最近でこそ、偉そうに政治的な発言やコメントを残しているが
正直なところ自分はあの学生運動が吹き荒れていた時代さえも
ノンポリだった
だから、今まで真剣に政治的な問題に取り組んできた人とは
前提となる知識量や情報量が違う(きっと真剣さも違う)
その知識の中に、今問題となっている「憲法」がある
いい歳をして、なんとなく触れずにいた憲法
この憲法についてある視点からの映画が7月3日
新城まちなみ情報館で上映された
タイトルは「不思議なクニの憲法」
その内容の一つ一つを取り上げる気はない
ただ見終わって「不思議なクニの」とタイトルにした気持ちが分かった
確かに、不思議なクニ だ この国は
映画の最後に日本国憲法が、肝心な部分が文字と音声で紹介された
この様に真面目に見ることがなかったが、改めて読んでいくと(眺めていくと)
いろいろ突っ込みどころが(理解の仕方の違いが)ありそうな気がした
主語やら、用語の定義やら、、、
それに確かに日本語としてギクシャクしている、確かに翻訳文の様な印象
解釈と言う言葉が出てくる必然性も、なんとなくわかった気がしたが
ところが、申し訳ないがこの映画の中で一番記憶に残ったのは憲法のことではなく
ほんの僅かにエピソードとして挿入された事柄
「格差をなくすことが、一番の防衛力になる」ということ
武力の均衡・バランスが危うい抑制力を形作っているが
争いの大きな原因に「格差」「不公平」が存在する
この格差をなくすためにお金を使ったほうが、大きな視点からは
争いを防げるのではないか と言う訴え
多少理想主義的な感じはするが、こういう考え方のほうが自分は
好きだな
ピケティがあの様に格差を取り上げるのは、格差を放置すると
結局は争いを産んでしまう
だからこそ、格差をなくすようにしなければならないと訴えている
以前も取り上げたことがあるが、興味深い例を再度紹介すると
あるパーティーで出席者は次じゃんけんをした
じゃんけんに勝った方はそこで提供される食べ物・飲み物を胃袋に入れることができるが
負けた方は、我慢しなければならない
これは短時間なら、負けた方も「運が悪かった」で済ますことができるのだが
たまたま、長い時間にわたってこれを行った時、負けた人の中に湧き上がった感情は
「勝った人への憎しみ」だった
「運が悪かった」といったのんびりしたものではなく、理不尽なコントロールしがたい
憎しみの感覚だったという
多分、人間なんて(吉田拓郎の歌ではないが)こんなもんだ
坂口安吾の堕落論にあるように、人間なんてそういう存在だ
だからこそ、人を高邁な存在として見るだけでなく
どうしようもない存在として認めて、そのいい加減な存在でも
やっていける世界を作ることが必要と考えてしまう
ノンポリだった夢想家のちょとした思い
やっぱり格差はダメだ
(格差は単純な努力の差だけではない)