パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

市側の甘い判断に過ぎない(一般の会社ならどうか?)

2015年08月08日 17時16分16秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

どうも気になるので、エアコンもなく扇風機が活躍する二階の部屋で
本日二度目の投稿(暇だなと言う声が聞こえそう)

気になること、それは8月6日の中日新聞の記事

これは単に市側が実務協議をした結果 不可能と判断した
と報道しているに過ぎない
当然、反対意見の求める会側は実務協議で提出した案に更に一工夫すれば
可能と考えている

ところがこうしてメディアに、まして大きなタイトルで掲載されてしまうと
少しばかり早とちりの人は、市民案は不可能が真実と勘違いしてしまう可能性がある

現実に昨日試しに実務協議を傍聴していないある方に
庁舎建設の見直しがどうなっているかをそれとなく聞いてみた
すると、やはりと言うか残念というか、市民案は不可能なんだってね
と言う声がでた

同じ事柄についてある側は不可能と言い
ある側は可能であると考え
その不可能といった方を報道しているに過ぎない
この報道が公平だったか、またどのような経緯でなされたのかは
分からないが、ここのところはよく考えなければならない

ところで、実務協議で問題となった縮小された机
市民案2(つまり実務協議の4回目に出された案)では
市側の要求通りのサイズになっており過度の縮小は行われていない

市民案2の前に市側と打ち合わせた時には90センチとなっていたが
それでは仕事がしづらいとの意見を受けて、市民側は
市側の要求する106センチの机でレイアウトしなおし
それでも机は収まるとした

ところが、市民案2が出る前の90センチの検討案を勝手に持ちだして
市長を囲んでの討論会に市民案の否定のために利用した人物がいる
正式な市民案でもなんでもないものを取り上げて
市民案はダメだという印象を、いくら市長後援会が主催する会だとはいえ
与えようとしたのは問題ではないか

実は困っているのはその途中のデータを渡すように要求された市の職員
議員から提出するように求められれば、むやみに断ることができない
ましてどのように使われるか分からないし、、
こうした行為は、やっぱり普通ではない
なにか住民投票の運動時の嫌な気分に通じるものがある

ところで、実務協議の最終日、市民案で机・ロッカーが収まると説明された時
市側からロッカーが入るのは分かったが、手元に置きたい資料が
歩いて取りに行かなければならないところにあるのは困る旨の発言があった

これは公務員以外の普通の会社勤めをしている人たちには
大変評判の悪い発言になっている
そんなこと、歩いて取りに行けばいいじゃん
私たちは5階建ての1階から5階まで取りに行ったことがあるとか
要求の全部が全部 限られた条件内では叶えられるわけではない
その何かを自分たちも甘んじて受けることも必要(歩くとか)
つまり、手元にないことはそんなに大問題ではないと言う認識
優先すべきはもっと別の問題だ
と言うわけだ

そういえば、もう一つ一般の社会の人の考える方法と
今回の実務協議での運営の仕方が大きく異なる点があった
特に求める会のメンバーがそれを言うのではなくても、求める会以外の普通の人が、
「市側に3階建て30億の制限のもとに山下設計に
案を出させればいいのではないか
彼らだって今までに様々な条件下でプランを出してきたのだから
それでできないとは言わないはず
自分たちの仕事の進め方だって、、、、」
と自らの体験を元にした話を続ける

つまり、カクカク・シカジカでできませんと市側が公言するのは
一般社会にとってはなんら説得力のないことといえる
この事実を踏まえて、先の新聞記事に戻ると
市側の判断というのは、なんて自分たちに甘いモノか!となる

新聞報道は大きな力を持っている
でも本当に必要なのはその報道を解釈する力

先日の中日新聞の記事を勘違いされないことを望む

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お任せ民主主義

2015年08月08日 09時00分16秒 | あれこれ考えること

たまたまある人のブログで見つけた言葉「お任せ民主主義」
これが 自分の町 新城市においても的を得ている感じで
気になって仕方ない

議会制民主主義、とか二元代表制だとか
要は選挙で選ばれた議員さんが市民の声を代表して
物事を決めていくシステム

一般の人が個々に様々な問題に頭を突っ込んで
詳しく知らべ 行動を起こすことは
良いことかもしれないが、現実的ではない
一般人は様々なことに関心があるというよりは
自分の周辺のことに関してだけ興味がある
まして物事を決めていくには幾つもの段階があり
それぞれ場面場面で法律的な要素が絡んでくる
となると、一般人にはそれだけの知識はない

だから、そういった専門職としての議員さんを選んで
自分たちの代わりに自分たちの意志を反映してもらおうとする

議員さんを選ぶ側からすれば「お任せ」ということになる
しかし、このお任せが上手く機能しているか
と考えると 、どうもそうではないらしい
というのが新城だけでなく日本各地で見られる傾向のようだ

一旦選ばれてしまった議員さんは妙に声高に自慢気に、
自分の判断が選挙に投票してくれた人の意見だと
言い張る傾向がある

選挙は現実的なところ単に相対的な選択で 
あの人よりこの人のほうがまし
くらいのところで、市議会ぐらいのレベルでは
よほどいい加減な人でなければそんなに間違いはないだろう
というのが 現実ではないのか

民主主義とは何か?
などと大上段に構えて考える気はない
ただ普通の人が考える「お任せ」が
普通に考えて直感的に信じられる「民主主義」となっているのかは
今度は選んだ側もチェックが必要かもしれない

議員さんは一般人の知らない法律的なものも知らず知らず詳しくなっていく
(そうなってもらわないと困るが)
同時に一般人の知らない情報も得ることができるようになる
それが、一工夫すればお金に変わる可能性がある情報だとすれば、、、

今言えることは安易に「お任せ」は良くないということ
少しばかり面倒でも自分たちで選んだ人たちの行動や判断を
チェックしなければいけないということ

人間世界のやることだから完全なシステムはないだろうが
それでも、たいがいたいがいで許せる行動範囲内に
収まっていてくれればいいのだが、、

 

おまけ!
「類は友を呼ぶ」
これは自分の生きてきた中で、本当にそうだと思える格言
新城市の市議会においてもこの格言はやはり通用する 
どんな人の周りにどんな人が集まっているか
その人たちは果たしてどんな発言をし、行動しているか
そしてそれは「お任せ」に値するか

今の新城市は「お任せ」して大丈夫か?
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする