すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

タイツを履きながらぼやく

2018年12月21日 | 雑記帳
 ほぼ日「今日のダーリン」は、まったく寒さが苦手なようで、こんなことを書いていらっしゃる(12/18)。

 で、気づきましたよ。
 現在だけですよ、寒さしのげているのは。
 人類史のほとんどは、冬の寒さに正面衝突していた。
 ダウンジャケットはないし、部屋はすきま風に炭火です。
 オレは、いまという時代に生きてて、ほんとに助かった。
 ひ弱でけっこう、明日はタイツも履こうと思っています。



 我が家でもひと冬に一回ぐらいは、夫婦でこんな会話をする。

 昔は寝る部屋なんか、ほんとに寒かったなあ。
 布団にくるまって、息をすると白かったものなあ。
 朝起きると、布団の鼻や口の当たるところが濡れていたりすることも覚えているし。
 湯たんぽ、アンカ…あったかかったなあ。
 電気毛布が出た時は、衝撃的だった。



 とまあ、もはや戻れない寒さの頃を懐かしがっている。
 どうして、自然に笑みがこぼれるのだろう。


 人間が発明し、つくってきたものは本当にすごい。
 自分たちの支配の幅をどんどん拡げている。

 「暑さ寒さ」を支配しようと、衣服や冷暖房機器をつくった。

 「時間」を支配しようと、電灯をつくり、暗闇をなくした。

 「距離」を支配しようと、たくさんの乗り物をつくった。
 そして、電話やインターネットもつくった。


 ただ、そういうふうにつくられたものによって、心や身体が支配されてしまう傾向もある。
 そんなふうに縛られた心、身体を解き放つためには、やはりつくられたものから少しずつ手足を離すしかない。


 急にはできっこないよなあと、〇―トティックタイツを履きながらオレも思う。

無駄な人生にしないために

2018年12月20日 | 読書
 著者はこの研究を進めるにあたり、「無駄ノート」なるものを作り、日常生活における無駄という言葉の使い方について調べ書き込んでいった。一年間続け、「ムダ・むだ・無駄」の3つに分類したが満足はしていないという。それだけ世の中には膨大な無駄が溢れている。それでもそこから無駄でないことを見つけた。


2018読了117
 『無駄学』(西成活裕  新潮選書)



 無駄を考える上で重要なことが二つある。それは目的期間である。目的が決まっていなければ、無駄かどうか判断できない。期間が定まっていなければ評価はできない。世の中にある仕事全般に言えるが、私的な営みにも言える。従って、昨日記した「人生は無駄だった」という表現は、論理上意味を成さないのだ


 具体的に生活上の「ムダ」「むだ」を少なくするために、印象に残ったヒントがいくつかある。一つは「間を詰める」という考え方。製造における運搬のムダを省く。真面目に掛けた「間締め」と名付けられているらしい。もう一つも運搬に関わることだが、「定量より定時」だ。量より時間で区切っていく効率が高い。


 「見える化」はよくビジネスの世界で使われる。全員が問題や手立てを共有するための有効なキーワードだ。しかし個人にも当てはまり、整理下手な自分などはいつも痛感している。ムダをなくすためには、一目で見わたせる、パッと目につくようにしておくこと。この単純な原則は、生きること全般に当てはまる。


 思いや願いは見えるように、拡散させておくとよい。さて、「人生に無駄なことは一つもない」という言い方もある。それは誰にも未来は見えず、最終的な個の評価に行き着かないからか。そう考えると、究極には「利己主義」「利他主義」という観点が、無駄かどうかの決定に意味を持つ。己に残るものなど、全て無駄だ。

ムダとむだと無駄

2018年12月19日 | 読書
 著者の名前を見て、あっ渋滞学の人だと思い手にとった。ずいぶん前にも一冊読んでいた。渋滞が研究対象になると知った時も刺激を受けたが、今度はなんといっても「無駄」。かなり主観的な事柄ではないかという気がするが…。これがなかなかに面白い。単に生産や仕事効率のことだけでなく、深遠な課題なのだ。


2018読了117
 『無駄学』(西成活裕  新潮選書)



 例えば「俺の人生は無駄だった」といった演劇っぽい台詞がある。そういう場合の心理状況は特殊だろうが、この言葉を冷静に考えれば誰でも無意味さがわかる。その論理について教えてくれる一冊と言ってもいいようだ。「無駄を科学する」という第一章を皮切りに、無駄という生活語彙が科学的用語に見えてくる。


 三つに区分して定めている。「『ムダ』→見える無駄 『むだ』→見えにくい無駄 『無駄』→見えない無駄」これはわかりやすい。「ムダ」は当事者が意識している、「むだ」は意識していないが結果的にわかる、そして「無駄」は自分でコントロールが難しい、予測不可能なものだ。主対象は「ムダ」と「むだ」となる。


 「ムダ」「むだ」をなくすために、具体的には企業改善で著名な方々たちと実践したこと、また有名な「トヨタ生産方式」などの例などを引いて図式化をしている。「ムダとり学会」が組織されているほど、需要と供給、消費と生産の関係においては改善点が明らかにされている。その肝はやはり「渋滞」させないことだ。


 印象深いのは、コンビニでおにぎりなどは「売れ残りが1個だけ出るように販売するのがよい」という戦略だ。これは目標個数を定めた生産に関して「売り逃し」を最小限に防いだ根拠になるという。経済的にはこうした考え方が浸透しているのだ。しかし個人的には、生き方や地球規模の無駄がもっと興味深かった。(つづく)

痛みのままに過ごしても

2018年12月18日 | 教育ノート
 昨日の朝から腰痛に悩まされている。
 徴候はあったのだが、先週の除雪で本格化してしまったか。
 偏頭痛はかなり前から連日感じるし、先月あたりから左肩痛も結構あって、寝返りも満足にうてない。

 もはや満身創痍だが、医者には安易に通わずなんとか脱したいと自然治癒力?に望みを持っているが…もはや無理なのか。

 そう言えば、「痛」と題して雑文を書いたことを思い出した。


◆◇◆11月25日「痛」(2001年) ◆◇◆

 23日の朝から胃痛に悩まされた。なかなか収まらず、横浜方面への職員旅行へ出かけたはいいが、一人早めの帰宅となってしまった。痛みには結構強いほうと思っていたのだが、耐えているとやはり体力を消耗するらしい。痛み防止のためしょっちゅう食べ物を口に入れていたわりに、体重が少しおちていたことにびっくりした。

 数年前に入院した時の痛みもひどかった。手術後の一日、そして毎朝繰り返される医師による触診のあと、ベッドに倒れこむ毎日が続いた。看護婦さんに「我慢強いですね」と声をかけられたこともある。ふだんは何か身体に異常が生じると、すぐ対策をとりたくなる性質(たち)だが、振り返るとそんな時もあったのだなと思った。

 痛みに耐えられるためには、次の二つが必要かなとふと思う。

 ひとつは「なぜ、痛いのか」という原因、理由がわかっていること。もうひとつは「いつかはおさまる、こうすれば治る」といった見通しがわかっていること。この二つがはっきりしていると痛みに耐える自分に価値を見出すことができるから、そんなに苦痛?ではない。原因もわからない、見通しもたたないでは不安という心理的要素が痛みを増大させ、人は参ってしまうにちがいない。


 今、この国の首相が口にしている「痛みの伴う改革」もその点がしっかり把握できていればそんなに辛くはないと思うのだが…。原因はそこそこわかるけれど、見通しは明らかに悪い。

 「痛」はやまいだれに、甬(ヨウ)と書く。甬はもともと道という意味がある。これからの痛みは、病を克服する道になるのか。病だけの道になるのか…。

◆◇◆◇◆◇◆

 当時は第一次小泉政権だったはず。
 国として、あの痛みによって失われたものは多いし、依然として病状は進行しているようにも思う。

 痛み止めばかり打つ緩和治療のようなことばかりが目立つと感じるのは、私だけだろうか。

寄り道気分の読書

2018年12月17日 | 読書
 向上心を維持するには、「旅」あるいは「読書」

 その通りと思う。意識してきたことでもある。

 そろそろ今年の振り返りの時期だが、旅も読書も中身が問題だ。

 どちらも方向はだいたい決まっているのだが、寄り道も楽しいね…といった感じで読了した2冊。


2018読了115
 『ハル』(木皿泉  マッグガーデン)


 著者の初アニメ脚本のノベライズ。アニメへの関心が強いわけでもないので、作品は未見である。
 監督やプロデューサーとの特別座談会が巻末に収められている。少女漫画の範疇に入るとされるが、やはり木皿脚本の魅力があり、なかなか読ませる物語だ。

 舞台は2030年代の京都。こうした設定の中に普遍的なものを込める意味は大きい。私たちは何を守り、どう進んでいくのか…その問いかけが内容されている。
 ほんの些細な表現だが、七夕の短冊についての解釈に感心してしまった。

 「願いごとがかなうことより、自分の願いごとが、みんなのと一緒にここにある、そのことを確認して、うれしくなる。だから、そんな風習を何百年もつづけてきたのだろう」



2018読了116
 『ご縁とお役目』(矢作直樹  ワニブックス「PLUS」新書)


 著者は救急医療を手掛ける医師でありながら、霊や神という科学の枠を越えた存在について多く言及している。この新書にも多くの記述があり、読む人によってうさん臭さを感じる場合もあるかもしれない。
 しかし、そうした感じ方も含めて全て受容する姿勢を貫いていることに、一種の清々しささえ覚える。某小人数政党の候補者として選挙にも出馬したが、比例の最下位という位置づけも頷けるものがある(笑)。

 いずれにしても、人が「ご縁」と「役目」を大切にする生き方は肯定したい。
 この本は、神道の歴史観を体現する言葉「中今(なかいま)」の意味を知っただけでも価値がある。

「過去でも未来でもない、現在の自分が大事、現在の振る舞いが大事、現在の気持ちが大事」

5000日目の感謝多謝

2018年12月16日 | 雑記帳
 ブログ編集画面に「開設してから〇日」という表示が小さく記されている。先月だったか、もうすぐ区切りの数字を迎えることに気づいた。開設自体は誰でも出来ることだから意味はないかもしれないが、「5000日」となるとなんとなく感慨深い(笑)。スタート時を検索してみると2005年4月9日とある。管外の小学校で教頭を務め2年目を迎えた年度初めだった。


 実は個人ブログはその前年の秋から始めていた。ホームページも持っていたがより手軽にアップできるし、日頃の雑感を主にずいぶんハマって続けていた。ブームだったし訪問者も多かった。途中でなんとなく読書や教育関連の要素を強めたい気持ちが湧いてきて、別サイトもいいかと、このブログを開いた。しかしこちらはサブ的な扱いとしていたように思う。


 前のブログを閉じたのは2007年春。プロバイダー変更を機にこちらへ合体する形となった。まあ、根がモノ好きなのでその後も写真、食べ物等と雑多に立ち上げてみたが、結局コンスタントにアップできているのはここだけだ。しかし、継続とはエライもので、こんな「広告の裏にでも書いてろ!」レベルであっても、それなりの訪問者、閲覧者に支えられている。



 表示画面に訪問数等はないが、編集には毎日記録化されていて、今日現在で閲覧は約187万、訪問は約53万を示している。平均すると一日閲覧373、訪問107となるが、ほぼ日刊的になった一昨年あたりから閲覧は500~800、訪問は200~300が多い。日によっては桁数が違ったこともあったりして、びっくりしたこともあった。本当に感謝多謝の一言である。


 目的は何かと訊かれると一瞬答えに窮する。しかしきっと、20代で日刊の学級通信を目指して書き続けたことと同じ地平のような気がする。ただ、黙っていても読者のいた現役時とは違う。だから訪問してくれた方々の心にほんの数ミリでも振動を感じられることを、と思うけれど、我がままだけが膨らむ自覚がある。あとどのくらい維持していけるのだろうか。


 5000日だったら次は10000日かと思うけれど、その時はもう後期高齢者になっていることに気づく。その未来予測が笑える。

「わざわいは幸い」と夢で書く

2018年12月15日 | 雑記帳
 またぞろ夢を見た話を一つ。書道をしている。大きな紙に古典の臨書課題か。経験はないのだが…2枚もあり、なかなかうまく捗らず、どうしようと慌てている。校舎(?)のなかを廻ると他の人たちは楽しく遊んでいるようだ。戻って考えることは、どうにか切り抜けるアイデアはないか、紙を前に打開策を練っている。


 最近全く筆を持たないし、TVで見た書道パフォーマンスが印象深かったのか、それとも鶴瓶の番組で加山雄三が筆を持った場面が残ったのか…と翌朝考えていたら、例の「今年の漢字」が発表された。「災」とは!確かに理由は頷けるが、明るい象徴でないことはやはり残念だ。書かれた筆文字は少し柔らかい気がした。



 さて「」という字は「川(の異体字)」+「火」で出来ている。字源は「水災+火災」から出来上がったと考えられるが、別に「川をせき止めるせき+大火」という説もある。転じて「生活の進行をせき止めてじゃまをする物事」を指すようになったらしい。そうなると自然災害はもちろんだが、「わざわい」全般となる。


 「わざわい」は「」だけでなく、「」それに「」さらに「」という漢字がある。災は天災が意味の中心のようだが、禍は「落とし穴」が語源で、そのようなわざわいを指す。厄は「つかえて通せず困ること」。そして殃は、「人を押さえつけてじゃまをし、死なせることを示す」と、恐ろしいことが書いてあった。


 殃は別にしても災、禍、厄には救いもある。「わざわい」を使う諺や慣用句の多くは「わざわい転じて福となす」のように、人を振り返らせたり元気づけたりする詞である。端的なのは「わざわいは幸い」だろう。そもそも「わざ」とは「神のしわざの意」である。神に恥じる行為がなければ…そうだ、夢で筆を握ろう。

改革はいつもズレ、ユレル

2018年12月14日 | 教育ノート
 BSプレミアムの『アナザーストーリーズ』のテーマが「ゆとり教育」とあったので視聴した。冒頭のナレーションが低く語りだしたのは「今から16年前、学校が変わった」。つまり2002年の学習指導要領改訂を指しているが、現場感覚ではそれ以前を指している。「ゆとり教育」の範囲は、一般的定義より前だと思う。



 それはさておき、取り上げられたのは三つの視点だ。一つは長野の伊那小学校。いわゆる「総合学習」を全国に知らしめた屈指の伝統校だ。現役時代に訪問したかったが叶わなかった学校の一つだ。次は元文部官僚寺脇研。いうまでもなく「ゆとり教育」の立役者。そしてもう一つが学習塾日能研の代表高木幹夫だった。


 「教師たちがみた教育改革の光と影」と題された1部は伊那小を中心に描かれた。理想を持って長い年月取り組んだ学校であり、国の動きがどうであれ揺らぐ部分は少なかったと思う。しかし注目度が高まるほど、教師たちにとってはある意味の枷が強まるのが現実であり、それをどう乗り切ったか現在に興味がわく。


 寺脇の著作も読んでいるし、その動向もある程度把握していた。しかし2002年現場に少なからず影響を及ぼした「学びのすすめ」という、いわば「ゆとり教育」をある面で縛った文書を寺脇本人が書いたのには驚いた。それがぎりぎりの妥協だったという苦渋も滲ませた。しかし教育の潮流を揺さぶったことは確かだ。


 高木の主張は明快で、受験という枠を越え教育に関する公的機関の限界を見据えていたように思う。伊那小教諭が語った「『ゆとり』とは『ゆっくり』やることではなく『とことん』やること」という一言は、冠する名前はどうあれ、公教育における理想実現の難しさを物語る。現場はいつもダブルバインドに悩んでいる。

「変わりたい」と言っているうちは

2018年12月13日 | 読書
 「子どもの頃からずっと、『変わりたい』と思いながら生きてきました」と前書きに記されている。同感の思いを抱く人は少なくないかもしれない。そしてまた現実を皆知っている。著者も「思う以上に堅牢な」自分を語り、またこう書く。「『変わりたい』などと言っているうちは、まだまだ。何も変わりはしないのです。



2018読了114
 『閉じる幸せ』(残間理江子  岩波新書)



 変わるために選ぶべき行動して「閉じる」を挙げた。自身が母親の介護を通して考えたことを皮切りに、多彩な交友や仕事上めぐり会った方々の例を紹介しつつ、「閉じる」ことを提案し、その素晴らしさを書いている。後ろ向きの表現とも言えるが、本筋は「閉じることで得たエネルギー」の活かし方とも言えよう。


 第一章「閉じるは、いろいろ」で7人が紹介されているが、結局したいことが明確かどうかにかかっている。考えてみればそれなしの「閉じる」は死に近いのではないか。仕事に邁進する中でも消えない思い、また偶然の出逢いにより芽吹く考え…それらを絶やさずに持ち続けるには、やはり意志の強さが求められる。


 第二章「閉じるは、わが身の棚卸し」。ここでは著者の「閉じ方」への試みが書かれる。苦笑したのは「備蓄女」という表現。それはわが身にもそっくり当てはまる。「『足りないこと』『乏しいこと』に対する潜在的恐怖心」という自己分析もぴたりである。「いつの日か」という発想を閉じるだけでも、かなり変われるか。


 今までも「捨てる」や「断捨離」をキーワードにした出版物は流行り、人々はモノの処理だけでなく、暮らしのスリム化や精選的な生き方に憧れているとわかる。「閉じる」もそれらに通ずる。端的に言えば「欲望とのつきあい方」。欲望に飼い慣らされている自覚は、何かを閉じれば一層強く持てるのは確かなようだ。

個性から適性を見抜く

2018年12月12日 | 読書
 よく言われるように、同級会などを開くと「優等生」はただの人となり、「はみだしっ子」だった者がいっぱしの社長になっていたりする例がある。
 受け持った子の中にも「この子はどんな環境でも生き抜いていく」と思わせられた者が何人もいた。



Volume.132
 「最近、脳科学では脳の個性と適性が研究されています。そして、『勉強ができる』というのは、企業の経営者としては欠点なのかもしれないという説が出てきています。」

 先日読了した本に、茂木健一郎が書いていた文である。


 「勉強ができる子」は国語も算数も理科も…全部自分でやってしまうが、「社長の役割」を考えたときに、それとマッチするのか、ということである。人にやらせる、任せるを中心的役割とすると、かえって「勉強ができず」にあれこれ画策する方が、経営者として適性があるのではないか。

 夏休み最終日、できる子は課題を全部自分で完成しゆっくりしているが、できない子は誰に頼もうか、写させてもらおうかとかいろいろ作戦を練っている。
 その時に実現可能にするために、頼む人の適性なども見極めている。もし断られた場合は…と頭を巡らしている。
 そんなふうに考えると、経営に求められる資質を鍛えているとも言えそうだ。


 やや極論めいているが、この知見には、学校における授業はもちろん、宿題ひとつとっても様々に考えるべきことがあることを教えてくれる。
 それをやらせる側が、いったい何をねらって、どんな能力を育てようとしているのか、そしてそのやり方をどれほどの幅を持って評価できるか。

 近視眼的教育に陥らないために、時々振り返ってみたいことだ。