人は意識しないうちに新聞で報道されることは真実だと思いがちだ
新城議会でも時折、中日新聞や毎日新聞、また地元地方紙の社説などの記事を
引用してさも真実かのような扱い方をする
しかし、新聞で報道されることは真実か?
メディアは公平に伝えているだけと言いそうだが
捉えるほうが勝手に間違えそうなことは数多くあって
今日の中日新聞の記事には誤解を招きそうな気がしたので
ちょっと釘を刺しておきたい
その記事は
新城市の庁舎建設見直しについての記事
よく読めば、市側が市民案を不可能と判断した
というだけのこと
実務協議についていろんな解釈ができるが
市側(市長)の意見を伝えているだけだ
しかし、そそっかしい読者は、そうはとらないおそれがある
新聞に書いてあるから、市民案は不可能じゃないのか
(特に大きな文字でタイトルに書いてあるから)
そんな風に思い込んでしまう人がいるのではないか
このそそっかしい勘違いしやすい人を想定して
メディアに情報を流すというのは、ある種の情報操作で
ある意味なかなか現実的な方法でもある
この報道は中日新聞が
市側からリリースされたものを掲載したのか
それとも新聞社が市に問い合わせて、
その上で掲載したのかは様子がだいぶ違ってくる
特に前者の場合 最初から読者の勘違いを前提に
世論を形成していけばいつのまにか民意はこうだ
とまで言い切れる状態になってしまいそうだ
メディアは市からリリースされる情報は
市民からリリースされる情報よりも扱いやすく
多分抵抗感なく右から左へと伝えてしまう
そこにメディアの判断はないとしても
受け取る側は、公平な意見というよりなにか真実と
思い込んでしまう
本来ならば、市側の判断はこうだが
市民側は市民案は可能であると
実務協議の場で 伝えているとか言うニュアンスの一文が欲しかった
歳を重ねて賢くなったこと(偏屈になったこと)
それは安易にメディアを信じなくなったこと
いやそれだけでなない、一般常識的なことですら疑ってしまうこと
教科書に書いてあることも、ほんとかなと思うし
有名な哲学者(ニーチェ)が言うことだって、そうじゃないだろう
とも突っ込んだりする
ならば判断の基準は何になって、
何をもってそんなに自信を持っていられるのか ?
と言われそうだが、それが自分が歩んできた経験の中で培ったものだから
そう言われても困る(要は独断じゃないかと言われそうだが)
この記事が新城市民に妙な勘違い、早とちりされないことを
望むばかりだ
将来に対する不安
以前新城市長はこの言葉を使い、ブログでいろいろ説明を行った
でも正直なところ、(以前にも書いたが)将来に対する不安とは
市長が行おうとしている政治手法についてが一番不安
もし仮に市民の勘違い早とちりを前提に
情報をリリースしているとしたら、、、