安藤鶴夫著「ごぶ・ゆるね」(旺文社文庫)に
「神田パノラマ館」という短文がありました。
そこに、
ああ、そう思えばいいのだと納得した箇所がありました。
「・・・このごろ、としよりが、みんな、昔の話をすることを、まるで、わるいことかなんぞのように思うらしく、なんだか、そっとして、ちっとも話してくれないようになってしまった。
たぶん、老人の、そんな昔ばなしなんぞ、いまの若いひとは、おかしくて、聞いちゃアいられない、ということかなんかで、としよりが、若いものに、出来るだけ、いやがられまいというところから、たまにゃア、自分の若いころの話も、したいのにちがいないのに、なんだか、こらえているような気配がある。
いまの若いひとだって、あッという間に、としよりになってしまって、昔アね、かなんか、やっぱり、きっと、そんな話を聞いてもらいたい時が、もうすぐくるのに、自分だけは、たぶん、としよりになんかなるものか、と、思ってるのと、違うだろうか。
そんな時の、それこそ、断絶というか、疎外というか、としをとってからの、そういう生活のさびしさ、つらさは、たぶん、現在のとしよりたちの、なん百倍、なん千倍かと思うのだが・・・・」(p128~129)
この箇所、読めてよかった。
「神田パノラマ館」という短文がありました。
そこに、
ああ、そう思えばいいのだと納得した箇所がありました。
「・・・このごろ、としよりが、みんな、昔の話をすることを、まるで、わるいことかなんぞのように思うらしく、なんだか、そっとして、ちっとも話してくれないようになってしまった。
たぶん、老人の、そんな昔ばなしなんぞ、いまの若いひとは、おかしくて、聞いちゃアいられない、ということかなんかで、としよりが、若いものに、出来るだけ、いやがられまいというところから、たまにゃア、自分の若いころの話も、したいのにちがいないのに、なんだか、こらえているような気配がある。
いまの若いひとだって、あッという間に、としよりになってしまって、昔アね、かなんか、やっぱり、きっと、そんな話を聞いてもらいたい時が、もうすぐくるのに、自分だけは、たぶん、としよりになんかなるものか、と、思ってるのと、違うだろうか。
そんな時の、それこそ、断絶というか、疎外というか、としをとってからの、そういう生活のさびしさ、つらさは、たぶん、現在のとしよりたちの、なん百倍、なん千倍かと思うのだが・・・・」(p128~129)
この箇所、読めてよかった。