おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書59「私が見た21の死刑判決」青沼陽一郎(文春新書)

2009-11-23 19:15:00 | つぶやき
 裁判員制度が始まって半年。誰もが裁判員になる可能性があった中、すでに各地の裁判所で一般の国民が裁判員として裁判の判決に関わってきている。
 こうした制度がどのように定着するか、制度としてふさわしいかどうか、始まる前は賛否両論。いざ始まってみると、出廷義務や守秘義務のことなど、さまざまな克服すべき点もあるが、一応順調に進み出している。
 検察側の求刑通りか少し下回る、当初の予想通り、被害者感情に依拠する傾向の判決が出てきそうだという流れになっているようだ。(これは、導入に際して言われた、国民一般の意識であると同時に、これまでの裁判のあり方への批判にもなっているかもしれない)
 今のところ、えん罪との判決はもとより、「死刑」判決が出ていないが、今後、こうした判決に関わっていくかもしれない。その時の裁判員はどういう状況に置かれるか。他人事ではすまされない、責任と苦渋の判断が求めれる事態が生まれるだろう。
 裁判への国民的関心が生まれてくることはけっこうなことだが、芸能人の大麻裁判の時のように、行き過ぎなほどの、マスコミの大騒ぎ。こうした表層的な「裁判への関心度」アップでは見逃してしまいそうな、重大事件への裁判員一人ひとりの判断が問われることになったとき、果たしてどうか?
 この本は、オーム麻原裁判を始め、刑事裁判を傍聴する長年の体験の中で、見てきた死刑判決の裁判傍聴記である。死刑判決を言い渡された時の、「凶悪犯罪」被告の表情、裁判官の言動、それらを実際の目で確かめているが故の、記録の重さがある。
 特に最後に取り上げた、裁判員制度を見据えた裁判。江東区のマンション女性バラバラ殺人事件。検察官が画面に次々と映し出した画像に説明を加える。女性のバラバラになった肉片。裁判員に視覚的にわかりやすく、という目的だった。
 女性を部屋に連れ込み、殺害した状況を本人の証言に合わせてモデルを相手のフィルム、イラスト、具体的な行為を微細に視覚的に見せていく。
 こうした尋問が法廷で3日間続いたという。この時の法廷の異常な(・・筆者の言葉)様子を記している。裁判員制度を意識した「演出」のようだ、と。
 この書は、長年、裁判の傍聴をしてきた方の、危うさの多い裁判員(制度)への切実な訴えでもある。その根底には、誰もが、死刑判決に加わる、皆が「死刑、死刑」と叫び回る状況への危機感・恐怖がある。
 「21」件もの死刑裁判の傍聴記というような、たんなる興味本位の書では、けっしてなかった。裁判傍聴「マニア」だからこそ到達しえた、裁判員制度への問題提起である。
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