パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

奇妙なチラシが折り込まれていた

2015年12月21日 08時27分16秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

今朝(12月21日)に妙なチラシが入っていた
発行元は「新城の未来を考える新友会」(聞いたことがない)
B4両面で片面は庁舎のこと
もう片面はリコールと市長のこれまでの実績について

上の写真は表面


ここでは「必要なのはしっかりした庁舎です」と大きな文字で書かれているが
本当に必要なのは「市民が納得する庁舎」なのではないのか
(住民投票にまでなったことだし)
それは市長自身も「新たな市民合意の上で」と公言している
(しかし、それが実現されるかどうかは、今までの経過、やり方を鑑みると
大いに疑問だし、現に市議(住民投票時は市長案に賛成した市議)の中にも
今後進めていく方法で新たな市民合意ができるのかと不安視する人もいる) 

裏面は少しヒステリックにリコールについて書かれている


ところでリコールという言葉を聞いて、市長の解職をイメージする人は少ない
一般的には車関連、家電関連に使われる
ちなみにウィキペディアによると

リコールとは、設計・製造上の過誤などにより製品に欠陥があることが判明した場合に、
法令の規定または製造者・販売者の判断で、無償修理・交換・返金などの措置を行うことである。

製品に欠陥がある場合、製造者・販売者の判断で無償修理・交換・返金などの措置を行う
この言葉を、市長リコールと関連付けると、製造者(市民)は製品(市長)に欠陥がある
と判断した場合の措置で、そこには政治運動だから対案を出すべきだという要素はない

でも、少し不思議なのは、こうした政治的な要素のあるチラシは
折り込みはできないのが普通
でもできている(何故?)

情報の公平さを保つ意味から、このチラシと反対の考えを持つ立場も
折り込み可能となると思われるが、それができることなら不毛な闘いとならず
結果的に市民により良い判断の材料となればと思う 

それにしても何故が多すぎる
何故庁舎が市民の誰もが思うような151バイパスにならなかったのか
何故住民投票案があんなに分かりにくいものになったのか
何故道の駅もっくる新城の建設費の大幅な見積もりミスが起きたのか
何故南部地区工業団地に指定された製造業・物流業以外の業種が入ってしまったのか
(何故、買い戻し特約が削除されたのか)
何故新城市に不釣合いの道幅が大きすぎる亀姫通りができてしまったのか

ホント、何故なんでしょう
 

 

 

 

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あの時、何をしたのか(何もしなかったのか)

2015年12月20日 08時25分10秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

計画された時、話題になった時にはなんとなく理解できたとしても
数年後になって、結果だけが表に出てくると
なぜこんなことをしたのだろうと疑問に思うことは少なくない

例えば、道路やダムの新設
計画や予想は話題に登った時点での見込みであって
それが正しかったか、あるいは正確だったかどうかは
時の審判を経なければならない
(多くは時を経なくても無理だと想像がつくことが多い)

負の結果を日常として受け止めざるを得ない未来の人たちは
ごく当たり前に、
「あの時の人たちは、何をしたのだろう」
あるいは「なぜ何もしなかったのだろう?」
と先人たちの行為や判断を批判するかもしれない

なぜ 多くの人は戦前に戦争反対運動を行わなかったのか?
これはごく普通に思い浮かぶこと
しかし、それができない状況があったという事実は
戦争反対の行動をしなかったということより重大な問題かもしれない

戦争の話はここではこれまでとして
現在新城市で見直し作業がされつつある庁舎の問題
ここでも未来の人に
「なぜこんなことにしてしまったのか?」
「あの時、いったい当事者は何をしたのか?」
「人びとは何もしなかったのか?」
と批判されてしまっても仕方のない状況がある

それは体育館側の一角に残る庁舎には使われない民地
現時点ではその民地(家)が活用できない理由は
いろいろ行政側から説明される
しかし時の経過を受けて未来の人が審判する時
この民地の問題はきっと大きな問題となるに違いない

それは、市(行政)の失敗の遺産として
そしてそこに住まわれている方の心的な苦痛として

ここに住まわれている方は
闇雲に市に土地の活用を拒んでいるわけではない
それが証拠に「求める会案(市民案3)」には協力して
有効活用できるようになっている

客観的に考えれば、気持ちはあるということ
(条件があるとしても)
ところが、ここで市(行政)から出てくる言葉は
議会では、この土地の活用はカクカクシカジカの理由で
諦めると決めた
とか
実務協議であの土地は使わないのが共通認識のはず
行政は正しいステップを踏んでいる、市民案は決めたことを
蔑ろにしている、おかしい、、、

しかし、最優先すべきは誰が正しくて、誰が正しくない
という問題ではなく、如何に市民が納得できる庁舎を建てられるか
ということ

人の感情はいつまでも同じではない
礼を尽くして本気に向かい合う
それこそが一番ではないだろうか

あの時、こう言ったから、そのまま受け取って
明らかに後世に負担になることを
平気で無視していいものなのだろうか

繰り返すが、庁舎問題は誰が正しくて、誰が正しくない
ということではなくて
どうしたらみんなが納得できる(妥協できる)案を形成できるか
ということにある

このごく当たり前の議論とか過程が、残念ながら今の市政では
不可能と判断せざるを得なくなったのが現在の状況(リコール運動)
この判断を下す人たちは、怒っているのではなく
何よりも一番に失望しているのかもしれない
市民の声を聞いているように思えないやり方に、、

あの時、何をした
なぜ何もしなかったのか
未来の人たちからこんな批判を受けないように
今すべきことをキチンとすべきだ
行政も職員も市民も

日曜の朝からグダグダとハイテンション?
でもホントちょっと心配
 

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株式会社の発想に無条件に従っていないか?

2015年12月18日 16時44分04秒 | あれこれ考えること

FBのシェアされた中に内田樹氏のブログがあったが
これがとても興味深かった

サラリーマンが多くなって、そこで知らず知らず身についていく考え方が
実は問題かもしれないという指摘がある

少し話が逸れるかもしれないが、
日本人はどちらかと言うと自分で考え判断するということが
得意ではないのかもしれないと思うことがある 
自分で判断すると責任が伴う、そんなことは面倒だし
従っている方が楽と考えているのかもしれない
または、フロムが言うように自由は実は個人にとって
重荷になっているのかもしれない 
(カラマーゾフの兄弟の大審問官でもこのテーマは扱われている) 

現在の日本の社会は、誰かが指示・命令を出してそれに忠実に従っていく
そこには個人の判断の余地はあまりない
全体の秩序のためには個人の判断は邪魔になる

そこまでは言わないとしても、スポーツの世界で
なになにジャパンといって、監督の下一致団結して
戦うのが美しい、そうあるべきだと当たり前のように納得している

しかし、実はスポーツの世界は瞬間瞬間が判断の世界
その瞬間の個々の判断が的確であればあるほど良いわけで
それは監督の指導通りに実行するということではない
(オシム監督の時、練習でなぜ自分(監督)の言ったことだけを
 実行するのか。なぜ自分(選手)が良いと思ったことを実行しないのか
  自分で考えないのか?と叱られることが多かったという)

個人の判断
このことばを使う時の、個人という概念が
日本人と、西欧人とは大きく異なるのではないか 
ひたすら同質性を求めて安心したがる日本人と
彼は彼、自分は自分と(自覚はしていないかもしれないが )
それが当たり前の考え方になっている世界
(日本人の個人とか個性とは所有するものの差異で比較されるような
 少しさびしい物になっているのが現実だ)
個人の判断を基準として、その欠点も踏まえた上で 体系的な
秩序ある世界をつくりあげようとする世界と
情緒的に大勢(空気)に従う傾向のある日本
どちらが良いと言わないまでも、こうした違いがあるのは現実だ

そして以下の内田樹氏のブログの抜粋にあるように
多くの人はいきなりサラリーマンの世界の考え方に慣れて
(それ以外は知らない?)この価値観で世界を判断しようとする
ところが、自分でも気づきつつあるこうした考え方の矛盾を
面倒だから、自分には関係ないから考えようとしなくなる

でも、やっぱり噴出する矛盾や問題点
それは個人の思考停止ではもはや解決できなくなってきている
この思考停止はハンナ・アーレントのいう凡庸な悪に繋がる

と言っても、現実には自分に関係のない世界も想像力を働かせて
考えないと、いつかは自分の見に関わってくるとするアドバイス(おせっかい)は
余計なお世話扱いとなる事が多い

それでも、少しづつだけど、やはり問題は問題と自発的に考える人が多くなりつつある
願わくばこうしたうねりとか流れが、悪い世の中になる前に大きなものとなれば良いのだが

今日はテーマが大きすぎて自分の力量を超えている
そこで、以下に内田樹氏のブログの抜粋と
リンク先を紹介する

ブログ抜粋  全文は⇒こちら

戦後70年の最も大きな変化の一つはかつては人口の50%を占めていた農村人口が人口比1.5%にまで激減したということです。それは農村共同体的な合意形成の仕組みが放棄され、「会社」の仕組みがマジョリティを形成しているということです。統治のスタイルもそれに応じて変化した。それが社会のすべての制度の「株式会社化」をもたらした。
株式会社は民主主義によっては運営されていません。CEOに権限情報も集中させ、すべてが上意下達のトップダウン組織です。従業員の合意を取り付けてから経営方針を決めるというような鈍くさい企業は生き残ることができません。経営政策の適否について従業員は判断することが許されない。それはCEOの専管事項です。
でも、そのようなワンマン経営が是とされるのは、その「独裁的経営者」のさらに市場が存在するからです。経営判断の適否は市場がただちに売り上げや株価として評価する。商品がどれほどジャンクなものであっても、雇用環境が非人間的であっても、市場が評価して売り上げが伸び、株価が上がる限り、CEOは「成功者」とみなされる。
そういう仕組みに現代日本人は慣れ切っている。生まれてから、そういう組織しか見たことがないという人がもう人口の過半でしょう。彼らにしてみると「民主主義的合意形成って何?」というのが実感でしょう。家庭でも学校でもクラブ活動でもバイト先でも、これまでの人生でそんなもの一度も経験したことがないのですから。知っているのは株式会社的トップダウン組織だけであり、その適否は中組織成員たちの判断によってではなく、上位にある市場が決定する。自分の生き方が正しかったかどうかを決めるのは試験の成績であり、入学した学校の偏差値であり、就職した会社のグレードや年収であるという「成果主義」「結果主義」にサラリーマンは慣れ切っている。
その心性が安倍政権を批判することができない知的な無能を生み出す土壌だと私は考えています。安倍晋三も橋下徹も「文句があったら選挙で落とせばいい」という言葉をよく使います。これは彼らが選挙を市場と同じものだと考えていることをはしなくも露呈しています。
選挙とは市場における競合他社とのシェア争いと同じものである。それに勝てば政策は正しかったことになる。どんなジャンクな商品でも、パッケージデザインや広告がうまければシェア争いで勝つことができ、勝てばそれは「よい商品」だったということになる。
「大阪都」構想をめぐる住民投票で負けた後、橋下市長は「負けたということは政策が間違っていたということでしょう」と言い放ちました。しかし、選挙の勝ち負けと政策の良否は次元の違う話です。政策の良否はそれが実施された後の何年、何十年のちの、本当の意味での「成果」を見なければ判定できない。でも、彼らはそんなことには関心がない。次の選挙の勝敗だけが重要であるというのは株式会社の「当期利益至上主義」と同質のものです。

 
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バルサ余裕があり過ぎ

2015年12月17日 21時23分27秒 | サッカー

クラブW杯 バルセロナ対広州恒大は予想通りのバルセロナの圧勝
スアレスのハットトリックで3-0

この試合、ちょっとつまらなかった
バルセロナが少しも本気を出していない
精緻なパスは昨日の広島対リバープレートには見られなかった点だが
ヨーロッパで闘っている姿を知ってるものには
緊張感がなくてただ時間が過ぎていっただけ

イニエスタは相変わらず上手いけど
この誠実な人でもちょっと油断があるようなところが見られた
スアレスは凄いな
2点目のイニエスタのパスを胸でトラップ、そのままシュートはテクニカルな面を
一点目はこぼれ球をすかさず逃さないストライカーの面を
そしてハットトリックのPKをあんなに思い切り蹴るとは
うーーん、凄い

ホント好きだなスアレス
岡崎をもう少し体を頑丈にして、もう少しシュート技術をあげた感じ
(それなら全くの別人?)

バリセロナの本当の姿を見るには相手が強くないと見られない
決勝のリバープレートがどのくらいできるのか?
激しいサッカーがバルセロナに通じるか
今日の中にメッシが入るとなると、リバープレートはやっぱりちょっときついかな 

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もしかしたら、、、

2015年12月17日 08時45分51秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

もしかしたら、新城市民は庁舎建設に、なぜ突然地下トンネル案が出てきたのかよりも
(この案は最初一番のお薦めだったが撤回された)
なぜ建設地が151号線バイパス沿いではないのかを不思議に思う人のほうが
多いかもしれない

普通に考えると敷地の確保の問題はなさそうだし
立ち退きの問題は発生しないし、交通の便も良さそうだし

近くに防災センターもあるし
これなら多くの人も当然のことと納得したに違いない

でもならなかった
その理由は?

多分市は説明しているが、それをどのくらいの人が理解しているか
(自分もちょっと調べたが今ひとつよくわからない)
これは伝え方がまずいのか、それとも伝える内容に無理があるのか
どっちなんだろう
(理解できない、知ろうとしない市民の方が悪い?)

今更建設地のことをぶり返す気はないけれど
何かすっきりしない

それとしつこいけど
住民投票のあの選択肢のわかりにくさ
なぜ、あんな案になったのだろう
これもすっきりしない

市(行政)はちゃんと段取り、ステップを踏んでいるというが
それでも依然としてすっきりしないのはなぜだろう

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サンフレッチェ広島、あと一歩

2015年12月16日 21時56分57秒 | サッカー

クラブW杯 サンフレッチェ広島VSリバープレート
惜しくも0-1で敗戦

サンフレッチェ広島はガンバ戦から数試合見ているが
Jリーグ優勝にふさわしいチーム
守りが安定しているしチームになっているし
後ろのつなぎが日本の中では図抜けて上手い
つなぐ時もグランダーのパスばかりではなく
相手の頭上を超えるパスを上手く使っているし
プレスが来た場合も慌ててはたくのではなくて
ちゃんと相手の逆をとっている
この戦いぶりがリバープレートにどのくらい通じるか
興味があった

多分上手いチームには対応できると思っていた
一番イヤなのは激しく来るタイプ
ちょうど今日のリバープレートのように現実的な闘いをするチーム
予想通り、相手の激しいプレスにいつものパスがつながらない
それと球際の競り合いの体の使い方残念ながら相手の方が上
(体格、胸幅の厚さも随分違う)
でもチームとしてよく守れていた
前半は相手よりもチャンスがあった
しかし得点に至らず
この一点がなかなか遠い
(何故か本当の実力を反映する)
実は広島は入る気がしなかった
よくて引き分け そんな感じで見ていた

パワープレーとは言わないけれど
失点するならこういう形かなと予想したように
FKからドサクサの感じで痛恨のゴール

確かに結果的には惜しかったけど
広島の選手はとても良い経験をしたと思う
戦ってみて初めて分かる体の使い方の感じ
1対1の対応の仕方
(茶島も柏もミキッチも抜けきれなかった)
リバープレートの選手は体に染み込んでいるそうしたものが
今回自分たちの不足した部分として感じるのではないのかな

アルゼンチンは、速くて強くて汚い
昔はこんなイメージだった
そして現実的な知恵や技術が一人ひとりの身についている
これはなんだかイタリアの感じに似ているな
とテレビ観戦しながら思った

ちょっと見ててストレスが溜まったのはドウグラス
外人選手、助っ人というには物足りない存在
腰は高いしキープ力はないし、
Jリーグでは大久保に次いでの得点というが
このレベルの試合になると得点できる気がしない
選手交代はこの選手と替えて欲しかった

この広島の選手の経験を次のJリーグの闘いにどういかすか?
あの時がんばったね!
だけで終わらしてしまうのはもったいない

ところで育成者はどんな感想を持って今日の試合を見たのかな
次にどんな練習を!と考えたのだろうか
 

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伊藤恵 ピアノコンサート(宗次ホール)

2015年12月15日 08時53分40秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昨日(12月14日)は久しぶりの宗次ホール
プログラムは

伊藤恵さんは以前NHKFMの「おしゃべりクラシック」だったか「気ままにクラシック」だったかに
出ておられて、その話しぶりがとてもおおらかで「いい人だな!」と感じられ
いつか機会があったら聴きたいものだと思っていたところ
たまたま今回このプログラムを見つけたものだから足を運ぶことにした
彼女のお気にい入りのシューマンはやっぱり入っている

演奏自体を比較・批評できるほどたくさんのピアニストを聴いているわけでもないので
いつものように聴いてて連想したことなどを思いつくままに
(この連想することが結構楽しい)

最初のベートーヴェンの一番最初のピアノ・ソナタ
音階的な主題はベートーヴェンらしい、同じ一番のピアノソナタでもモーツァルトのそれとは
随分違う(当たり前だが)
初期と言ってもガッチリしているというか、全曲のバランスというか、トータルな視野で作られている感じ
演奏はライブの良さで途中からノッてきたようで、ピアノの音も心なしかよく鳴る感じになった
そこで連想したのが、一番のソナタで始まるなら途中中期のソナタを入れて、最後のソナタで締める
プログラムはというのはどうかな
中期は熱情だと完結してしまいそうな印象が強いので、ワルトシュタインくらいで

そんなことを思っていたら全演奏が終わったあと伊藤恵さんが
今回のプログラムはベートーヴェンの最初のピアノ・ソナタ
シューベルトの最後のピアノソナタ
間に夢見るロマン派のシューマンを入れてみたとの挨拶
なんのことはない、似たような発想で組まれたプログラムだった

ベートーヴェンの後だとシューマンのピアノ曲は音が柔らかい
というか、輪郭がはっきりしないというか、夢の中で浮かんだイメージをもやもやと
音にしている感じ
このもやもや感が好きな人は好きなんだろうな

シューベルトの21番のピアノ・ソナタ
これはアリシア・デ・ラローチャの演奏で名古屋で聴いたことがある
いまでもよく覚えているのが第2楽章の部分
本当に夢のなかにいるような時間
沈潜し陶酔するような時間
これが聴きどころと思っていたが、昨日もやはりそうだった
演奏中、心なしかうなり声が聴こえた気がした
演奏している伊藤恵さんが気持ちがノッて、つい歌ってしまったのかもしれない
グレン・グールドやキースジャレットも声を出すけど
昨日は邪魔にはならなかった(声なんて出していない?もしかしたら幻聴?)
この辺りは集中しきっている

でもこの別世界のような音楽 ベートーヴェンの32番の第2楽章も
別世界のような音楽だが、その印象はだいぶ違う
シューベルトは響き、音の中に惑溺しているがベートーヴェンは
そんな中にもまだ客観的に自分を、音楽を眺めている存在を感じる
それがためにベートーヴェンは最終的には全体のバランスを崩さない
構成的な音楽になっているのかもしれない

それとシューベルトは音楽の旋律が長いが
ベートーヴェンは動機というかモチーフというか短い音形
それを変形していくのでより自由度が高いのかなと思ったりする
でも音楽家でもないし、ただ好きで聴いているだけなので
勝手な思い込みかも知れない 

で、最後の伊藤恵さんの挨拶
やっぱりいい人
そんな感じだった

また機会があったら聴きに行こう 




 

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奇妙な市の対応

2015年12月13日 22時17分06秒 | 産廃

日曜日くらいはカリカリせずに終わろうと思ったが
やっぱり怒れて仕方ないので取り上げることにした

それは先日行われた新城市議会の一般質問での
産廃に関すること
県から操業の認可を受けたタナカ興業は
ずっと前から地元の住民に質問状を受けている
ところが、その質問に対する回答は一向になく
途中質問内容を(地元の人にわからない内に)
市長の許可を受けて変えてしまっている
答えやすくするためというが、一回は答えが来ても
その後が続かない

そこで、市の担当者はタナカ興業と
何回コンタクトをとっているのか? 
との質問に、なんと40回あまりとの答え
傍聴席から驚きの声が上がる
40回もコンタクトしていて、質問の答えも
手にしていないとは、、
そして40回もコンタクトしていた事実を
地元の人達に知らせていなかったとは、、、

もう一つ、市の該当部署のスタッフは建設終了後のタナカ興業の
工場見学をしている
建屋の様子、窓の様子、ロックウール等のこと
地元の人が知りたいのは当然のことで
市に情報公開を求めたが、ここでの答えは
書類がありません
なんでも市長に口頭で報告したから文書には残さなかった
とのこと
(なんということを!)

なにか変だな、普通じゃない
そう思うのは当然のこと
何故、こんなことがまかり通っているのか? 

例えばこれらのことが法に触れないとしても
こうした市のやり方はどうなんだろう
市のやり方
その市のやり方をコントロールしているのが、、、

やっぱり、何かを問われても仕方ないかな 

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ブルックナーの交響曲2番

2015年12月13日 18時06分32秒 | 音楽

秋はブラームスが恒例だったが、今年は何故か聴いていない
やっと昨日4番の交響曲を聴いたが(フルトヴェングラー1948ベルリン・フィル)
その前にレコードをかけていたのがブルックナーの2番

実はこの曲が大好きだ
(特に前半の2つの楽章)
一般的には注目されていないけど、力みがなくて
聖フローリアン修道院のあたりの風景を感じさせて
本当に心地よい

世の中の2番の交響曲で一番聴いているのはこの曲かもしれない
次はシベリウスのあれ
マーラーの「復活」の名がついた2番は、まともに聴いた記憶が無い
残念ながら本家ベートーヴェンも、2番はどんな曲だったかな!という程度 
シューベルトもショスタコーヴィッチも記憶に無い
そういえば、ブラームスは結構好きな方
あとは、、、、
チャイコフスキーは相性が悪いのでパス
シューマンは途中で退屈してしまう

ところで聴いていたブルックナーの2番はアイヒホルン指揮
リンツ・ブルックナー管弦楽団のもの 
このひと本当にブルックナーが好きなんだなと感じられて
それだけで、演奏の中に浸れてしまう

生で聴きたいが、なかなかプログラムに上がらない
来年東京でバレンボイムであるらしいが、東京は遠い
仕方ないか 

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何故リコール運動が起きてしまうのか?

2015年12月12日 16時12分38秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

先日の新城市議会の一般質問
白井議員が市長に対して
「何故リコール運動が起きているか、その理由は何だと思いますか?」
との質問があった

市長は「2年前の選挙戦が背景にある」
と答えた(敗れた側の怨恨と言いたいのかな?)
言わんとするところは、リコール運動は市民運動よりも
政治運動の要素が大きいから、その解釈で口にしたことと思われる

この市長の回答を、市内で数人に伝えると一様に
なんとピント外れな!の声 
どうも一般の人が感じる思いを感じ取ることができないようだ

この普通の人が感じる思いを感じ取れない例は
いつまでもしつこいが(それだけ怒りが収まらないということだが)
あの住民投票の文言についての市長の発言にもある

この選択肢の表現は分かりにくいと思いませんか?
市長は「私は分かる」
結局、客観的な視点、市民目線での感受性はないと判断されても仕方ない

リコールを求められた理由は、市長もある時、別のところで口にしたように
将来の不安が根底にある
高齢化、少子化が進む中、合併特例債を使っての箱物行政を
どんどん進めて市の財政は大丈夫か?
この流れの中で、庁舎は身の丈でいいのではないのか
と庁舎見直しの運動が始まり、この運動に耳をかさないので
結局住民投票にまでなってしまった

そして、住民投票の結果は市長が15人もの市議と後援会を使って
活動したにも関わらず市長案はNO

ところが、何故住民投票にまでなってしまったのかの総括が
市長にはない
6月の市議会では、市長案に賛成し運動を行った小野田議員ですら
市の庁舎建設の市民に伝え方には問題があったのではないか
と口にしている
そして最近の市議会でも、新たな市民合意を形成するためには
住民投票にまでなってしまった経過を考えれば、市民説明会を
文化会館で一回開くだけで済ませてしまっては不十分ではないか
との声が出ている(この市議も市長案で行動した方)

しかし、どうも市長は従来の方法を変えようとしない様子
だから結局は市民の声を聞こうとしていない
と判断されても仕方ない

将来への不安、高齢化、毎年500人ずつ減っていく新城市の人口
当然市税の減少は言わずもがな
そこに予算提案権、執行権のある、市民の声を感じない人物が
物事(箱物行政)を進めてしまって大丈夫か
決められてしまってからでは遅い
今なら、まだ間に合うと考えた人たちの、
誰かの誘導に乗っかかった運動でも何でもなく
真剣に考えた上での運動が今回のリコール運動の原点

ここで、以前にも述べたように運動に係るスタッフと
一般の方には情報較差がある
危機感を感じる人、その情報を知らない人
無理に運動に関わる人の意見に賛同を求めるものではない
ただ、現実の姿を知ってもらうことが先決
その上で、市民がどう感じるかはその人次第
そのために、運動するメンバーは資料を作成
(市議会でも白井議員が口にしたもの)
この資料をここでも紹介したい

考えよう新城市政(クリックでページに移動)
(少しファイルサイズが大きくてすみません)

できることなら、市民が無関心から離れて
何かを感じ取ってほしい 

 

 


 

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