Mさんの疎開先で
Mさんの哲学
↑疎開先とバスの中をイメージしました
雑談の中から
昨年も山歩き皆勤賞、今年も皆勤賞。バスの座席に隣り合わせた、Mさん。
日曜日、一度も休むことなく山登りに精を出すMさんにすっかり敬服した。
どうしてこうまで山に登るのですか…?
意外な言葉が返ってきた。
私は東京生まれ、岩手の山の中で育ちました。
終戦(s、20年)が、小学1年生。東京の空襲がひどくなり、学校に上がる前から父
親の里、岩手の祖母の家に行き、中学が終わるまで疎開していた。
東京の家は焼かれ、父親は苦労しながら何とか生活を守り少ない金ではあったが岩手に送金してくれました。遊び盛り、食べ盛りでいつも野山を駆け巡りお腹を空かしていた。
山には薪を拾いに行き、畑からは野菜や、サツマイモを掘ってきて何とか空腹をしのいだ。でも有難いことに食べることは不自由しなかった。しかし山だからお米はあまりなかった。
母親は、東京で衣類を持って食料と物々交換に出歩いて、なんとか飢えをしのいで生き抜いてきた・・・・と、後から聞きました。
いまこうして定年を迎え、小学生の幼き日々を振り返ると、岩手の祖母・祖父と生活を山でくらしたことが懐かしくひしひしと走馬灯のごとく蘇ってくるのです。自然の恩恵が有り難く、命を継げられたのもあの自然の中からいただいたもろもろの何物でもない。一日たりとも忘れることが無かった。
Mさんは,堰を切ったように一気に話され、一瞬のよどみもなかった。
私(縄文人)も同じ年代、秩父の山中でくらしたから生活の様子は手に取るようにわかった。東京からの疎開して来たひとたちとも川遊び、山遊びで駆け巡った。
Mさんは、定年を迎えひと区切る着いたところで考えをめぐらした。
山に行き、あの頃の感謝の気持ちを、山歩きにぶっけよう、と・・・・・固い決心をしたとのことでした。
そして最後にこう付け加えた。
健康、家族の協力、若干の金銭のゆとりがないと続きません。いまこうして暮らせるのも、皆さんのおかげ、そして自然からの恩恵のおかげです。
以上