三連休はどこへも出かけずに家にいた
NHKBSでは京都の祇園祭の宵山と山鉾巡行のライブをやっていて
ダラダラとそれを見ていた
NHKはこうした視聴率を考えないような地味な番組が良い
確か「五山の送り火」も毎年ライブで放送している
数年前に、五山の送り火を見に行ったときはとんでもなく暑い京都を実感して
この時期に京都に出かけるのは暴挙だと思い知ったのだった
町衆が何百年も続けている祇園祭
名前だけ知っていたお祭りも、より深く知っていくと興味は募る
5月の葵祭は、当初あんなものはバカバカしいと思っていたが
源氏物語を読んだあと出かけてみると、知識が増えた分、装束や地位等が気になった
あの行進だけでなく、上賀茂神社の競べ馬も面白かった
京都の祭りはダラダラと歩くだけのようで
東京の威勢のいいイメージのお祭りとは趣が違う
どこか品が良い
いつも思うのは、東京の根本的な嗜好性は江戸文化で
京都は御所のある町(お公家さんのいる街)というイメージで
東京の皇居も以前は江戸城で、なんか京都の御所ほどしっくりこない
京都駅に着くと、帰ってきたと知らず識らず思ってしまうが
コロナのせいで、もう二年ほど出かけていない
確か3年前の11月22日、太秦の広隆寺で黄櫨染御袍を身につけた
聖徳太子像を見に行ったのが一番直近の京都訪問だ
こうやっていろいろ連想していると猛烈に京都に行きたくなった
だが、安く行くためによく利用していたJR東海エージェンシーの
豊橋駅のオフィスは無くなるらしい
京都は思いつきで行くことが多いので一日前に日帰りきっぷを
JR東海エージェンシー豊橋オフィスで購入するのが自分のパターンで
500円のお買い物券と500円分の飲み物引換券が付いて
なおかつ運賃も安かったので、これが気軽に利用できなくなるのは残念だ
これからは、直前ではなく一月前くらいに計画してネットで
JR東海エージェンシーに頼むしかない
よし、今年の秋は京都に行こう
目的地は、、、ちょっと拘って、村山タカに関係する金福寺をメインにして
あとは気も向くままに、、、
愛を諦めた者は、指輪の魔力によって世界を支配できる
(ニーベルンクの指環のアルベリヒ)
恐れを知らない者は、神よりも自由で魔力さえ無力化する
だが、愛を知ることで恐れを覚える
(ニーベルンクの指環のジークフリート)
同情を知る愚か者が大きなことをなす
(パルジファル)
作曲だけでなく台本まで書き上げ、おまけに自作を上演する劇場まで作った怪物
リヒャルト・ワーグナーの登場人物のキャラクター設定が面白い
(出来上がったのは上から順番でパルジファルが一番最後)
ニーチェが宗教的な作品のパルジファルには嫌悪感を覚えたらしいが
ワーグナーの理想的人物像は、徐々に子ども化されたものを
良きものとされているかのようだ
(ニーチェの思想にも子どもが一番てのはなかったかな?)
人は年齢を重ねると子どもの発想を貴重なものと感じるようになるようで
ピカソも子どものように描きたいと望んだとか
ミロも子どもの落書きのように見える
モーツァルトの音楽も自分は子どもの会話(おしゃべり)と感じることがある
ドイツでは関連する書籍がゲーテについで多いらしいリヒャルト・ワーグナー
夏の一時期バイロイトで彼の作品だけを上演する音楽祭が開かれる(バイロイト音楽祭)
(昔は)年末にNHKFMで、猛烈に長いこの音楽祭の録音を流していて
大掃除をしながら聴いていたものだった
若い時とか現役時代は、権力闘争的なニーベルンクの指環のストーリーが象徴的で面白く感じるが
物事を振り返るようになると、どうも力だけの対決は虚しいものと思うようになるようだ
ワーグナーはパルジファルの総譜の最後に
「Ich sage nicht weiter」(もう言うことはない)と書いたらしい
東京では二期会がパルジファルを上演したというニュースをみて
ついワーグナーのことを思い出してしまった
それにしても、バイロイト音楽祭と穂高岳
行きたいけど行けない場所になってしまった
この時期、家に帰って最初に行うことは靴下を脱ぐことだ
一枚履いているだけで暑い
床に直に触れるほうが気持ちいい
何をおいても解放されるように裸足になる
そこで毎回気づくのは靴下が思いのほか湿っていることだ
足ってのは随分汗をかくものだと実感する
なるほど、こんなに汗をかくから靴は臭くなるのだな
と妙な考えが浮かぶ
足の汗のかきかたは、5本指の靴下のほうが水虫には良いかもしれない
一つ一つの指を覆っている生地がそれぞれ汗を吸い取るほうが
普通の靴下のように指の間に籠もった汗を外側の生地だけで吸い取るよりは
効率的なような気もする
5本指の靴下は履いた瞬間も気持ちいい
どこか身体のバランスも取れそうな気さえする
だが履くのが面倒くさい
さっと履けるわけじゃない
一本一本指を通してエイヤッと引っ張る
靴下を履いて、脱いで、、
そんなことが繰り返される毎日
夏はかなわんな!
水族館とか動物園に行くと素朴な神秘感に襲われる
生き物はなんと多様な形をしているのだろう!と
その一つ一つは生き延びるための選択なのだろうが
湧き上がる感覚としては、不思議!としか思えない
動物だけでなく、植物の花も本当呆れるほどいろんな形や色をしている
野菜や穀物の収穫シーンを見ても、少し前に種を植えたのが
まるで手品かマジックのように知らないうちに育っているのは驚きだ
生き物の世界は、普段当たり前のように接しているが
改めて考えるととても不思議だ
生き物の不思議を再確認したのは昨日のNHKの番組
「ギョギョッとサカナスター」を見たからで昨日は「コブダイ」がテーマだった
そこで驚きだったのは、コブダイはオスとメスは一生のうちに入れ替わることが
あると紹介されたことだ
コブダイの世界は強い(大きな)オスのハーレムのようになっており
小さなオスは見向きもされない
小さなオスは魅力のある大きくなるのを待つしかないが
それは時間がかかり効率的ではない
だから小さなオスは性転換をしてメスになると説明があった
このように性転換をするサカナはまだ他にもあるようで
たしか鰻もオスしかいないところに、環境が変われば性転換して
メスが登場することがあると何かの番組で見た
つまりは可能性として、性転換をする何らかの因子が生き物には
用意されているのかもしれないと想像してしまった
だから最近話題のLGBTのTの部分は、個人の指向性というよりも
どこか偶然に振り回された結果もしれないとも思ってしまった
今でも不思議に思える生き物の一つに「ベニクラゲ」がある
この生き物は自然死的な要素はない
なにかに食べられて死ぬことはあっても、老衰してとか怪我をして
死ぬことはないらしい
彼らはヤバい環境下に置かれると赤ちゃん返りをして
一生をまた初めの状態からやり直すらしい
だからDNAはずっと一緒のままらしい
自然の世界は不思議・神秘に満ちているとつくづく思う
科学でいろんなことが分かってきているが、わかればわかるほど
不思議は増えていくような気もする
人は万物の霊長とお偉く構えているが
実は何も分かっていないから、もう少し謙虚にいるほうが
生き物世界、つまりはこの世界(地球)の為にも良いような気がする
いつまでも失いたくないのは、不思議とか神秘的と感じる心
(キリストの)受難のことをパッションという
マタイ受難曲はドイツ語ではMatthäus-Passionと表現する
パッションは情熱の意味もありそうなので
どうしてそれが同じ意味となるのか不思議なところだが
あんな行動はパッションがないとできないということなのだろうか
昔、日曜日にキリスト教の教会に行ったことがある
別に信者ではなく、ただ単にバッハの音楽をより理解するために
行ったようなもので、時々歌われる聖歌が楽しかった
聖書の一部を読んで牧師さんが解説をする
そんなことが行われたと今は記憶しているが
変わり者の自分は少しづつついていけなくなった
多分、一番のポイントであるキリストは人類の身代わりになって
亡くなったとするところに、納得できなかったと思う
確かに痛いとか苦しいとか、、壮絶な経験をしたのだと思う
でも、自分は代わりになどなってほしいとは思わなかった
そして、それによって彼を信じることですべてがクリアされるのは
逆に、そこから抜け出せなくなると思ってしまった
これらは新興宗教だけでなく、既存の宗教にも存在する怖い点だ
確かにマタイ受難曲を聴いていると心が震える
民衆の嘆きもキリストの「なぜ、私を見捨てるのか?」
の最後の発言も冷静ではいられない
でもそれは音楽の上のことだ(自分にとって)
身変わりになどなってほしくない
自分のことは自分でケリをつけなきゃだめだ
とあの頃の自分が思ったことを覚えている
これは現在言われるような自己責任論とは違う
すべてを個人の問題とするのではなくて、現実にあるのは
社会的な要素があるはずで、その社会的な問題を自己が活動して、
その上で(内的な)責任を取るという意味を含んでいる
だがそれは楽なことではない
ここで思い出すのがヘッセの「シッダールタ」だ
この物語はブッダの教えの解釈者とか伝道者(友人のように)になるのではなく
むしろブッダのたどった経験を追体験するような
言い換えるとブッダ自身に同化するような物語で
最後に至った境地は多少ロマンティックだが、涙なしには読み終えられない
ここ数日、統一教会のニュースが多く流れている
なんであんなものに取り込まれてしまうのか?
と思う人のほうが多いと思われるが
今朝の玉川氏の「悩みからの開放」を求める心が根本にある
とするのは、よく分かる
これは言葉を変えると「自由からの逃走」となる
人との対話は情報量も多くなって、独りよがりを防ぐ効果がある
だが同じように、自分との対話もそれに劣らず必要だと思う
最近は、悩みなどは一生解決することはない!と開き直っている
むしろそれをウジウジと悩むのも生きてる楽しみと考えるようになっている
(もっともコンディションがいい時だけかもしれないが)
最近、フト思うことを並べてみた(やっぱり変人かな)
将棋の王位戦第2局は藤井王位が挑戦者豊島9段に勝ち
対戦成績を五分にした
現在のところ藤井聡太さんは王位だ
この王位戦の当別協賛に「おーい、お茶」の伊藤園がある
「王位」と「おーい」をかけたダジャレのような関係から
伊藤園が協賛に載ったのだろう
王位である藤井聡太さんは伊藤園「おーい、お茶」
とライバル関係にあるサントリーの「伊右衛門」のCMに
出演している(いた)
細かいことを気にすることはないとしても、彼が少し可愛そうだ
周りの大人がもう少し気を使ってあげて
あからさまに競合企業のCMに出ることは控えるように
アドバイスしたほうが良かったのではないかと思ってしまう
人気者は何でもCM出演を要求される
そしてその収入は馬鹿にならないらしい
だが義理堅い人は、なんでもいい!とは言えないだろう
なんだか世の中全体が、やったもん勝ちとか
配慮を欠く行動が多すぎるような気がしてならない
(これは考えすぎか?)
やることなすこと全く上手く行かず、どん底に陥ったことがある
今から思えば、社会的に困難に陥ってる人と比べると観念的な挫折に過ぎなかった
と振り返ることはできるが、その当時は自分が全否定されたような気分だった
そんな時、霊感商法に類するような場面に出会いそうになった
悩みが甘っちょろい観念的であれ、当時の自分にとっては救いがほしかった
確かどこかの地下の店だったか占いの場所だったように薄ぼんやりと覚えている
ほとんど忘れてしまったが(ということは、はまらなかったということだが)
現在の困難の状況は、あなたの先祖の某とか、今までに冷たくした人のたたりだ
というようなことを言われた
先祖のことは思い当たる節はないが、冷たくした人のことはずっと気になっていたから
聞き流すことはできなかった
(冷静に考えれば、人間は誰だって一つや二つは非人間的なことをしでかしているだろう)
そうか、そうなのか
つい、そう考えてどうすればクリアできるだろう?
と考えるのは当然の流れだ
その時出てきたのが、印鑑の話だ
それで全てがクリアされるみたいな話が続いたように思う
だが、直感は胡散臭い、、とメッセージを出していた
それ以上話を聞くことはやめて、そこから出た
しばらく考えた
先祖の話は親に聞くとして、冷たくしたひとのことは心に引っかかったままだ
だが、急に印鑑ですべてがクリアされるような行動を
今まで生きてきた自分とか、友達は認めることができるのだろうか?
とひらめいた
それは違う、、少なくとも自分はこのように安易な方法で救われるのは間違いだ
と確信をもった
「神仏を尊び、神仏に頼らず」
小説「宮本武蔵」に出てきた吉岡一門との戦いを控えた武蔵が
仏に勝利を願おうとするのをやめたシーンだが、それが浮かんだのだった
冷たくした人の祟なり恨みは、自分が引き受けなければ卑怯だ
何故か妙に強くそう感じたのだった
それは自己責任論とは違う、どこか覚悟のようなものだ
というわけで、ある時期の危機は乗り越えたと思っているが
その乗り越えられたのは何のおかげだったのか?
と考えると、もしかしたらそれまでに読んできた小説類のおかげかも知れないと思えた
「ジャン・クリストフ」「デミアン」「シッダールタ」「カラマーゾフの兄弟」
「宮本武蔵」そうした実生活には役立たないものが、最後の最後になって力を発揮した
ような気がしてならない
自分は多読でもないし、読む本は偏っている
だが、本のおかげで助かっている面はこのように多い
自分の経験からすると、役に立たないと思われるような小説
特に教養小説などは、若い時期に読むのはあとで効いてくるような気がするから
なるべく読んで欲しいものだ
(今の漫画でそのようなニュアンスのものがあるかもしれないが
活字だけの世界から想像することも大事だと本好きは言いたくなってしまう)
ラインには既読という表示がある
返信があるかどうかは当人次第だが、読まれているということはわかる
この既読表示があるだけで送り手は何らかの安心感を覚えるだろう
自己承認欲求とまでは行かないにしても、反応があることに嬉しい気持ちはわかる
ところで、ボケ防止のこのブログ
反応は残念ながらイマイチだ
独り言っぽく、面白くなく、広がりがない、、
多分、チラミしても直ぐに離れる人はそんなところだろう
それでも10年近く続けているのは何故だろう?
と考えることもある
読まれないかもしれない、表に出ないかもしれない
そういうものをずっと続けていた人は過去にも世界にも存在する
その人たちは、何故続けていたのか、、、
と考えると、きっと使命だとは思っていなかっただろう(と思う)
きっと、そうすることが自然だったというか、当たり前のように思えたのだろう
それらに使命感があったとか評価するのは次の時代の人たちだ
ということで、面白くもない心に浮かぶよしなし事を残す作業は
続くことになるだろう
参議院選挙はほぼ予想通りの結果だったのだろうか
弔い選挙の影響はあったのか、なかったのか?
昨日になって出てきた「統一教会」と安倍さんの関係が
もっと早く詳しく報道されてたら、、、どうだったのか?
それらはわからないまま過ぎていく
だが、はっきりしたことはある
ツイッターである人が調べたアンケートが紹介されていた
若い人に自民党に投票した理由だ
「現状維持」「安定感」「生活は良くなってないがそれほど困った経験がない」
「自民以外知らない」「頭に浮かんだのが自民」
以上がその理由だ
正直、そんなものだろうと想像がつく
自分の若い頃を振り返ると偉そうなことは言えないが
一つの党が独占するのは良くないと考えて、政策やイデオロギーよりは
暴走を防ぐ意味で二番目の党に入れていた
(それが良いのか悪いのかは、、わからないが)
ただ、年齢を重ねて来ると選挙の重みというものは実感する
国家とは暴力装置を持った存在と定義した人もいた
税金は否応なしに徴収されるし、払わねば罰せられる
徴兵制があったころは好むと好まざるの関係なく戦地に送られた
国家とはそういうものだから、自分の住む国家は少なくとも
好ましくない暴力は果たせないようにしなければならない
選挙は国家に対する国民の意志の表明だから、面倒でも真面目に考えねばならない
自分のことは棚に上げて物申す
それは気づいたものの責任のような気もする
「現状維持」は「生活は良くなってないがそれほど困った経験がない」
という実感から出たものだろう
だがそれは「痛い目をしないとわからない」につながる
周辺のもっと困った人たちへ心を痛めるといった
想像力に欠けるといった傾向が最近は多くないだろうか
目の前の事実しか気が付かない
目に見えていない問題点とか矛盾とかそういったものへの
想像力がない現実は、実は国力の低下ではないだろうか
「自民以外知らない」「頭に浮かんだのが自民」
これも想像がつく
だが民主主義がまともに運営される条件は、
情報あるいはメディアが正常に機能していることがすごく大事な条件だ
「自民以外知らない」「頭に浮かんだのが自民」
という状態は果たして情報(メディア)が正常に機能していた結果だろうか
話は飛んで昨日「旧統一教会」の代表の記者会見があって
ついに宗教団体名が明らかにされた
問題となるのはその団体と安倍さんの関係になるが
一つの事実として、奈良の演説会場にはあの団体に動員が
かけられたと想像できる画像が出回った
それは団体の内々の連絡を図るもので、演説会場のこのあたりは空いている
と言った情報が共有されるようになっていた
(だから安倍さんと団体と無関係とは考えにくい)
この旧統一協会のことは、実はアメリカのトランプさんの事件のときも目にした
正確にはこの組織が関わるメディアで、「ワシントン・タイムズ」という
名前は信頼できそうなものだが、歴史のある「ワシントン・ポスト」とは違って
なにやら怪しい情報を流していた(Qアノンぽい)
(あの頃は日本語訳で読んだりしたし、ここの関係者と思われる我那覇某の報告も目にした
それはちょいと信じる気になれないものだった)
つまりは統一教会のことをそれなりに知っている人は、少し危なっかしい団体と認識すると思う
ところが、その名前がなかなか明らかにされないでいた(何故?)
昨日、明らかになったが、心配なのはそのあとどのくらい詳しく報道が続くかということ
仮に、この手の報道が知らぬ間に静まっていくとか
あるいは事件の本質が民主主義への挑戦とかの言葉で論点がすり替えられたりすると
心配症の自分はいよいよ不安が増すことになる
安倍晋三氏襲撃の実行犯、山上徹也容疑者の報道が多くなってきている
だがそれは「ある宗教団体に恨み」とメディアは報道している
ある宗教団体とはどこの宗教団体?
普通の人ならそう思う
しかし、依然として大手メディアは団体名は明らかにしていない
だがネットの世界では既に明らかにされて、その宗教団体の実態などが拡散されている
意図的に、あるいは忖度して(?)団体名を伏せているかもしれない大手メディア
そのうち週刊誌が明らかにすると予想しているが
(既にネット上では統一教会の名を明らかにしている週刊誌がある)
この宙ぶらりんの大手メディアの報道姿勢が怖い
この宗教団体(統一教会)は以前から安倍さんと近いとされており
団体の式典には安倍さんが出演した動画を見たことがある
どうやら、安倍さんだけでなくおじいさんの岸さんの頃からの付き合いのようだ
大手メディアはこの統一教会という宗教団体以外でも
このような事件のとき、ある宗教団体と報道するのだろうか
それとも今回だけある宗教団体と報道しているのだろうか
空気のように存在するニュースとか報道
それらが実は本質を隠された情報かもしれない
(特に政治的な案件とか政権に関することなど)
今回のことでも、また別のことでも最近良く感じることだ
今回の襲撃が怨恨なのか、言論を封殺する意味を込めてのテロなのかは
メディアはキチンと区別すべきだと思う
怨恨であれば家庭崩壊に至った社会的な環境を追いかけ
そこでの問題点を指摘することになる
テロなら容疑者のメッセージとか行為後の社会の変化が問題となるだろう
どうも今の世の中は変だ
自分の思うところと違うから変だと言うのではなく
もっと漠然とした不安(こうしたメディアの姿勢とか)が押し寄せている
社会は一つ一つ問題に対処し、解決していく過程を繰り返して行けばいいのだが
何故か、問題は曖昧なまま先送りにされる
そして時間だけが流れ、その問題は記憶から消えてしまう
だが、問題は依然として通奏低音のように残る
最近、集団の無意識の行動とかが気になって仕方ない
精緻な議論よりも感情が先立ち、相手の尊厳とか考えを認めようとしないような姿勢
ほんと、なにか変だ、、