和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

杉の木の上に。

2013-05-28 | 本棚並べ
いとうせいこう著「想像ラジオ」(河出書房新社)を
中島岳志は書評の冒頭で、簡潔に紹介しておりました。

「あの日、津波が去った後、高い杉の木の上に一人の男が引っかかった。・・彼は自らの死を認識しないまま、人々の想像力を電波にラジオ番組を流し始めた。それが『想像ラジオ』。リスナーの多くは死者だが、生者にも届く。・・・」

読売新聞2013年4月24日文化欄に「磯田道史氏の古今をちこち」がありました。
その中頃に、

「南三陸で聞き取り調査をして、いろんなことがわかった。例えば、神社仏閣が津波後に食糧難の状況でも比較的素早く再建されるのはなぜか。材料となる、津波で枯死した松や杉が大量に現地にあるからである。また、再建を始めたほうが、被災者も職と食にありつけたのである。
寺社の参道の杉並木は津波で3㍍水没すると、塩害でかなり枯れる。10㍍水没したら根元に10㌢以上、塩分を含んだ津波の砂がたまるからすべて枯れる。古文書には、しばしば津波で境内の樹木が枯れたとの伝承があるが、現場に行くと、どれほど枯れるか、よくわかった。
町内には大雄寺という古寺がある。標高6・2㍍地点に樹齢300年の杉並木があったが、津波で約10㍍浸水。津波で並木は全体の4分の1を残して流失し、夏までに全部枯れたという。・・・・」

以下も知見に富んでおります。このあとに「南三陸で一番古い海辺の神社は荒沢神社」として語られていきます。いまや古文書の権威・磯田道史氏。ここまでにしておきます(笑)。

さてっと、柳田國男著「日本の祭」の話。
この「日本の祭」の自序は、こうはじまっておりました。

「昭和16年の秋、東京の大学に全学会というものが設けられ、その教養部においていろいろの講義を聴くこととなった際に、自分は頼まれてこの『日本の祭』という話をした。聴衆は理工農医の襟章を附けた人が多く、文学部の学生はむしろ少なかった。・・現代の日本には小学校以来、一度もこういう講義を聴かないのはもちろん、問題としてこれを考えてみる機会をもたなかった人が、どうやら非常に多そうに思われる。・・・」

さて「日本の祭」に「祭場の標示」という章がありまして、
「祭には必ず木を立てるということ、これが日本の神道の古今を一貫する特徴の一つであった。」とはじまります。
この章から、すこし断片引用。

「今一つは第二の世界との交通、夢にこの世を去った父母や故友と逢う。人が特殊の精神状態に入れば、常は見たり聞いたりし得ぬものを見聞する。凡夫にはわからぬというのみで、霊界の人は常に語ろうとしている。鳥でも獣でも草木虫魚でも皆通信しているのだが、こちらにしかるべきアンテナがないために、通例はそれが受取れないのである。・・・日本では特に神霊が人に憑いて語るということ、木でも草でも何にでも依るということ、この二つが大衆の古い常識であった。・・・」

うん。いとうせいこう著「想像ラジオ」の裾野はひろそうです。

この章の最後のほうも引用。

「要するに日本の祭は、大となく小となく、都会と田舎、村の公けと家々の祭とを問わず、木を立てずして行うものは今とても一つもない。」

うん。この講演は昭和16年秋なのでした。

「祭は本来国民に取って、特に高尚なる一つの消費生活であった。我々の生産活動はこれあるがために、単なる物質の営みに堕在することを免れたのであった。」

いとうせいこう。
磯田道史。
柳田國男。

この三人を結びつける「ラジオ番組」が、聴きたくなります。
そうそう。
「こちらにしかるべきアンテナがないために、通例はそれが受取れないのである。」
コメント
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