和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

独楽独吟。

2011-01-16 | 詩歌
私は、本を買っても、読まない。
たとえばです。ここに窪田空穂全集の全29冊がある。
これを古本で購入したのですが、
その一冊を読んだだけで満足している。
あとは読まずに本棚に並んでおります。
という調子で、本は買っても読まない。
ちと、読もうとすれば、未読の本はあるのに、
それなのに、新刊や古本を買ったりする。

たまたま、あるキッカケがあると、
そういう未読本にもスポットライトがあたる。
がぜん本棚が輝いて見える。
ということがあります。

ということで、以下そのことについて。
ブログ「読書で日暮し」のTsubuteさんが、
その触媒を買って出てくれておりました。
ありがたかったなあ、
それはTsubuteさんの2011年1月9日のブログでした。
「橘曙覧」をとりあげて

「橘曙覧全歌集」(岩波文庫)
折口信夫著「歌の話・歌の円寂する時」(岩波文庫)
松岡正剛著「白川静」(平凡社新書)

という3冊の本の画像まで、掲げておりました。
ありがたい。いままで「独楽吟」どまりで、
どう食いついてよいのか判らなかった。
その扉が、すこし開いたような気がします。
ありがたい。いながらにしてキッカケがつかめました。

ということで、まずは、
持っている本をあさります。
折口信夫著「世々の歌びと」(角川文庫)
ここに、「歌の話」と「追い書きにかえて 明治の新派和歌」がはいっている。つぎに松岡正剛著「白川静」をひらく。といっても、辞書でさがすように、本文は読まずに、お目当ての箇所のみ。

「これはまだ十分な明治短歌史の研究がないところなんですが、鉄幹や正岡子規が万葉に憧れ、それがアララギの伝統になったというのは、私はどうも橘曙覧の影響が大きかっただろうとおもっています。曙覧が天田愚庵(あまだぐあん)に影響を与え、その愚庵が子規を鼓舞した。そんな関係があったのかもしれません。子規は『歌は万葉と橘曙覧に尽きる』とすら言っているのです。そのことを白川さんは2003年の福井での講演で、『子規は、万葉4500首に対して曙覧(あけみ)一人を当てておる』と誇らしげに言われていました。」(p119)

これで、はずみがつきました。

折口信夫著「橘曙覧評伝」(日本精神叢書53)を読む。
ちなみに、これは文庫として出ておりました。
昭和16年印刷。私が持っていたのは昭和18年再刷のもので、
頭が全頁水シミのあとがありました。
いきおいがついたので、おかげで、読めました(笑)。
うん。よかった。この文庫には、最後に折口氏が選んだ短歌抄が掲載され。たのしいのは、それに○や2重○、点や2重点がついて、折口信夫の評価が、ちゃんとわかるようにしてあること。


さて、ここからです(笑)。
ついでに、本棚にある窪田空穂全集にあたってみる。
ありました。
「窪田空穂全集」の第十巻「古典文学論Ⅱ」に
橘曙覧に関する文章が4つ掲載されておりました。
私に興味深かったのは「橘曙覧といふ人」という文。

折口信夫の評伝は、すばらしかったのです。
ですが、あまりに評伝としての結構にこだわってしまった力作であるのに対して、窪田空穂の文は、普段着で曙覧と対しておられるような魅力があるのでした。
まあ、どちらも違う魅力で光っております。
うん。窪田空穂の橘曙覧短歌鑑賞は、これは欠かせません。

ということで、Tsubuteさんの参考文献に
窪田空穂の1冊を追加しておきます。
ひょっとして、どなたか
さらに、追加してくださる方がおられれば、
これまた「たのしみは・・・」です。
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極めて簡単。

2011-01-15 | 短文紹介
毎日ブログを更新しようとすると、ついつい(笑)、
中途半端な文を書いているなあ、と思うのでした。

さて、昨日の外山滋比古氏の新刊についての追記。
すこし注釈がいると思ったわけなのでした。
思い浮かんだのは、西田幾多郎の言葉でした。

「回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。
 その前半は黒板を前にして坐した、
 その後半は黒板を後ろにして立った。
 黒板に向って一回転をなしたといえば、
 それで私の伝記は尽きるのである。」

     「西田幾多郎随筆集」(岩波文庫)p10

外山滋比古氏も、仕分けをすれば、この黒板組なのでした。
それが、文章にもあらわれておりますので、
それを、嫌う方には、なんとも鼻持ちならない文ともなるかもしれません。ですが、それを差し引いても、得るところ豊かな文なのであります。
と、これを追伸のかたちで、書いておきます。

それから、「極めて簡単」という言葉で思い浮かぶのは、
清水幾太郎著「私の文章作法」でした。
その「第八話 落語の教訓」にこんな箇所。

「私が生まれた、東京の日本橋には、近所に寄席が二つ三つあって、よく父親に連れて行って貰いました。近頃の新作落語と違って、古い落語の多くは、ただゲラゲラとお客を笑わせるものではなかったように思います。笑わせながら、同時に、人生というものの悲しさの中へ私たちを導き入れたように思います。それは幼い小学生の私にもよく判りました。
いや、そういう問題は、別の機会にお話するとして、大切なのは、落語には、どこにも無駄がないという点です。『相変わらず、古いお笑いを一席申し上げます』と言ったかと思うと、調子を変えて、『与太郎や・・・』という風に本題に入ってしまいます。長い前置きや弁解などありません。最後まで、どこにも無駄な言葉はありません。かつては無駄な言葉もあったのかと思いますが、長い歴史の中で一つ一つ削り落されて、エッセンスだけが残っているのでしょう。それが伝統というものです。もちろん、文章を眼で読むのと、落語を耳で聞くのとでは、大きな違いがあります。しかし、無駄をなくすこと、退屈する隙間を残さないこと、これは双方に通じる話であろうと思います。・・・」


その「無駄をなくすこと」を旗印に、
外山滋比古氏は、モンテーニュや徒然草からの伝統にのっとって、この一冊を書いておられました。

それを何といったらよいのだろうなあ。
重要なテーマを、手作りの言葉で掘り出しておられる。
こういう「極めて単純」なテーマを磨いてくださいと語りかけてくるように。

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随筆と落語。

2011-01-14 | 古典
外山滋比古の新刊「朝採りの思考」(講談社)を読む。
ぱらぱらとめくっているのですが、
私には、外山滋比古氏が、名人の落語家でもあるような、
そんな印象をあたえられます。
じつは、昨年から、気がつくと、氏の古本の文庫本などを購入しておりました。
ですから、重複を辞さない、エッセイの書き方は、私なりに理解しているつもりです。面白いのは、一度書かれた文を、選択しながら、一冊に洗練してゆく楽しみを読めること。文章に現れたエピソードはそのままに、いろいろなバリエーションを楽しめます。文章の素材は篩(ふるい)をかけて選ばれており、それを名人の落語家が味わい深く料理してゆくようなエッセイとしての文章運び。
これは、落語家が同じ噺を繰り返しながら、芸を鍛えてゆく。そんなやり方と同じじゃないのかと、今回の本を読んで、あらためて私は、うんうんとうなづきます。短い文なのですが、この新刊、そのエッセイとしての洗練が、落語で味わうところの、息抜きの間合いとして、他にかえがたい貴重な一冊となっている気がいたします。
ということで、この人のエッセイを読んだことのない方には、まずは、お薦めの一冊。もちろん、専門の研究書もあるのですが、何といっても、外山滋比古氏のすばらしさは、その研究書と、こういうエッセイとが地続きの言葉として味わえるところ。
1923年生まれ。同時代に、こうして新刊を読めるよろこび。
なにげなくも買った一冊でしたが、こうして1月に読めるよろこび(笑)。
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日記は動く。

2011-01-13 | 短文紹介
荒川洋治著「日記をつける」(岩波現代文庫)を読み始める。
その出だしを読んでいると、ああ、やっと荒川洋治の面白さが、すこしつかめた気分になる。前に山本善行著「古本のことしか頭になかった」をひらいていたら、「荒川さんの著作を長年愛読してきた」(p71)という箇所があって、それが理解できない私でした。それが、「日記をつける」を読み始め、すこし取っ掛かりがつかめるような気がします。
私の手ごたえは、こんな感じかなあ。

 「詩」という砥石で、言葉を研いでいると、いつのまにか、こういう文章が書けるようになるのじゃないか。そんな手ごたえ。へんに余白へと、余韻をまきちらさずに、余白が空白のまま立っているようなすがすがしさ(なに言ってるのだろうね)。
ああ、こういう文章を書きたいなあ。と思わせるものがあります。
なんてね。さてっと、この手ごたえを大切にとっておきましょう。

ところで、ひとつだけ引用しておきましょう。
それは「日記からはじまる」という文にありまして、
幸田文に触れた箇所でした。


「これはものごとが、いったん『ことば』になるということである。『興味を持つ』ということそのものがひとつの『ことば』に変わるのだ。ものごとだけでは、じきに沈んでしまう。『ことば』になることで、文章は羽根をつける。四方に飛び散っていくのだ。思考もひろいところへ出ていくのだ。読む人をうるおすものになるのだ。・・・ことばが回りはじめると、日記は動く。エッセイになる。」(p150)
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みみずの這ったような。

2011-01-12 | Weblog
読まない癖して、本を買う。
今日届いたのは、
中野三敏著「くずし字で『百人一首』を楽しむ 古文書入門」(角川学芸出版)。これ平成22年11月25日初版となっておりますが、ネット古本検索にて、1000円でした(定価が2100円)。これなら買います。買います。じつはこれ9日の毎日新聞の今週の本棚で紹介されていた一冊なのでした。その「はじめに」にこうあります。

「最近、社会のいろいろな局面で、江戸が取り沙汰されることが、とても頻繁に目につくようになりました。・・・・・基本的には、あのみみずの這ったようなくずし字が読めるということが、江戸を理解する第一歩であることは、以外に軽んじられていたようにも思います。」

そこで、中野三敏氏の提案が語られておりました。

「・・古文書という名称に顕著なように、多くの場合、手書きの文書や写本を対象としているからです。これは余程の志と、有能な導き手の存在なしには、往々にして挫折を余儀なくされる場合が多いように思います。何故なら、写本や古文書の文字は、書き手によってすべて違ってくるので初心者にとっては最も読み難いものだからです。文書ならずとも短冊・茶掛け・古写本・手紙の類は専門家の間でも最も難関の部類であり、そこから入門することは、いわば全くの登山の初心者が、のっけからヒマラヤ登山を志しているようなものだからなのです。そこで次のような提案をしたいと思います。
初心者は写本ではなく、江戸期の極く通俗的な木版本(板本)を読むことから始めるのが良いかと思います。・・・」


初心者はうれしい限りの一冊。
楽しんで、謎解きのようにして、
みみずの這ったようくずし字を目で追うことになります。

見開きの右がその木版本で下には絵入り。
左ページに、現代語訳と、それに少しばかり「くずし字」を説明。
あたかも、観光ガイドさんに案内されての名所見学という気分で、
百人一首をたどることとなります。
漢字がひらがなに変わる、その不思議が、
あたかも漢字がバケるのを目撃するような楽しさとして味わえるのでした。
これを何回も繰り返し読んでいれば馴染んできそうです。
なんせ、みみずを元の漢字にして読み解く興奮。
ここには、そんな楽しみが待ってくれておりました。
言葉の意味ばかり追うのが、何とも味気なくなってくるほどに。
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疾風に勁草を知る。

2011-01-11 | 短文紹介
本について、思ったこと。
表紙をチラリ見るだけなのは、
たとえば、テレビで顔をみるようなものでしょうか。
すると、さらりと読むというのは、
どこかで、すれ違うという縁かもしれず。
ちょいと、その際に会話を交えることでもあったり。
そのあと、書評を読むというのは・・・・。


じつは、鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)を、
語りたかったのですが、まわりくどくなりました。
私は最初、岩波書店のPR誌「図書」の連載で
1~2年の間読んでいたことがありました。
途中でもういいや。と思ってやめておりました。
その7年分の連載が新書になった。
さっそく読んで感銘。
けれども、もう内容も忘れておりました。
この前、古新聞を片づけていたら、
江上剛氏の「思い出袋」への書評記事がある。
たいそう、印象に残る、書評でしたので、
また読みたいと思っておりました。
それがまた読めた。ですから、すこし引用。
最初に、新書の成り立ちと氏の簡単な紹介をして

「・・・まずなにより名文だ。
論理的であるがゆえに、その内容がいささかの抵抗もなく心に浸透していく。文章を読むことの心地よさをこれほど味わえることはめったにない。」

とあります。絶賛じゃないですか。
はたして、私はそんなように、この新書を読んでいたかどうか不安になってきました。つぎに、その名文の名文たる指摘が続きます。

「私は、サラリーマンを長く務めてきた。
その間、たくさんの稟議書を書いてきたが、
本書は絶対に参考になる。
最初の1行にテーマが打ち出され、それに対して
著者の考えが具体的事例を伴って演繹的に展開される。
最後に結論としての考えてと、課題が提示される。」

( うん。私の簡単読みが恥ずかしい。 )
その名文たるゆえんを、「絶対に」という言葉もつかって
フル回転で伝えようとしております。
もうすこし、引用をつづけます。

「著者は10代の多感な時期をアメリカで暮らしたためにこのような論理的明晰さを身につけたのだろうが、本書に倣って稟議書を作成すれば難しい案件も容易に承認されるだろう。俗っぽい実益的な読み方を提案してしまったが、本書の眼目はなんといっても『疾風に勁草(けいそう)を知る』の例えのごとく生きる強さだ。どのエッセイからも泉のように生命力があふれ出て来る。人生に疲れた人は、読むごとに本書を机上に伏せ、目を閉じ、著者の言葉を反芻してみるとよい。沸々とエネルギーが満ちるのを感じるだろう。どの言葉も人生への真摯なアフォリズム(箴言)となっている。・・・」

つい、引用したくなる書評というのは
めったにないのですが、やはり、ある。
なんだか、話し合いなどしているうちに、
魅力ある指摘をしてくださっるのを、
ありがたく拝聴している気分になります。

私は、そんな風には思いもしないで
読んでいたのですが、その指摘をなぞって
あらためて、読んでみたくなるのでした。
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小紙。

2011-01-11 | 短文紹介
産経新聞を購読しております。
この新聞で、思いもかけなかったのは、
ときどき、古い同紙の言葉をとりあげていること。
たとえば、1月10日の産経抄は、こうはじまっております。

「元日の小紙の『正論』と『主張』は、くしくも『芯』という同じテーマだった。曾野綾子さんと小紙の中静敬一郎論説委員長は、ともに日本人の芯がむしばまれつつある現状に、強い警鐘を鳴らしていた。・・・・」

あるいは、1月8日の「土日曜日に書く」での
論説委員皿木喜久の文章にあるこんな箇所。


「もう昨年末にことになったが、仙石由人官房長官の発言がまたまた物議をかもした。・・・その点については先月29日付の本紙『主張』が厳しく批判している。それをもう一度取り上げる気になったのは、仙石氏の発言が『戦後教育』の落とし穴にスッポリとはまりこんでしまったもののように思えるからだ。・・・」

ここは、題して「民主政権むしばむ戦後教育」。

なにごとも、整理苦手な私は、
こういう時、俄然はりきって、古新聞を掻き分けて
その時には、読んでもいない、そのお目当ての文を捜すのでした。
いやはや、何とも、産経新聞は捨てがたい。

さてっと、今年は日めくりカレンダーを日々切り取りながら
(じっさいは、一枚一枚下に引き抜く感じなのですが)、
今年こそ、ブログを忘れずに書いていこうと、思うのでした(笑)。
そう思うと、それについてのあれこれが気になるなあ。
たとえば、「日記」。

毎日新聞は、日曜日だけ配達してもらっています。
日曜日には、「今週の本棚」がある。
余得として、毎日歌壇・毎日俳壇も読める。
その毎日俳壇の西村和子選の最初の句は、こうでした。


「 三行と決めて向き合ふ初日記  茅ケ崎市 早川幸子 」

その選評は
「一日三行なら三日坊主にならずにすみそう。
 定型を守る気構えも『向き合ふ』に表われている。」

ちなみに西村和子選の2句目は

「 木枯しに決意のほどを問はれけり  大和郡山市 奥良彦」

脱線してゆくなあ、
毎日歌壇も紹介

篠弘選の一首目は

  上司とは辛きものなり思いきり
    叱りし後のフォロー頼まる  町田市 冨山俊朗

伊藤一彦選の一首目は

  何とかして会話ぺらぺらつなぐうち
    自分が薄っぺらになってゆく  狭山市 小塩佐奈


選者の歌も新年で載っておりました。
そこから篠弘氏の二首。題は「初仕事」。

 読まざりし本を上にしこの秋に
   求めし古書を積み直しゐる   

 ひらきゆく古書目録は初仕事
   いくすぢか朱のラインを引かな


毎日新聞の「今週の本棚」も、
何かつまらなくなってきたので、
もう購読はやめようかなあと、
そんなことを思いながら1月9日(日曜日)の
書評欄をひらくと、短い書評が目にはいりました。

荒川洋治著「日記をつける」(岩波現代文庫)
(弐)さんが書いておりまして、その最後は、

「・・・日記について語りながら、文章の奥義を語る。こうして人は文章を書くのだと納得させる。荒川版『文章読本』の趣である。」

それから(才)さんの短評で
長谷川櫂著「日めくり 四季のうた」(中公新書)
そのはじまりは

「大岡信『折々のうた』にはじまる(?)新聞的短詩形文学名作選の一つを日ごよみ形式にして編集した。撰(せん)がいちいち気がきいていて、心が洗われる。・・・」


もちろん。この二冊は注文(笑)。

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高峰秀子。

2011-01-10 | 短文紹介
朝日新聞の暮れから新年にかけての古新聞をもらってきました。
読みたかったのは、1月4日の文化欄。
関川夏央の「やりきれなさ美しく  高峰秀子さんを悼む」という文でした。
はじまりは、

「 昭和の戦前戦後を通じて、
  日本映画全盛期を象徴する女優だった。
  きれいな人だった。
  賢い人だった。
  子役から大女優への道を歩いた
  希有な人でもあった。     」

こういう簡潔な文体での追悼文。張り詰めた感触がつたわります。
つい、引用したくなります。

「 愛称は『デコ』、
  男の子役もこなして『秀坊』とも呼ばれた。
  不満があるときタヌキ寝入りするので
  『ゴテ秀』でもあったが、  
  天才子役として名を馳せた。
  彼女が出るだけで客は喜び、
  大いに泣いた。
  ・・・・・・
  養母は、秀子と自分の人格を同一視し、
  経済的には秀子に寄生した。
  『気の毒なほど気がまわる』
  『かわいそうなくらい利口』
  といわれた彼女は、
  いわば『たたかう勤労少女』だった。 」

ここまで、引用したのですから、最後の箇所も(笑)。

「 『浮雲』公開直後、
  『デコと成瀬(巳喜男)にとって、最高の仕事』
  と評した手紙を、
  彼女は小津安二郎から受けとった。
  そこには
  『早く40歳になって、僕の仕事にも出て下さい』
  とあった。
  63年、小津が60歳の誕生日に亡くなったとき
  彼女は39歳だった。
  高峰秀子は79年まで実り多い『映画渡世』
  をつづけたが、
  この一事だけはいまだに悔やまれてならない。」


ちなみに、
日経新聞1月3日最後のページ文化欄に佐藤忠男の
「戦後の心に染みた名演技」。
各映画に沿った具体的な指摘をしており丹念的確。
産経新聞は産経抄(1月3日)で取り上げておりました。
そのはじまりは、
「日本映画を代表する名女優だった高峰秀子さんは、
大変な名文家でもあった。半生を綴った
『わたしの渡世日記』などの作品を正月休みに読み直して、
あらためて思う。・・・・・・」
読売新聞の追悼は河原畑寧(1月4日)。
産経新聞は1月5日に品田雄吉の追悼談話。
ひとつ選ぶなら、
私は関川夏央の文でいいや。
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12年ぶりの絵本。

2011-01-09 | Weblog
今年になって、シリーズ5巻目の最新作が発売になっておりました。
島田ゆかの絵本「バムとケロ」シリーズのことです。
1999年に、シリーズ4巻目「バムとケロのおかいもの」が出て。それから、もう12年です。こちらは、すっかり待つのも忘れておりました(笑)。けれども、シリーズ最新作のこの絵本をひらけば、いつものバムとケロがいつものようにベッドからおきて、いつものように食べながら、少しずつふえる仲間とともに出かけているのでした。今回は、木苺つみにでかけてからの物語。そこで、木の上にある古い小屋を発見。それをきれいにかたづけ、皆で集まっての「星をみる会」までのテンマツです。細かい描きこみが、後半になればなるほど、またしても最初のページをもどって見直さなきゃ、と思わせる。それも、いままでどおりのお楽しみ。くもの巣がはって、枯れ葉が散乱する古い小屋の修繕では。ペンキを塗る際に、一面に床に敷く古新聞さえもが、なにやら登場人物?の記事になっていたり、ちらかしているのか、あたらしくしているのか、わからないような部屋の乱雑さは、いつもの見どころとなっております。その部屋に散乱する遊び道具が、いかにもありそうでないような、なさそうでもあるような不思議な空間を演出しているのでした。
こうしてストーリイをお話しても、とにかくも手にとってご覧にならなければ、ちっともわからないのが、この絵本の面白さの味わい。まるで楽しい間違い探しのようでもあります。つぎの巻が登場するまで、さて、この絵本のシリーズをまとめて見直すといたしましょう。そのうちまた、本棚で、次の巻が出るまで、埃をかぶることになるのだろうなあ。

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上人(しょうにん)。

2011-01-09 | 短文紹介
昨年の暮。飲み会で若い真言宗のお坊さんと話す機会がありました。
何でも地元の真言宗のお坊さんが、子がいないので、その檀家を引き継ぐために来ているとのこと。現在はアパート暮らしで、ときどき京都の修業のお寺にもどったりしているというような様子を聞きました。そのときは、この若い方は、足を骨折していたのに、いっしょになって、たのしく飲みました。
そういえば、空海を読んだことがないなあ。今年読みたいなあ。
そんなことを思いながら、さらに聞きながら、私がかってに思っていたのは「上人」ということばでした。親鸞上人というのがある。
その上人について、簡潔に説明している人がいたのですが、
それが誰だったのか、思い出せない。
そんなに読んでいないので、簡単にさがせます。
ということで、今年になって思い出して、
梅原猛著「誤解された歎異抄」
山折哲雄著「親鸞をよむ」「『教行信証』を読む」
で確認してみたのですが、その箇所がない。
ああ、そうか。と思って
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」をひらいてみました。
ここに、あった。簡単にみつかったのですが、
こうして、気になる箇所がみつかるとうれしいですね。
ということで、すこしその前後を引用。


「一説に、東北地方、白河以北に正規の僧侶が行ったのは、元禄時代だと言います。それには異論があると思いますが、だいたい東北の仏教というのは、羽黒山あたりの修験者が支えていたんです。伊達政宗が生れるときに、伊達政宗は、いまの山形県の土着の貴族ですから、安産の祈願とか、いろいろご祈祷を頼みますと羽黒山の修験者のような人が来ます。正規の坊さんではないのです。羽黒山の修験者は民間宗教なものですから、正規の僧侶ではありません。その正規の僧侶でない人を、敬称を付けて、どう呼ぶのかと言うと、『上人』と呼ぶのです。
いまは、日本語が紊乱しまして、上人と言うと、偉い人のようにきこえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称であって、たとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とは言いません。最澄(767~822)も空海も有資格者だからで、無資格者に対してはたとえば親鸞上人というふうに敬称します。ただ親鸞の場合は、ときに聖人(しょうにん)と書きます。聖と言うのは乞食坊主のことです。
聖と賤は紙の表裏だとよく言いますが、聖というのは、普通、中世の言葉では、正規の僧の資格を持たない、乞食坊主のことをいいました。だから尊くもありました。
親鸞の師匠の法然の場合は、ちょっと微妙です。法然は正規の戒を受けて、正規の叡山の僧侶であったにもかかわらず、それを捨て、黒谷の里に下りて来て、大衆に説法したということで、当時、評判だったのです。
だから、当時の人は『知恵第一の法然坊』とよく言いました。それは要するに高文を通った人が、そのへんで乞食しているという意味です。その驚きと尊敬を込めて、法然に対しては上人と言います。」

じつは、司馬遼太郎氏のこの文は「浄土  日本的思想の鍵」というのですが、
この後、たいへん印象的な箇所がつづくのでした。
ということで、また引用。


「以下はたいへん文化人類学的な、あるいは民俗学的な話です・・
・・・・・・・・
日本の仏教は正規の坊さんが、葬式の主役であったことは本来ないんです。だいたい仏教に、葬式というものはありません。お釈迦さんが、葬式の世話をしたり、お釈迦さんの偉い弟子達が、葬式のお経を読んだという話も聞いたことがありません。またずっと下がって日本仏教の、最初の礎であった叡山の僧侶が、関白が死んだからといって、お葬式するために出かけて行ったということもありません。
いまでも奈良朝に起こった宗旨は、お葬式をしません。たとえば奈良の東大寺の官長が死のうが、僧侶が死のうが、東大寺のなかでお経をあげません。そのための坊さんが奈良の下町にいて、それを呼んで来て、お経をあげさせる。それはお上人ですから東大寺の仲間には入れていません。
葬式をする坊さんというのは、非僧非俗の人、さっきのお上人・お聖人でした。つまり親鸞のような人です。また叡山を捨てた後の法然も、そういう立場の人だったわけです。非僧非俗、つまりお医者で言えば、無資格で診療しているようなものです。さきほどの東北の羽黒山の修験者も浄土真宗と関係ありませんが、非僧非俗では同じといえます。
 だから日本仏教には、表通りには正規の僧侶がいて、裏通りには非僧非俗がいて――つまり官立の僧と私立の僧がいて――どっち側が日本仏教かということも、思想史的に重要な問題です。私は鎌倉以後は非僧非俗のほうが日本仏教の正統だったと思います。・・・」


また、引用が長くなりました。
それにしても司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」の「無用」に、いつも思い出しては、ハッとさせられる。そのことに、あらためて気づかされるのでした。
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戦後教育の瑕疵。

2011-01-08 | 短文紹介
古本ですが、岩波新書に桑原武夫編「一日一言」があります。
写真入りで1月1日から12月31日まで。毎日がそれこそ日めくりのように並べられている新書。ちなみに私は持っておりますが、読んではおりません(笑)。
いまでいえば、どのような新書が思い当たるのか、といえば
たとえば、関厚夫著「一日一名言 歴史との対話365」(新潮新書)でしょうか。
その関厚夫氏は、今も産経新聞で「次代への名言」という連載をしておりまして、
本年は「妻夫(めおと)物語」として、はじまっております。
その1月1日に、こうあります。
「これからしばらく、本稿は晶子と鉄幹という妻夫(女夫、夫婦とも書く)を軸に進む。・・」とあります。
最初の言葉はこうでした。
「かの人も此人(このひと)も皆あらたまれ 春の初めに祝(ほ)ぐことは是れ 与謝野晶子」。あとに続く文章のはじまりは、この引用。

「『私が年の初めに祝つて述べる言葉は外に無い。どの人も皆新しくおなりなさいと言ふことだけです。人の心が新しくならねば、年ばかり改まつても何にもなりません。』  与謝野晶子は冒頭の自作についてそう解説している。・・・・」


さて「次代への名言」の妻夫物語はどのような引用展開があるのか、これから楽しみです。もどって、関厚夫著「一日一名言」(新潮新書)の5月10日を引用したくなりました。

1904年桑原武夫生れる
「ひとつの人間のなかに対立矛盾的なものが共存しているということは、楽しいことじゃないでしょうか」と桑原氏の言葉を引用したあとに、
桑原武夫氏の説明をしておりました。
せっかくですので、はじめから引用。

「家学は東洋学だが、29歳の年にスタンダールの不朽の名作『赤と黒』を初めて本格的に翻訳した仏文学者にして、柳田國男や富岡鉄斎の「発見者」。パキスタンの秘峰、チョゴリザの初登頂に成功、『人生は冒険によってしか切り抜けられぬ場合がある』と語る探検家の顔ももつ。冒頭は、深い人間洞察をたたえた箴言。桑原はかくも多彩な人、そして、ほれぼれするような『戦闘性』をもった文筆家だった。・・・」

最後には、桑原氏のこの言葉を引用しておりました。


「新井白石の合理主義、本居宣長のねばっこい追求力、そして明治維新をなしとげて、独立を守りえた私たちの祖父たちの知力と勇気、そうしたものをこそ、近代国家としての今の日本の中で改めて継承せねばならないのである。」


そういえば、1月8日の産経新聞「土日曜日に書く」で論説委員皿木喜久の文に、継承の断絶が書き込まれておりました。
せっかくですから、引用。


「仙石(由人)氏は昭和21年1月の生まれだから、27年小学校入学のはずである。筆者よりもちょっとだけ上の世代である。だからよくわかるのだが、当時の日教組を中心とした教育は子供たちにくどいほど『平和』だとか『反戦』をたたきこんだ。だがその『平和』を守り、国や家族を守るための戦いの意味についてはまったく教えなかった。ましてや国のために戦って死んだ人を祭ること、つまり靖国神社などの存在理由は小指の先ほども学んだ経験はない。」
「仙石氏はその前にも、国会答弁で自衛隊を『暴力装置』と呼び、顰蹙を買った。これも、国を守ることや自衛隊の意味についてまったく教えようとしなかった戦後教育の瑕疵(かし)としか思えなかった。」

つい、今日の新聞から引用しました。

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伝習録。

2011-01-07 | 前書・後書。
中央公論新社「梅棹忠夫に挑む」(2008年)の序でとうの梅棹忠夫氏が書いておりました。

「わたしの米寿に際して、わかい友人がおいわいの会をひらいてくださるという。それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせてはざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて議論をしたらどうかと提案した。その結果、2008年6月1日に、大阪千里でわたしの米寿の記念シンポジウムというのがひらかれた。・・・盛大な討論会となった。わたしはほんとにうれしかった。この年になって、このような機会がめぐってこようとは、おもいもしなかった。・・・」



こういう発想はどこからくるのだろうなあ。
そういえば、梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫伝習録」(潮出版社)が思い浮かぶ。
その序文で梅棹氏は、こう書いておりました。

「『伝習』とは、師のおしえをうけて、まなぶこと、というほどの意であろう。『桑原武夫伝習録』というのは、桑原武夫から何をおしえられたか、何をまなんだか、それを各人の立場からしるしたものの集成ということになろう。桑原先生とは師弟関係とはいえぬ人たちも、何ごとかをこの巨人からおそわり、まなばれたはずである。その種々相がここにある。」

ということで、この本には、さまざまな方が書いておりましたが、
そういえば、加藤秀俊氏の文はなかった。

思い出すのは、「桑原武夫集 10」(岩波書店)。
そこには、さまざまな推薦文がまとめてあります。
その推薦文のなかに「近代化の思想家」という一文があります。
はじまりは、

「加藤秀俊は近代化日本を代表する思想家である。」

この1ページほどの文は、「加藤秀俊著作集」の推薦文。
それが、絶賛としか思えないほめ言葉で綴られているのでした。
せっかくですから、引用しておきます。


「・・近代化の成功なくして今日のわれわれの幸福な生活のありえないことは、加藤とともに、私の確認するところである。もちろん日本の近代化にも弱点はあるが、世界的にすばらしい点も少なくない。そのプラス面をもっとも見事に象徴しているのが加藤だといえる。
まず彼はたぐいなく勤勉である。しかもその勤勉は受身でなく主体的にして誠実である。人々の学説を鈍重に積みかさねるのではなく、つねに自分の目と足とで現地に現物を確かめてから聡明に料理する。」

うんうん。私は加藤秀俊著「メディアの発生」を読んで、この「つねに自分の目と足とで現地に現物を確かめてから聡明に料理する」という言葉を、あらてめて確認したような気がします。桑原武夫の推薦文をつづけます。

「勤勉の当然の帰結として彼は良質多産である。十二巻の著作集が彼が書いたものの半ばしか収めえていないというのは驚くべきエネルギーというほかはないが、その収録作品目次を眺めてさらに驚くことがある。それは表題に一つとして物ほしげな文学的なものがなく、すべて短く具体的なことである。彼の学問に甘さの情緒性がなく、取扱う対象は多方面にわたりながら、すべて澄明な意志によって統合されていることのあらわれといえる。」

まだ、つづくのですが、引用はこのへんで。

さて。と思うのです、それでは加藤秀俊氏は、
桑原武夫をどのように書いていたか。
それが「わが師わが友」にあるのでした。
以下引用が長くなります。

「・・・わたしの記憶が正しければ、桑原先生とさいしょに同席させていただく機会を得たのは、『日本映画を見る会』に参加したときであったようにおもう。この会は、要するに毎月一回、課題映画をきめ、それをみんなが見たうえで合評会をする、というのが趣旨で、メンバーは、人文の各部を問わないばかりか、誰でも入ってよろしい、ということになっていた。・・・」

ちょっと省略していきたいのですが、
これ、現在古本でしか読めないし、
(ネット上では、簡単に全文が読めます)
重要なところなので、引用しちゃいます。

「なぜこんな会ができたか、といえば、だいたい、インテリというものは、大衆なの人民だのと、えらそうなことを口にしながらも、映画を見るということになると(当時、テレビはまだなかった)、おおむね西洋の、それも芸術映画を見る傾向があり、ルネ・クレールがどうのとか、ハンフリー・ボガードだどうとか、結局はカタカナばかりの人名で映画論議をすることが多かったからである。ほんとうに大衆をうんぬんするのなら、西洋映画などと関係のない大衆文化の中に自らをひたしてみることがまずだいじであろう。そこで、きわめて大衆性の高い人気映画、たとえば大川橋蔵、中村錦之助、美空ひばり、などの主演するチャンバラ映画やメロドラマを見ることがこの会の特色になったのである。
合評会の会場は、あちこちにうごいたが、いちばん多く使われたのは『晦庵(みそかあん)』こと河道屋であったように思う。・・・・・この河道屋では、大げさにいうと現代日本思想史にのこすことのできるような大議論がいくたびとなくくりかえされたのであった。たとえば、映画『明治天皇と日露大戦争』をめぐって井上清、梅棹忠夫両氏のあいだでかわされた近代化論争、あるいは、『七人の侍』を素材にした河野健二先生の日本知識人論など、その場面さえ、いまになってもありありと思い出されるのである。
そういうとき、ごくあたりまえのようにわれわれが司会者として見做すのは桑原先生であった。先生は、きわめて率直、明快に自説を展開なさるとともに、議論が白熱しすぎると、その調整をはかってくださるのである。その調整能力は抜群であって、しかも、ユーモアがみごとに織りまぜられている。われわれの仲間には、ずいぶん頑固な人もいたけれども、だいたい、桑原先生の調整のまえにはカブトをぬぐのがふつうであった。・・・・」

これから、「京都と東京のちがい」という魅力あるスジ運びが展開してゆくのでした。ですが、これくらいで(笑)。おあとは、ネット上の加藤秀俊データベースでお読みください。
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陽の沈むころ。

2011-01-06 | 詩歌
本を読んでいません(笑)。
ところで、小さい日めくりの1月4日には
「丸い玉子も切りようで四角」という言葉がありました。
そういえば。
と、河盛好蔵著「人とつき合う法」(新潮文庫)をひらく。
その「言葉づかい」という文に、こんなのがあります。

「 堀口大學さんに次のような詩がある。

   円い玉子も切りようで
   同じ言葉も使いよう

   それは羽毛(はね)より軽くなり
   それは石より重くなる

   そこのけじめに詩はほろび
   そこのけじめに詩は生きる

 人間同士のつき合いも、言葉づかいの如何(いかん)で生きたり死んだりする。・・・・」(p59~60)


うんうん。
ちょうど、手近にある小沢書店の「堀口大學全集 1」。
さがせば、それは詩集「夕の虹」にありました。
けれども、「詩人に」と題されたその詩の、最後の二行は
どうやら、河盛好蔵氏はカットしたようです。
あるいは、最初は、最後の二行は書きこまれておらなかったか?
さすれば、あらためて引用してみましょう。

    詩人に

  円い玉子も切りやうで
  同じ言葉も使ひやう

  それは羽毛より軽くなり
  それは石より重くなる

  そこのけぢめに詩はほろび
  そこのけぢめに詩は生きる

  口はあまりに出鱈目だ
  詩人よ 耳で語ろうよ!


この最後の二行があるのと、ないのと。
ちなみに、ついでに詩集「夕の虹」から、

     詩

  難儀なところに詩は尋ねたい
  ぬきさしならぬ詩が作りたい

  たとへば梁も柱もないが
  しかも揺るがぬ一軒の家

  行と行とが支へになつて
  言葉と言葉がこだまし合つて

  果てて果てない詩が作りたい
  難儀なところに詩は求めたい


もうひとつ、詩集「夕の虹」から、一行の詩


      定義

  詩はそんなものではない


それじゃ、詩はなんなのだ。
そこで、また「夕の虹」から詩「夕空の虹」

    夕空の虹

  歌も
  詩も
  俳句だとても
  夕空の
  虹でありたい

  西山(せいざん)に
  陽の
  沈む頃
  東天に
  咲きも出でたい

  七いろの色彩(あいろ)をこめて
  高々と
  中空(なかぞら)に立ち
  脚は地に
  しかと届いて


そうそう、虹ではないのですが、
1月の夕日。引き込まれそうな、きれいさです。
コメント (3)
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徳岡氏の指摘。

2011-01-05 | 詩歌
1月5日は消防団の出初式。
昨年3月まで消防団員でした。
今年は表彰の関係で、
来賓席にすわっておりました。
よい天気で、よかった。
それが12時前に終わり、帰ってから
ラーメンつくって、コタツで寝ちゃいました。

以前消防団に入っていたころ、
出初が終わってからは、飲み会で、その際、
地区の年配の方に聞いていたのですが、
昔は、天皇陛下のお言葉の代読があったとか。

そこで、1月1日に掲載されていた
「天皇陛下が昨年詠まれた歌」というのを
見ると、最後に「奄美大島豪雨災害」がありました。

 被災せる人々を案じテレビにて豪雨に広がる濁流を見る


出初式もけっこう代読が多いのですが、
同じ代読でも、陛下の歌の代読なら聞きたいなあ、
と思ったりするのは私だけかなあ。

さて、新聞の陛下の歌のあとには皇后さまの歌があります。
そこに「はやぶさ」を歌ったものがあります。

 その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝かに明かるかりしと


ここで、思い浮かべるのは美智子皇后著「橋をかける」でした。
そこに引用される弟橘媛(おとたちばなひめ)の歌。

 さねさし相模の小野に燃ゆる火の
   火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも

この美智子皇后さまの
国際児童図書評議会世界大会の基調講演について、
いま、私に思い浮かぶのは、徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女」(文春新書)。
この1999年の箇所に載っております(p250~251)。
そこにある徳岡氏の文はというと。


「日本の高校の歴史教科書は、従軍慰安婦のことは教えても日本武尊(やまとたけるのみこと・または倭建命)については一言も教えない。だが『古事記』が語る物語は生き生きと躍り、その躍動感は今日読む者にも伝わる。弟橘媛は日本武尊の后である。彼は天皇ではないが、妃ではなく后と書いて万事天皇に准じている。」

さて、これから以後は、この講演があってから、一般常識となったので、省いてもいいのでしょうが、もう一度引用しておきましょう。


「日本武尊は東国平定の戦旅で走水(はしりみず)から船で浦賀水道に出たとき、波風が騒いで遭難しそうになった。そのとき海中に身を投じて海神の怒りを鎮め夫を救ったのが弟橘媛である。日本武尊は使命を果たして西へ帰る途次、足柄の峠で亡き妻を偲んで『あづまはや』と三度嘆いた。足柄より東の東国を『あづま』(吾妻)と呼ぶのは故事に拠るという。」


このあとの徳岡孝夫氏の指摘が、印象に残ります。
それが「はやぶさ」の一首を読んだときに思い浮かんだのでした。
その徳岡氏の言葉は。


「何にびっくりしたかというと、この古歌に皇后の覚悟を見たからである。彼女は夫に万一のことがあった場合、身を捧げる覚悟をなさっている。その心構えを、弟橘媛の歌に託して言われたのであろう。あの方は尋常の人ではない。」

せめて、こういう機会に「尋常の人ではない」方を思い描く。

さて、ここで話題をかえて、
歌といえば、読売新聞の1月3日は
月曜日なので読売歌壇・読売俳壇があり、
さらに、その選者の新春詠も掲載されて読み応えがありました。

たとえば、俳壇の矢島渚男選の3句目にこうありました。

 シンプルな句を作れよと冬晴るる  横浜市 谷口一好

選評はこうでした。
「冬晴れの空を見上げていると、シンプルな句を作れと言われているような気がする。そう、できるならば俳句は単純なほうがいい。言葉はやさしく、心は深く。」


さて、その矢島渚男の「新春詠」は3句。
その3句目に、呼応してるような、こんな句。

 青空の瑕漌(かきん)もよけれ初詣

ここで、やっぱり
岡野弘彦氏の短歌も一首引用。


  海原に生(あ)れいづる日は、
  いたつきの身をいたはれと
  われに直射(たださ)す


今年の初日の出は、海岸まで出かけずじまい。それでも、
暮れから新年にかけて、朝日が窓を通して部屋の奥へととどいてきます。
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とじめ。

2011-01-04 | 詩歌
長谷川郁夫著「堀口大學 詩は一生の長い道」(河出書房新社)の序だけを読み。私は楽しめました(笑)。さてっと、話はそれます。A5判サイズで厚みが4.5センチの堂々とした本です。ちょうど、小沢書店の堀口大學全集と並べても高さがちょっと低いぐらいであとは同じように感じます。まあ、序だけしか読んでいなかったのですが、何と、14ページと15ページの間の谷間。「のど」と呼ぶのでしょうか。本のとじめの部分。そこが開いていたら、パックリと音ともに裂けてしまった。その間からガーゼの布のようなものが見えます。本の背とページとの間の「花ぎれ」というのでしょうか、そこの端が、うまく製本されていかなったようです。あれあれ、古本でもせっかくきれいな本だったのになあ。何だか、バラして分割しながら読みたくなるような誘惑にかられる割れ口です。

それはそうと、割れ口のすこし前のページに、堀口大學氏の詩がいくつか引用されており。そのひとつ「お目あて」が印象に残ります(p12)。

 ―― 現代詩?

 ―― 小さい! 小さい!
    ボクの狙(ねら)いは
    永遠の詩ですよ

これは、思潮社の現代詩文庫1019「堀口大學詩集」には、選ばれておりません(なんだか、現代詩文庫だから選ばれないのは当然のようにも思いえてきたりするのが妙です)。ちなみに、小沢書店の「堀口大學全集 1」を見ると、詩集「秋黄昏」にありました(p464)。全集1で「お目あて」のひとつ前の詩は「詩歌両刀」というのがありました。開いたついでに、それも引用。

   詩歌両刀

 鰻もうまいが
 穴子もうまい

 酒もうまいが
 ビールもうまい

 片よることは
 ないと思うよ


余談ついでに(だんだんそれてゆくなあ)、
向井敏著「机上の一群」の題名について、
その本の後記にこうありました。

「・・『机上の一群』の総題を冠しました。『格別な一群の書物』を扱った本というほどの意味を寓したといっていえなくはないでしょうが、察せられるように、この題名、じつは堀口大學の訳詩集『月下の一群』からの借用です。あるいは、そのもじり。ひょっとして、盗用ということになるのかもしれません。・・・・・
上田敏の『海潮音』、永井荷風の『珊瑚集』、そして堀口大學の『月下の一群』、この三冊の訳詩集は内容のうえで傑出しているだけではありません、それぞれの題名がまたすばらしい。なかでも、『月下の一群』は奇蹟的な名品と呼ぶに値します。月の砂漠をゆく隊商。月光に濡れる花々。月下の無人の街の底を疾駆する何やらあやしげな一団。それは数かぎりないイメージをよびさまし、いちど知ったらまず忘れることができないでしょう。・・・」

さてっと、ことのついでに向井敏著「書斎の旅人」。
これ、中公文庫で持っていたのですが、気になって新潮社の単行本を手にしてみました。さまざまな書評の間、箸休めみたいにして、数ページ。数十ページごとに両面白紙のページが挟み込まれて、そのはじめの真ん中に数行の詩。たとえば単行本のp12には



     言葉は浅く
     意(こころ)は深く
    
        堀口大學『わが詩法』


とあったりします。
ちなみに、単行本の方には、カバーの帯に短く


 駄文には沈黙を。隠れた名文には盛大な拍手を!

カバーの後ろには、本のなかの「『あとがき』に代えて」の言葉とは、似ているのですが、ちょっと違う文が、真ん中に書き込まれておりました。せっかくですから、そこも引用。

「長いあいだ旅をしてきた。行く先々で心ひかれる男たち女たちに数知れず会い、夜を徹して盃をかわし合った。・・・・彼らとの歓談をひとり胸に秘めておくにしのびなくて、時折り、そのさまを短い文章に綴った。旅は旅でも、これは本のなかの旅である。その印象記は、ふつう書評と呼ばれるが、来る夜ごと、・・・小さい部屋を基地として、時空をこえる旅に出、その見聞を書きとめたときの心躍りを思えば、書評というより、これはやはり紀行と呼びたい気持が私にはある。」

「書斎の旅人」には、堀口大學全集についても書きこまれておりまして。
そこから、すこし。


「・・堀口大學がなくなって、ちょうど一年になる(昭和56年3月15日死去。享年89)。生前に企画された『堀口大學全集』(全9巻・補巻3・別巻1)の刊行がようやくはじまり、『訳詩Ⅰ』(第二巻)につづいて、さきごろ『詩・短歌』(第一巻)が出、詩人の全詩業を通覧する機会にめぐまれたことを喜びたい。・・・・」


うん。たしか私が堀口大學全集の第一巻を古本で購入したのは、向井さんのこれを読んでからでした。違うかなあ、丸谷才一氏の文を読んでからだったか、忘れました。
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