人は考えるより感じることで生活をしている
根拠もなく、ただそう感じるというだけで
確信もった判断をしてしまいそうになる
先日、4年ぶりに思い切って覚悟を決めた人物に会った
その覚悟は家族への説得、そして何よりも自分への納得を
要するもので傍目ほどには簡単ではなかったと思われる
彼とは時々会っているが、時間をかけて話ということはなかった
それが久々に話し込んでみると、彼はこの4年で少し変化していた
以前の彼は良く言えば信念がある、悪く言えば一人よがりの傾向があった
それはジョブスのような完璧主義にちかく、些細な表現の違いも
自分の意見を押し通して、そこまで我を通さなくても良いのでは、、
と思えることがあった
ところが、先日はあれっ、素直に人の話を聞いている!との印象をもった
以前も人の話を聞かなかった訳ではない
ただそれは、自分を正当化するための材料集めのようだった
それが今回は自分の内面に落とし込むための(人にはいろんな考えかたがあるのだ)
聞き方のように思われた
不意に、彼の4年間の時間経過がなし得たものを考えた
人は誰でも(?)歳を重ねると丸くなると言われる
経験すればするほど人は弱くていい加減で、
あるべき姿を実現できないことがわかってくる
若者が正義感で突っ走るのは尊いことだとしても、それが現実的かと考えると
その方法では世の中は解決しないこともわかるようになる
もちろん流されてはいけないが(草枕の冒頭にあるように)
基本のところは信念、固い意志が必要だ
だがベースに人間性にたいする理解があるとないでは全然違う
彼の目ざすところは、多くの人の力を必要とする
人が動くということは、必ずしも理屈で動くのでないという現実
(それは否定的な意味も含まれるが)
そういう時は全人格的な要素が、彼の欲する立場には
方針以上に必要とされるのではないか
と、まあ極めて抽象的な話をしているが、これは多少仕方ないところがある
地元の人にはあのことか、、とわかるかもしれない
ここからはわかりやすい話
それは時間の経過で人が変わり、
感じ方も変わるという話で男と女の感じ方の違い
竹内まりあに「駅」がある
この歌の歌詞に「2年の月日が変えたもの」というフレーズがある
今は別れてしまった二人が、2年の月日のあとフト駅で見かけたときの
シーンを女性目線で歌っている
切ないとか、喪失感に満ちた歌だ
だが、どこか抵抗感とか違和感がある、、
それは時に中島みゆきの歌にも感じる女性目線への
男からの違和感かもしれない
一方、男性目線から時間経過の残酷さをさらっと歌ったものが
森田公一とトップギャランの「乳母車」だ
ここでは別れた二人が(何故か)一緒に歩いている
女性は乳母車を押している
「三年の年月がそこにある 埋められぬ年月がそこにある」
男目線からの喪失感を表現したものだ
3年で別れた男女が何ごともないように会えるか?
とか言ったツッコミは、この際横において(ドラマは愉しめば良いのだ)
この2つは似たような状況を表しているが、
自分は女の感じ方と男の感じ方の違いを感じてしまう
そして自分は男だから「乳母車」の方にシンパシーを感じてしまう
いつまでも未練たらしいのは男の方、、というのは本当の話と思う
ということで、これらはただそう感じるというだけの話
人は感じることを蓄積し、その上で考える過程に移っていくと思われる
何かを感じることは、その意味では大事なことと思われる
ところで竹内まりあの「駅」は↓
駅 - 竹内まりや
森田公一とトップギャランの「乳母車」は↓
乳母車 森田公一とトップギャラン 2018