「選挙はまちづくり」という本があるが、一番知られているのは
おそらく新城市だろう
日本の地方自治体のなかで新城市が一番最初に「市長立候補者による公開討論会」
を条例で定めたが、その経緯とか意味合いを本にしたもので
幸か不幸か自分も少しだけ関係している部分がある
自分はこの条例自体に肯定的には捉えることができなかった
それは4年に一度、直前になって公開討論会をすることで
まちづくりが可能になるとは到底思えなかったからだ
まちづくりは「我が事のように考える」習慣が市民の間に根付いて
その問題点を実際に話し合う機会だとか
意見を表現できる機会を確保することが大事だと思っていた
そして、それはおそらく教育の分野の充実が不可欠だと思っていた
安倍さんの事件以来、選挙は民主主義の根幹をなすだとか
民主主義の実践の機会であると表現されているが
現実的な話、一度でも選挙の現場を経験すると
それらの言葉は世間知らずの能書きに過ぎないと思えてくる
落ちればただの人になってしまう選挙は、勝つことが至上命題になっている
そして勝つための手段は、意識高い系の人が取り上げる政策ではなく
むしろ、選挙のプロが指導するようなテクニックなり知識(経験則)が必要となる
先ずは団体票・組織票が喉から手が出るほど欲しいと思う
その焦りから今大騒ぎになっている統一教会の協力を期待してしまう気持ちは
選挙の当事者なら無理からぬ話だ
勝たなければ意味をなさない立場の人たちは
応援してくれた人々の利益を代弁しなければならない
応援する人々の立場はいろいろあるので
最終的には無条件に応援してくれた人々の代弁だけができるわけではなく
様々な意見の中で多数決による決断をすることになる
世の中にある多数の意見の戦いが、危うい大衆意見の暴走を防いでいる
と、ものの本には書かれているが、現実はそのような理想的な姿は見られない
現実は無関心層の存在と少数者の支配によっていろんな物事が決められていく
それは国でも地方自治体でもそうだ
物事を決めるのは多数決で、日本ではそれが民主主義とされているようで
数学的には多数決は一人の判断よりは間違いの少ない可能性がある
と説明できるらしいが、実はこの論法には大前提があって
採決する人がその問題に対して偏見なく向かうことが要求されるのだ
だがそんなことは現実的に不可能だ
裁判官のようにどの意見や主張が適切か?などと立ち向かうことはない
予め党なり利益団体の意向が採決の判断に強く影響する
つまりは戦国時代の場所取り合戦みたいなのが、現実社会で
のんびりと「選挙はまちづくり」などとは言っていられない
ならば代わりにどういう良い方法があるのか?
となるのだが、残念ながら全くわからない
結局は一人ひとりが少しでも賢くなるしか手はない気もする
その賢くなる人(あるいは意識高い系の人)の全体における
パーセンテージは12.5%だったか17.5%だったか忘れたが
その閾値を超えると大きく変わると何かで読んだ気がする
12.5%の人々の心に響くようにするには、単なる一市民としては
何をすべきなんだろう