パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

新城の薪能

2015年08月23日 09時32分42秒 | 徒然なるままに

上演演目が「羽衣」ということで
少しばかり興味深かった新城市の薪能

古代史とか秦氏関連に「羽衣」伝説が何故か多く扱われていたり
 松本清張の「Dの複合」にも個性的な解釈が紹介されたり
(浦島伝説の間違いかも知れないが)
また、ドイツに旅する前に勉強したNHKのラジオドイツ語のテキストに
「羽衣」が出たりして、なにか縁があるような気がして
文化会館に出かけた
 

「羽衣」が始まるのが18時ごろ
19時から予定は入っていたので、全部を見ることはできなかったが
しっかり楽しめた

始まる時間に着いたと思ったが、舞台で始まったのは
狂言「棒縛」
呑兵衛の太郎冠者と次郎冠者が主人の留守の間に
お酒を飲んでしまうので、主人が知恵を働かせて
二人を縛り上げて安心して出かけたのだが
呑兵衛は呑兵衛で必死、、なんとか飲もうとする
そのやりとりがバカバカしくていい
そして結局飲まれてしまった主人も二人を
コラッと追いかけるだけで終了

こうしたのんびりした話は、
これを作った人の心の余裕を感じてしまうし
これを受け入れておおらかに笑いとばす大衆も
幸せな状況だったのだと感じずに入られない

さて「羽衣」
素人が演じる新城市のお能は本町の方が中心となって
富永神社の祭りと絡めてずっと継承されている
ワキに本町に住む市議会議員が登場
彼の別の面を見ることができたが身長が大きくて
なかなか見栄えは良かった

能が面白いと感じたのは2年前の富永神社で見た時が最初
まず気に入ったのが鼓と笛 この音色が気に入った
笛は静寂を切り裂くような、アドリブのような説明的でない音
鼓は叩く場所を変えるだけで音色の変化が激しい
それに唄、間の手も加わって全体として熱気を帯びたものになる

残念ながらこの「羽衣」をみて、他のお能の演目と
区別がついたかどうかは自分は自信がない
同じように見えてしまう 
それほど見る目がまだ出来ていないということだが
でも感ずることはあった(連想することがあった)
それは 武満徹の音楽のこと

武満徹の緊張感に富んだ独特の音色は
ここから来ているのかもしれない
なんの根拠もなく、そしてなぜか間違いないかのように
思ってしまった 

「能」を次に見るチャンスは富永神社のお祭りの時
楽しみ! 

 

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住民投票を求めた側の責任

2015年08月22日 21時41分40秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

5月31日 おそらく愛知県では初めて行われた新城市の住民投票
それには多額の費用がかかっている
その為に、無駄なお金を使ったと批判する人もいるが
それまでしても問うてみたかった市民の気持ちは
使われた金額の多少で判断されるべきではないと思う

この住民投票が、無駄であったか生かされたか
それはこれから示される計画案の提案によって
明らかにされるが、一つだけ今の時点で住民投票を行って
有意義だったことがある

それは市民のあいだに市政や議会に関しての関心が
広く行き渡ったこと
いままで面倒だからお任せしていた事柄に
何か少し変だぞ!
と感じるようになり、批判するだけでなく
その解決法まで考えるようになったこと

ところで、住民投票を求めた側には
実施されただけでお役御免とはならない責任がある
その行く末、結果を見届けなければならない

その一つとして、市長から要請された
「住民投票結果を受けての庁舎見直しの実務協議」に
メンバーの参加があった
この実務協議は市民側の要求で公開と言う形で行われた
さてその内容は、、、

物事には立場立場の捉え方がある
一方的にどちらかが正しいとは言えない難しさがある
実務協議の市民(求める会)側の姿勢は実直でひたむきだったと思う
(それは自分が求める側の人間であったからではなく、客観的に眺めても)
例えば、市側の多すぎる職員数について、あの場所で批判をすることはなく
その職員が収まる案を素人の知恵で具現化したものを提出した

また庁舎への進入路についても、市側においても問題となるはずなのだが
一応の解決策はやはり求める会側から提案された
(それならいったい市は何をしたのか?)

実務協議が終わった日、市長が総括をして
どうやら求める会側の案は公開のもとで実務協議を行った
という事実のアリバイ作りのためだけに行われたニュアンスが
感じられるコメントを残した

求める会側は、選択肢2を選んでもらった人たちに対する責任がある
それは残念ながらシステム上結果責任とはならない
だから、実務協議でどんなことが話されたか
どんなことが問題となったか
それを多くの人たちに伝える責任がある
(たとえそれが偏った見方であったとしても)

そこで、求める会側の最後の役割として
実務協議の報告会が開かれている
本日で2会場消化したが今後の
スケジュールと会場は

8/23(日)川路公民館
8/24(月)富岡ふるさと会館
8/26(水)鳳来開発センター
8/27(木)作手総合支所
8/28(金)川田原公民館
(時間はいずれも午後7時30分~9時)

住民投票に出かけた人、自分たちの意見がどのように反映されるか
されないか!
こうしたことをナマに感じられる機会
時間に余裕のある方は是非参加を!

参加は自由(市側の人も求める会側の人も)

 

 

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行間に感じられる知性(人間性)

2015年08月22日 15時29分51秒 | あれこれ考えること

図書館から借りてきて読みかけの本が「テヘランでロリータを読む」
アーザル ナフィーシー作

これが暑いこの時期に読むには少ししんどい
今は読書モードになっていないせいもあるが
文体に慣れるまでに時間がかかりそうだ

オルハン・パムク の「雪」を読んだ時のことを思い出した
細密画のような人びとの描写 
異常な状況下でありながら、ありふれた日常のような時間の連続
読んでいるときは作者(オルハン・パムク)の全体像(知性や悩みの深さ)
みたいなものを感じたが、この「テヘランでロリータを読む」にも
作者の恐ろしいまでの知性を感じる

話は変わるが音楽評論家の吉田秀和氏の文章が好きだ
常套句での表現は少なく、自分の感じたままを言葉にしている
しかしそれが感覚的なものかといえば、言葉の背後に
やはり圧倒的な知性や知識を感じさせる

つまり書かれたもの、表現されたものは、その表現されたもののなかで
判断されるのではなく、それ以外の何かを感じてしまう
それを個性というのかもしれないが

これは音楽にも通じる
バッハの真面目さは作曲技法によるものではなく
それを支配する意志を個性として感じるし
ベートーヴェンの感情の深さ、それと理性的な部分への
飽くなき追求心も個性として感じるし
ちょっとばかり苦手なチャイコフスキーでも
その好きでない部分は個性の表れのような気がする

そこで思い切り話は飛んで
独断につながるが(いつものことだが)
この国のあの人(条件反射のように野次を飛ばすあの人)
あの人にこうした個性は感じられるか?

まさに(口癖を真似してみると)個性は感じられる
負けず嫌い、人の話を聞こうとしない、都合の悪いは無視する
それど、この人から発せられる言葉で
言葉の意味する内容を除いたところで
何か深いものを感じるか?と言えば
残念ながら自分は何も感じない

そう、好きじゃない
この感情から自分の判断がスタートしているのは事実
でも、この人がこの国を代表している人物でいいのかは
本当に疑問だ 
(今日は感情に任せて心情を吐露してみた) 

 

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安易に野次を飛ばす、恥ずかしい人

2015年08月22日 10時22分45秒 | あれこれ考えること

今日は短く!

昨日の国会での蓮舫さんの質問の時に
安部首相が野次を飛ばした 

また!
そうまただ
この人、思慮もなく条件反射的に安易に
品格なく野次を飛ばす

この人が自分の国の首相だと思うと恥ずかしくなる

首相だからどっぷりと構えて動じずに対応すれば良いのに
といったことではなく、いつもの振る舞いから感じられる
品格の無さは(独断だが)世界を相手にするには辛いものに見える

ラジオで聞くと、安倍さんの答えは繰り返しが多く、
また質問の答えになっていないことが ダラダラと長いことが際立つ
そこには議員としての知恵はあるかもしれないが
人としてのインテリジェンスがない

と、こんな風に人格批判をしてしまったが 
自分の中に不満がたまっているのは事実

最終的な判断を間違えないためには
全人格的な素養が必要
はたしてこの人にそれがあるか?

不安!
 

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ラインの黄金

2015年08月21日 09時10分07秒 | 音楽

10月に東京の新国立劇場でヴァーグナーの「ラインの黄金」が
上演される
ヴァーグナー(ワーグナーと発音するとドイツ人には通じない)の
畢生の大作ニーベルングの指環全4作の最初の演目

この「ラインの黄金」のチケットを手に入れた
昨日のブログで1976年には指輪には興味がない旨の
アップをしたが、あれはシェローの演出が自分には合わないと思ったから
神話を脱して演劇的な解釈で行われるのが気に入らなかっただけ

神話的な物語の指輪は確かにいろんな解釈が可能
しかし、あまり専門家ではないから気楽な発言となってしまうが
この様な解釈も可能なのでは!と頭のなかで思わせるような
プロトタイプの演出のほうが自分は好きかな

頭に浮かんだことを全部説明的に表現されるより
もう少し何かを考えさせてくれる方が、、、

さて今度のラインの黄金が、どんなものになるかは知らない
前もって演出家の傾向を調べるのも、面倒だし興味を削ぎそうなのでやめ
当たって砕けろ!の意気込みで向かうつもり

バイロイト音楽祭の放送は昔年末にNHKFMで流していた(今も?)
大掃除をしながらつけっぱなしにして聴いていたが、
実際には聞き流していたのでスイッチをオフにしても構わないのだが
何故かオフにするのができなくてダラダラと聞いていた

そういえば、急に思い出したが二期会で「ラインの黄金」を
上演した最後の部分をテレビで見たとこがある
なにか着膨れした巨人が積み上げられた黄金をどうかするような
場面だったが、「変な物語!」がその時の印象
でもその変な物語のほうが想像力を喚起する
わかりやすいより少しだけ考えさせる
こうしたほうが好きかな
さて今回の上演はどうか? 

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1976年のバイロイト音楽祭

2015年08月20日 19時05分56秒 | 音楽

現在のチケットの手に入れにくい状況を思うと
まるで奇跡のようなことが1976年のバイロイトで起こった

8月19日に「トリスタンとイゾルデ」
8月20日に「パルジファル」
8月23日に再び「トリスタンとイゾルデ 」

このチケットを手にした
この年はバイロイト音楽祭100周年で プーレーズとシェローの
フランス人コンビの指輪が話題の中心

本当はこれらのトリスタンやパルジファルでなくて
リング全体のチケットを手にしたのだが、漏れ聞いた現代風のスーツを着た
ヴォータン等の演出がどうも気に入らず、指輪をこれらと交換してもらった

実はこの時まで実演でオペラ・楽劇など見た事もなかった 
その最初の経験がいきなりバイロイトのトリスタンであったとは
自分でも今更ながら驚く

トリスタンを見るにあたって宿泊所で
大体の話の流れを把握、予習を行った 
でも歌詞が日本語で現される訳でもないので
現場はただひたすら集中するのみ 
 

振り返って印象的に残っている事と言えば
トリスタンの前奏曲が終わって直ぐ
オーケストラの 伴奏無しに若い男の声で歌われた導入の部分の
効果的と言うか美しかった事

ケーニッヒ・マルケス・ランド という部分の妙に耳に残るフレーズ
(イゾルデが歌う時もトリスタンが歌う時も)
船が岸に近づいてトリスタンとイゾルデが緊張感に満ちて対面
運命のモチーフが重々しく奏される時
それからついに薬をお互い飲んでしまった時に
あの前奏曲のメロディーがヴァイオリンとハープ(だったと思うが)
思い入れいっぱいに奏される時
これが一幕で記憶に残っている部分

2幕は
やはりあの愛の2重唱が味噌だが、実はその部分よりのブランゲーネの
警告の部分のほうが 記憶に残っている
そして、音楽よりは珍しく舞台の方 どこか森のなかで樹の下で
行われている不倫(?)がえらくモヤモヤした気分にさせられた

3幕は
序曲とまるでその後のトリスタンを暗示するような
木管の寂しいメロディ

この辺りになると多分集中しすぎて音楽がどうの
場面がどうのと言う感じはなかったかもしれない

そんな初めてのオペラ(楽劇)体験の翌日は
大好きなパルジファル




 

1幕の騎士たちの合唱、天上を思わせるどこまでも上昇する音階
パルジファルの音楽の魔法 ここにありでうっとり

2幕の花の乙女たちの誘惑とクンドリーのまとわりつくような誘惑
一幕よりは変化があるために一気に済んでしまった印象

そして3幕は
やはり聖金曜日の奇跡と
一幕と同じように男性陣の合唱が圧倒的に耳に心地よかった

と、39年も前のことを 覚えている
ナマの力というのはそれほどまでに大きいし
今年再びバイロイトに行ってみようという気にさせたのは
これらの感動があってのこと

ところでバイロイト音楽祭では
幕間の休憩時間は結構あったような気がしたが
15分前、10分前、5分前 だったと思うがバルコニーで
上演されるプログラムの主だったメロディが金管で奏される

今こうして古い写真を引っ張りだすと、案外リラックスした服装の人が見える

確かにチケットを手に出来なかった人たちは、めげずにチケットを求めて
会場近くに並んでいたりしたし、劇場の裏だったかどこかで今演奏されている音を
聴くことができた
だからここに写っている人はそういう人たちだったのかもしれない
今はドレスアップした人ばかりかな  

人の一生を支配するようなことは、熟慮に熟慮を重ねた上での
出来事ではなくて、案外こうした偶然とか勢いに任せた 事柄によるもの
かもしれない

自分が若さの勢いで後先考えず滅茶な旅をしたのも
そこで体験した音楽を求めて再び訪問しようとしたのも
なんら必然といったものではなく、ほんの偶然だったかと思う 

そして今、過去を振り返っても良い年令になった今
自分もそんなに臆病ではなかったことに
気付かされる

感傷的になるのではなく、過去の自分と向かい合うことは
昔もそれなりに必死だったのだ
と気づく良いきっかけとなる

ということで、思い切り過去を振り返ってみた

※ところでこの年のバイロイト音楽祭に吉田秀和氏も来ていて
 ホルスト・シュタインの指揮するトリスタンを聴いたとエッセイに
 書かれていたが、自分が聞いたのと同じっだったのだろうか?
 氏は凡庸な演奏と手厳しかったが、自分は何しろ初めてで圧倒された


 

 

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集団のなす非合理性

2015年08月19日 08時24分22秒 | あれこれ考えること

新聞は読む人によって注目する記事が全然違う
当然のことながら同居人と自分とは興味の範囲が違うので
新聞記事の会話をすることになっても噛み合わないことも少なくない

今日(8月19日)中日新聞に自分にとっては興味深い記事(投稿)が
掲載されていた

京都私立芸術大学学長の 哲学者 鷲田 清一氏の投稿

ここにドイツの憲法改正には国民投票の手続きをとらないことが
エピソードとして紹介され、その理由も記されている

多数の意見をまずは尊重する。
そのうえで少数者の意見にも可能な限り配慮する。
これがデモクラシーの基本であろうが、ドイツ人がその最初の前提に
全幅の信頼を置いていない、というか自分たちが集団としてなす判断に
常に懐疑的であることを肝に銘じている、、、、、

デモクラシー(民の力)には、他の生物の群れの行動にも通じるような
非合理な心的傾向が潜んでいる、、、、

これらは国民の圧倒的多数が国家指導者としてナチスを戴いたことへの
痛切な反省、というかあまりにも深い「絶望」がここにある

つまり民意がどのように形成されたかはさておき
その民意はそのとき時の勢いや情勢に流されてしまう
ので一概に多数派の意見だけを無条件に認めることはできない
とドイツ人は考えたということ

確かに民意(大衆)は力をつけて、それが正しくない選択をする可能性については
オルテガの「大衆の反逆」にも述べられている

我々が一見無条件に良しとする、多数決の原理にも
こうした危険性が存在することを、ドイツ人、オルテガは提唱している

しかし残念ながら、他に変わる民主的なシステムがあるかといえば
なかなかそう簡単に代替え案が出る訳でもない

結局、どうすればよいかについては
人には(民衆には)非合理な心的傾向が潜んでいることを
自覚することから始めるしかない。
群衆に見られるようなうわずった「方向づけ」ではなく、社会として守るべき価値と
それに基づく制度を合理的に選び取ってゆく、そのような議論を人びとのあいだで辛抱強く続けるほかはない。

つまり庶民一人ひとりが、自分たちが集団となると間違う選択をする可能性がある
ということを自覚し、真に必要なもの、大事なものとはなにかと
自分たちで辛抱強く情報の収集やら知恵をつけていくしかないとしている
(それは本当の意味で一人ひとりが賢くなっていくということ) 

ところで、日本の現状には
「公共」を「お上」に預ける、委ねると言う習性を、わたしたちは未だに脱し得ていない。
「公共」は上から降りてくるもの、つまりは「だれのものでもないもの」として受け止められ、
自分たちの資材や労力を提供するなかでともに担い、維持すべきのも、
つまりは「みんなのもの」とは、未だ十分になりえていない、、、、

こうしてみるとドイツ人の絶望と日本人の絶望はずいぶん違う
かたや人間性に巣食う間違いの可能性についての絶望
かたや公共性を自らのものに成し得ていない現実に対する無力感

なにか日本人の方が子供じみてるように思えてならない 

 

 

 

 

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デモに参加します

2015年08月18日 19時15分44秒 | あれこれ考えること

JR東海ツアーズに東京日帰りのチケットを注文した
日付は8月30日
この日東京で何があるかといえば、、、

音楽関連ではない
サッカーでもない

あるのはデモ、
安保関連法案に反対するデモ
国会議事堂を囲んでのどのくらいの人が集まるかわからないデモ 
それに参加するためだ 

なにか人任せにしていてはいけない気がしてならない
言いようのない不安が感じられて仕方ない
後になっては遅い事にならないように
今のうちに何かしなければ!
未来の人たちに「あの時あなた達は何をした?」と
非難を受けないように しなければ

新城市の住民投票の活動を経験したことで一番良かったことは
何かを変えるのは結局自分たちの力・活動ということ
そして知識は力となるということ

何か活動をすれば自ずと知識も増えていく
仲間も増えていく
いまならまだ間に合う
そう信じて今できることをしなければ

ところで、デモに関してもう一つの話題がある
9月6日 文化館館で行われる新城市の産廃問題市民フォーラムのあとも
市内中心街でデモが行われる計画 
こちらも傍観者でいることはできない

こちらは山本拓哉さんの8月18日のブログに詳しく出ているので
関心のある方は是非 フォーラムの傍聴とデモ参加を! 

 

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会派って何?

2015年08月18日 09時55分25秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

最近新城市は良いニュースで取り上げられるより
少し恥ずかしいようなネタで
テレビ新聞に取り上げられることが多い

もっくる新城の建設費のこと
そして市民が経験したあの分かりにくい住民投票の文言
あれだけわかりにくくなかったら、報道ネタになっていたか?

この分かりにくい文言を決定したのは市議会
本当に機能しているか心配な新城市議会に何か動きがあるようだ

白井議員のブログやら山崎議員のFB、更に今日の中日新聞にも
「会派設立」の動きがアップされている
「会派」この言葉は聞いたことがあるが、具体的にどのような機能、メリット、
デメリットがあるか素人にはわからない

ただ新城市は以前、市議会に会派を解消して
それが他の地区と比較して先進的な動きと高評化された経歴がある

この一般的な高評化の会派の解消を乗り越えて
再度会派の復活を提案するのだからさぞかしメリットが多いのだろうと
思われるが、議員でない自分は分かりにくい

そこで、便利なネットで調べてみると

まずは会派とはから

議院において2人以上の議員によって構成される院内団体。
議院内部で行動を一にする単位であり,単一または複数の政党を中心に結成される。
特に会派単位で運営される議会においては,会派の規模が議会内で活動するうえで重要な意味をもつ。
(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

何かわかったようなわからないような!どうも具体的なイメージが湧かない
もう少し調べてみると

会派制のメリットとデメリットについて       民主市民クラブ  24.10.30


① 政策集団として会派で調査、研究、議論を行ない、個々の議員の資質向上に役立てることができる。

② 会派は、政策集団として方向性が一致しているので、執行部側に対し意見や要望等の交渉はしやすくなる。

※地方議会で会派制のメリットを挙げれば上記が全てであると考える。

以下、様々なメリットとされる項目に対する反論。

1、会派単位であるため、効率的且つ円滑に議会運営ができる。

→ 何の為、誰の為の効率か? 執行部側に都合がいいのと、議会が議論の機会を 少なくし、市民の多様な声に答えられなくなる。正副議長選出など議会構成なども不透明になり、議会と市民に距離が出来る。

2、会派が政策集団として執行部側に要望・交渉することにより、市の政策に反映する手段がしやすくなる。

→ 一般質問や議案の採決で是々非々で望むことで議会の姿勢を示すことが可能

3、会派間で政策上の対立が生じた場合、議員間よりも妥協がしにくくなる。

→ 会派の拘束がなくても、議員の意見が会派の意見に埋没しやすくなる為、個々の議員の顔が見えにくくなる。

※以下、会派制不要のとする理由

4、 議会のみが条例および予算の提案権があるならば会派の存在は論理的に必要であるが、地方自治法では議会は予算 を付けての条例案を提出できないので不要

5、現在の地方議会は、二元代表制であり、予算を伴う条例、及び予算の提案権がない以上、長の提案について是々非々に臨むことが合理的であり、会派は必要ない。

5、 議会の会派で与党を称するものがあるが、与党と称したら、長の横暴?に事前承認を与えてしまうことになり、二元 代表制の本来の趣旨からも妥当ではない。

6、天童市議会では大会派があって当てはまらないが、会派制は少数会派が多数会派を支配するパラドックスをもっており、会派制の揉め事、勢力争いなどの弊害は続いていく。

7、議会運営委員会、常任委員会などの機能を充実強化し、選良たる議員個人の良識と意思で議会運営の決定を行うことで諸問題は解決する。(会津若松市の例)                          

また別の情報源からでは

地方議会における会派の意味は何だろうか?メリットとして考えられるのは:

・政策集団として個々の議員が切磋琢磨し資質の向上を図ることが出来る
・執行部側に要望を伝えたり、交渉がし易くなったりする

といったところだろうか?

しかし、地方政治は国政と異なり二元代表制である。多数会派が与党化し、首長の提案にすべて賛成に回るようになれば、議会のチェック機能は形骸化してしまう。千葉県議会議員の水野ゆうき氏(元千葉県我孫子市議)は、会派のデメリットについて、「自分の意見よりも会派の意見に左右されてしまうこと。会派の縛りが生じること」を挙げている。会派拘束がかかれば、議員個々の自由度が奪われ、市民の多様な声に答えることが出来なくなるのだ。

地方議員が会派にこだわるというのならそれは、正副議長ポストや常任委員会、各種審議会の所属の配分や、委員会の委員数、発言・質問の時間配分、法案提出権などあらゆるものが会派の所属議員数で決まるからであろう。


以上の情報からすると
素人の印象だがあえて会派を復活する必然性は、思いつかない
これは議員の問題だから議員間で決めればいいとされても結局は
市民に降り掛かってくる問題になるし、、、

会派のデメリットに市民の多様な声が反映しにくくなる
と2つの紹介文に出ているが、これは困る

ただでさえ市民の声を聞かなかったと判断されて仕方のない市議さんが
一旦選ばれたと言う事実に妙に自信を持って
自分の意見は市民の声と思い込んで
現実に上がった市民の声にも対応しなかった経緯があるだけに
更にシステム上とはいえ、それに拍車がかかるようなことはどうなのだろう

ところで会派を立ち上げようとした方々
この人達は、先の住民投票で市道東新町桜淵線の変更を伴うと結果が下されたのに
結果を重く受け止めると言いながら、実際の議会では市道東新町桜淵線の復活に
賛成しなかった人たちが多く含まれている
自分たちが決めた住民投票の選択肢、その結果を受け止めるといいながら
結果に従った採決をしなかった人が、会派をつくる
なにか少し変!と思うのは自分だけではないと思う

新城市の混乱の元って、何だったのか
本当は先の住民投票が終わった時点で総括されるべきだったのに、、、

 

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つまみ食い報道

2015年08月17日 20時05分06秒 | あれこれ考えること

今まで知らなかったが、
数年前テレビでワイドショーやニュースで
常識のないひどい人と批判された騒音おばさん
実はこの人のほうが被害者の可能性があったとの
情報がネットで紹介された

隣に引っ越してきた人が 照明灯を設けて
身体の障害のある子どもを寝かしている部屋に
煌々と明かりが入るようにしたり
乗り降りがしにくい場所にわざわざ駐車したりして
邪魔しているとしか思えないような行為をしたとか

それにどの局も繰り返し流されたあの意地悪なおばさんの映像は
実は彼女にいじわるをしていたとも思われる隣の人物が映したものだとか

結局裁判所でも隣の人の行動は看過されるものではない
とまでになっている

となると今まで自分たちが知っていたことは一体何だったのか?
すっかり悪いのはあのおばさんと言ったイメージが出来上がった
その数年後に実は、、、、などと紹介されても戸惑うばかりだ

ここに報道のあり方の問題が問われている
あの情報のウラをとったのか
あそこまでの行動を行う理由は何だったのか
そうした自らの問いかけはあったのだろうか
全局が安心してみんな同じだからと
流しっぱなしにした責任はないのか

ここで思い出したのが湾岸戦争時の油まみれの水鳥の映像
フセイン大統領が製油所から油を垂れ流して
かわいそうに水鳥はベトベトとまとわりついた油で
困り果て、鳥にも環境にも悪い、手段を選ばないフセイン大統領の
行いを非難する趣旨のものだった

この映像がインパクトが有ったためにまだ覚えている人もいるだろうが
この映像は実はフセイン大統領の行動とはなんら関係のない場所で
撮影されて勝手に錯覚するように使われていたことを知っている人は
どのくらいいるだろう

この画像も無批判に全局流されている
そして多分訂正は忘れたころに(訂正したという実績をつくっただけ)
行われただけ

インターネットは嘘やデマの情報があふれていて
信用出来ないとされるが、大手のメディアでも実は同じということ
有識者に話させているが、それも横並びのトーンが多い

庶民はリテラシーを持つべきと言われる前に
メディア自身も「つまみ食い報道」の姿勢を変えないと
結局は自分で自分の首を絞めることにならないか

と、田舎の小市民が愚痴ったところで世の中は
変わるとは思わないが、それでも、最近何かと腹が立つことが多いのに
メディアはまともに報道していないように思えてならないので
一言発してみた

ところで9.11の同時多発テロ
あの飛行機の突入で倒壊したビル
倒壊したビルの数を正確に記憶している人はどのくらいいるだろう
2つのビルにそれぞれ飛行機が突入して
上層階に火災が起きた
そしてそれが元で倒壊したということになっている 

しかし倒壊したビルは突入された2棟のビルだけではなく
その近くの(もっと近いビルは平気だったが)第7ビルも
どういうわけか倒壊している

この事実を報道しているところは少ないし
何故関係ないビルが倒壊したのかを誠実に答えようとする
姿勢もあまりない

それを大げさに何か企みがあるとか
そういうことを言おうとするのではない
ただ報道というものが、ある種の方向性を持っていて
必ずしも公平・公正ではないということを
つくづく感じてしまったということ

安倍さんの報道も
新城市の市庁舎の報道も
安易に信用して良いものか、、、 




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