯛の料理を作りだしていくのだが,主人公に言わせた「見方一つというか,扱い方一つというか」はなかなか含蓄のある「始末」の定義である。


 つまり,食べ物の話ではなく「人もそうだ」と語らせている。要はどの部分に目をつけ,何を生かすかという思考である。ドラマでの「始末」とは「浪費せず,つつましいこと。倹約」という意味で用いられている。そのための工夫は一つの人生訓だということだろう。上方的な発想といっていいかもしれない。


 幼い頃「シマツできだが」という言葉は多く飛び交っていた。家庭でも学校でも繰り返し耳にしていた。この場合のシマツは「準備」という意味であったはずだ。広辞苑をひくと,該当するのは「整理をすること,処理」なのかなと思うが,若干ニュアンスが違う。いずれにしても「始末」には準備が必須である。


 「始末」は物騒な言葉でもよく出る。「あいつを始末しろ」というセリフもよくあるパターンだ。さらに使い方として「あの始末だ」「始末が悪い」と,どちらかと言えば悪い結果に対しての頻度が多くないか。だからこそというべきか「良い始末」といったときに,その労力へのねぎらいが少し増すような気がする。


 偶然なことに,今開いている文庫の題名が「始末に困る人」(藤原正彦 新潮文庫)。週刊誌連載の集約でタイトルは「管見妄語」であるそうだ。一話の題名をつけたようだが,第二章にその「始末に困る人」が載っている。結びは「出でよ,『始末に困る人』」。同感した。えっと思われるだろうが,果して対象は?

生々しく生き抜く人

2013年11月17日 | 読書
 『悩むことはない』(金子兜太 文春文庫)

 著者の本は以前にも読んでいるはずだ。俳句集ではなかったと思うが,内容は覚えていない。この本は,難解な句とは対照的にシンプルな人生観が淡々と書かれてある。そういうものかもしれない。身がすっきりしているからこそ,心に創造が生まれる。「自分自身が俳句である」と言い切ってきた九十四歳である。


 糞尿や屁,性器の話題などが頻繁に出てくる。当たり前だが奇を衒っているわけではない。「私の場合は,生々しいということがまことに大事な,そう,評価基準と言ってもいい」と書いている。それは句の評価であり,人間の評価であり,社会の評価でもあるという。生々しさを隠そうとする現在の行方を想う。


 「即物」と「対物」という言葉が出てきた。実に興味深い。「物に即する」とはいったいどういうことか。著者は「本当に物に即するには,抱き合わなきゃだめ,離れていたんじゃだめ」と書く。そこに理解,信頼,愛情が生まれる。反して「対物」は,と考えたときには自分の利益ということが頭をもたげてくる。


 対物思想,対物姿勢は役に立つことを求めてきて,それが自然科学の発展に寄与したことは言うまでもない。しかし,その過度な進行が人間を苦しめている。また人間を危機に陥らせているとはいえないか。日本人を含む東洋的な考えには「即物」的な要素がずいぶん多いはずだ。身近なふるまいを見直す原点でもある。


 この著の最後は「汝,糞尿を愛せよ」。実に本質的である。数多の動物の姿を想像するとよい。糸井重里は生き物の排泄行為を見ることをこう書く。「小さいほう、大きいほうをしているところは、無防備で、自然で、なんだか『禅』の無我のようなものさえ思わせてくれます」。著者は毎日「立禅」をしているという。

「魅力ある」の対象を心密かに

2013年11月16日 | 雑記帳
 市の公開研究会が催された。
 国立教育政策研究所の委嘱をうけている学校が会場である。
 その内容は「魅力ある学校づくり調査研究事業」というもので,不登校の未然防止が目的とされている。

 公開内容のことについて,あれこれ語りたいわけではない。

 「魅力ある学校づくり」って何だろうということだ。

 誰にとって「魅力ある」ものかと問えば,それはまず児童生徒が挙げられるのは間違いない。
 今回の公開でも「すべての子ども」という文言があったはずだ。

 ただ,もう少し幅広く考えれば,保護者や地域住民であったり,そして職員であったりするかもしれない。

 栃木県のある学校の資料にも「目的」として,その三つが載っていた。

 では,その三つの目標の優先順位は,と問うてみよう。

 そりゃ当然「児童生徒>保護者>職員」でしょう。さもなくば「保護者>児童生徒>職員」…そう,職員は仕事として報酬をもらっているから,魅力があるとかないとかの問題ではないでしょ,という論理が成り立つ。

 いや「職員>保護者>児童生徒」か「職員>児童生徒>保護者」は成り立たないのか。
 指導する職員が魅力を感じていないのに,子どもや親が魅力を感じることができるのか,とすることができる。

 はたまた「保護者」を広く納税者ととらえれば,納税者こそが一番重要という論も当然あり得る。

 結局,これは順番をつけることができない,無意味だ,併行していくことこそ肝心という大局的な見地もしくは玉虫色的な姿勢に落ち着くことになるのだろうか。

 それでも「学校づくり」は進行していくのかもしれない。
 しかし宣言しなくても心密かに定めておいた方が,個人としてはきっと「楽」だ思う。

 肝心のお前はどうなのだ,と言い返されれば,とても研究紀要のようなものには書けないが,「職員」と答えてみたい。
 それは自分がその立場にあるからであり,その立場での追求が他に強く波及すると信じなくてどうする,という思いが根強くある。

 教育の場には,指導があり,感化もあり,影響もある。そして強制もある。
 その主体者である教員が「魅力ある」という自己目的を持ち,共通理解や共有を探ることを優先したい。
 「学校」という組織の芯はそうして強くしていくのではないか。

 さて,この事業は「不登校」がテーマだったな,ああ,あの本をもう一度取りだしてみよう。

「ラブだねぇ」の,きれいな眼差し

2013年11月15日 | 雑記帳
 今季のテレビドラマは個人的には不作状況だなと思う。

 しいて挙げれば「東京バンドワゴン」が,ほんわかしてなかなかよろしい。

 なかでも,玉置浩二の親父キャラクターが本人そのもの?のようで特徴がある。
 90年代は2枚目スターで演技力もそこそこあったのになあ,あの「コーチ」というドラマはなかなかだった,そういえばこのドラマに出ている井ノ原君(V6)も生意気な青年役で出ていたなあ,と懐かしがったりする。


 さて,玉置浩二が頻繁に使う台詞に「ラブだねぇ」があり,ちょっとしたキーフレーズになっている。
 宴会では使っていい台詞だが,普段だったらそれなりの自分のキャラクターづくりをしないと,なかなか口にできない我ら日本人である。
 玉置浩二だからこその味がある。

 そして,この「ラブ」である。
 愛読誌『BRUTUS』が「ラブソング」という特集を組んだ。
 
 まあ特に詞の面を取り立てていくしかない編集だが,それなりに切り込み方があり,面白い。
 なかでもお気に入りは,リリー・フランキーの書いた,西川峰子!の歌「あなたにあげる」を取り上げた文章だ。
 その歴史性と価値を明らかにしながら,リリーはこう書く。

 インモラルであっても,美しくなくともいいのである。人間の性や業,馬鹿馬鹿しさや邪悪さ。そこに少しだけ,きれいなまなざしを加えたものがラブソングになる。

 つまり「ラブ」は,きれいなまなざしである。

 あまりにもいろいろと背負っている(多くのミュージシャンが,もっと評価されていいアーチストとして挙げているという意味で)玉置浩二が「ラブだねぇ」と口にするのは,そこに,微かであってもきれいなまなざしがあるから…妙に納得できる。

小さく幻滅,僅かに落胆

2013年11月14日 | 雑記帳
 トーク番組に登場したある大物俳優。映画監督と一緒に最新映画のプロモーションということで出演したのだろう。収録時間は定かではないが、その30分番組の中で、数回気になる場面が目に飛び込んできた。他の人が話している時の貧乏ゆすりである。幅広い役どころをこなす演技派だが、素のこれは意外だなあ。


 PC関連商品を通販サイトAから購入。迅速な対応でさすがではあるが、梱包を解くと注文したものと違っている。こういうこともあるか。通販初のトラブル?(いや二度目だ)。それにしても解せないのは、問い合わせに対するメール返答。価格が正規価格よりかなり高く設定していることも無視し,お詫びもなし。


 人間ドッグの再検で眼科を受診した。診察券をみたら6年ぶりか。そういえば、その時も再検ではなかったか。様々な検査が続いた中、そうそうと確信したのは「視野検査」の時だった。結構ハードな検査だが、結局、詳細な結果も比較データも示されず「まあ大丈夫でしょう」の一言で、結構な金額をとられてしまう。


 初雪の日から降り続き、結構な積雪量になった。車庫前に融水のためのホースを設置しなくてはならない。退勤後、降りしきる雪の中で取りかかったが、昨年まで使ったホースは程よく?ねじれて、元の形に返らない。水の向きがまるで噴水のようにあちらこちらに…。久しぶりに出てきた地下水が暴れて襲ってくる。


 雪道の集団登校は様々な面で気を遣う。特に降り始めの時期に気になるのは、傘をさす子の存在だ。一斉に注意して止めさせるのは簡単だろう。しかし毎年毎年指導されてきた高学年に、少数ではあるがそういう子がいる。どうして、何のために…という部分がまだ響かない。「正しさ」の利己的と利他的を思い出す。

皿はブタの棺桶という正しさ

2013年11月13日 | 読書
 『「正しい」とは何か?』(武田邦彦  小学館)


 「正」という名前は以前結構ポピュラーだった。新任のときに受け持った児童にもいた。
 今でも「正」が入っている名前は珍しくないだろう。それだけ日本人には愛着のある字だと思う。
 それはその意味のシンプルさも一つの理由だ。

 ただ「正しさ」の意味はずいぶんと拡散されてきて、こんな言い方も目立つようになった。自分もしているかもしれないな。

 「正しさは人の数だけあるんだよ」

 確かにそれは真理かもしれない。
 そして大変ものわかりのいいような言辞にも聞こえる。
 しかし、一つ深く考えれば、その一言は何を根拠にしているか。その言い方で何かが解決できるのか。
 そんな観点で問えば、言っている人間の底が透けて見えるかもしれない。


 武田教授が示す「正しさ」の解釈は実に論理的である。

 まず、正しさには「利己的な正しさ」と「利他的な正しさ」がある。

 利己的な正しさとは自己中心的であり、ヨーロッパの学問に基づく詭弁から発している。
 利他的な正しさには四つの基準がある。
 神(宗教)、偉人(道徳)、相手(倫理)、法律である。

 日本社会の特徴として「空気的事実を元にした、間違った正しさ」や「慣性力などの物理的法則に基づく正しさ」がある。
 これらに加えて「専門家」や「科学者」による正しさもあると言う。

 さらには上司と部下、監督と選手の間にある正しさは「仮の正しさ」と分類されている。


 これらを頭に入れながら、現在の世相や仕事上の問題を考えると、また納得できるものがある。

 利己的正しさは、例えば「商売の正義・売り手の正しさ」に結びついている。
 それらは「自らが有利になる正義」が必要で「社会としての整合性」をとるために正当化する論理の中で育てられてきた。
 ぞろぞろ出てきた偽装問題のことを思わずにはいられない。

 学校の中の教師と子どもの関係、また職員間の関係も「仮の正しさ」つまり「役割の重視」で成り立っているという視点も新鮮だ。
 それは、今少し崩れかかっている教師や親や学校、地域社会等の真っ当な役割とは何かを見直す大きな力になるような気がする。
 別の「空気的事実」に惑わされている現実も見えてくる。


 発想の転換ということで、一番興味深いエピソードが「おわりに」に載っていた。
 多摩美術大学でデザインの講座「ものの見方」を講義している武田教授が、学生に出した課題「ブタの生姜焼き定食の皿のデザイン」のアドバイスが面白い。

 「食べられるブタの身になってデザインしてください。皿は、いわばブタの棺桶なんです。」

 ちょっと頬の緩む表現ではあるが、正しさにとって一番大事なこと「心で動く」ことの本質的な例なのだと感じた。

階層の指標化づくりに目をこらす

2013年11月12日 | 読書
 もう少し『内田樹による内田樹』(内田樹  140B)を。

 レヴィナスについて語られた部分も結構面白く読めたが,やはり『街場の…』シリーズや『日本辺境論』の部分は,刺激的な文章にあふれていた。
 例えばこの文章だ。

 カントの「ルーティンの固執」は「驚く能力」の開発のためのレッスンだったのではないか

 脳の活性化のためふだんとは違うことをやってみよう!などという言い方は巷にあふれている本や雑誌によく書かれていて、素直で単純な私などはすぐ鵜呑みにしてしまう。
 しかし、実はそんな発想は薄っぺらで浅いだけだろっと宣言されたような気分だ。

 カントのような偉人との比較ではない。
 つまり、毎日の集中と継続は何のためにあるのかという目的論なのである。
 自分のようにそこに正対できない者は、いろいろな言い方に振り回されて、何にも驚くことができないでいる。


 また、自然科学と人文・社会科学の比較から、ポパーという学者の科学性の定義を紹介し次のように書いていることは、大いに納得できた。

 科学性を醸成するのは「地域性の自覚」と「共同作業への備え」ということに尽くされる

 これは教育という仕事に携わる私達もよくよく考えるべきことではないか。
 教育の目的に向かって、どのように進んでいくかと考えたとき、この二つの要素こそ決定的なのではないか。

 それなのに、今直面している現実は疑問を持たざるを得ない。
 休日の朝の報道番組は教育特集であった。どこぞの市長は「保護者のニーズを」と盛んに口にしているが、その行く先はどこに結びついているのか。

 地域差、階層差の中で子どもたちの意欲格差が進んでいると言われるなかで、教育が政治の道具のように使われている気がしてならない。
 結果的に、グローバル化へ向っての階層の指標化づくりを進めていると言っても過言ではない。


 著者が『下流志向』に関わって書いた次の表現は、いろいろと取り込まれていく教育内容、例えば英語やキャリアや道徳などと関わっている。
 その全体像と個別の実施を注意深く見ることで、せめてその進行にささやかに抗いたい。

 「社会的流動性」という新しい指標による差別が固定化した社会

ポッキーの日,雪と数字に見とれる

2013年11月11日 | 雑記帳
 天気予報は雪だったが、朝はまだ少し青い空がのぞいていた。ただ、吐く息が白くだいぶ気温が下がってきたように感じた。昼前、あっみぞれかなと思ったらあっと言う間に芝生は真っ白に。子供たちはそれほどでもないが、大人の目はもう何度も窓の外に向かう。日中に積もる初雪は久し振り、しばし見とれる。


 今朝は学校に匿名のはがきが届いた。ぎょっとするクレームではなく、心温まるお便りだ。一人暮らしの高齢者の方が、行き帰りに会う小学生の「こんにちは」の声に励まされると書いてくださった。かつて「君たちには挨拶で地域の人を元気づける役割がある」と子供たちに語ったことがあった。素直に嬉しい。


 そのお便りが、押し花葉書であったことも微笑ましい。貼られてあった切手が1972年の20円切手(3枚)だったことに驚いた。気になってちょっと調べてみたら、その年昭和47年の封書料金が20円だった。少しロマンチックに勝手な想像をすれば40年ぶりの私信投函だったか。しかもその切手は学制100年記念とあった。


 降雪期の注意ということで生徒指導だよりが出された。おたよりのタイトルがいい。「おがる」。方言で「成長する、伸びる」という意味。ねらいにぴったり、ローカリティあふれるネーミングだ。広辞苑を引いてみたら載っていた。東北地方全般とある。そして西日本では「叫ぶ」の意味とある。それもぴったりだ(笑)。


 今日が「ポッキーの日」と聞いたときは、なるほどうまいもんだなと思った。世界平和記念日と言われてもあまりぴんとこないが、ポッキーの日だったらそう簡単には忘れないだろう。そう言えば2年前、つまり2011年の今日にたまたま見つけたある飲料の蓋ラベルを撮っていた。数字が揃う造形にちょっと見とれる。