地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

2009年のパクアン急行 (上) 東急8608F

2019-12-02 20:35:00 | インドネシアの鉄道


 去る11月30日の日本の鉄道趣味界は、相鉄JR直通一色に染まった感がありますが、遥か南のインドネシアでは、格別にマニアックな列車が運行されました。いつもお世話になっておりますパクアン急行様が、貸切需要に対応するべく日本製DCを大改造して最近登場したインドネシア鉄道の豪華車両「Kereta Istimewa」をチャーターし、鉄道車両の墓場チカウムに自らを廃車回送しつつ (笑) 最終的にC●駅を目指すという企画です。
 私もこの企画には、かなり早い段階からお招き頂いていたのですが、現在怪社で拝命している役職の都合で泣く泣く不参加表明せざるを得ず (嗚呼ブラック企業……)。その後相鉄が11月30日を以て開業する旨を発表したことで、結局日本国内で早朝から奮闘したのですが、パクアン急行様にとって最高に特別なこの列車に同乗し、直接お祝いを申し上げたかったのもまた偽らざる思いです。
 そこでこの場ながら、パクアン急行様の人生の大転機を心よりお祝い申し上げますとともに、ご家族を大事にされつつ、今後ますます、日本とインドネシアの鉄道事情を結ぶ立役者としてご活躍されることを心より祈念しております!



 この謎列車の運行をめぐっては、既に西船junctionどっと混む様やインドネシア人鉄の方々のツイッターなどで現地速報がアップされており、近いうちにパクアン急行様のブログでも当日のまとめがアップされるかと存じますので、私もワクワクテカテカしながらレポートを待つことにしまして、とりあえず外付けHDの中で死蔵されていた2009年の初訪問時の過去画像を掘り起こしてみました。
 私が初訪問し、偶然ながらパクアン急行様も初訪問した2009年のジャカルタの電車事情は、カオスの一言に尽きるものがありました。都営・JR・メトロ東葉・東急から中古冷房車を急速に導入し、従来の非冷房エコノミと比べて数倍も高い運賃を取って急行電車・エコノミAC電車サービスを提供しつつあったものの、時期的にはちょうどインドネシアがアジア経済危機の混乱からようやく脱して急成長を始めた頃で、まだまだ車両の保守にかける金も人員も不足し、しかも編成ごとに運用が固定されがちで、したがって終日運用に固定されてしまった編成は荒廃の一途をたどって車体ドロドロ・窓割れまくり・冷房不調……という悪循環! それでも、急行電車やエコノミAC電車を利用出来るに越したことはなく、金のない客は屋根上乗車でも何でもありな非冷房エコノミで命がけの通勤をしていたのでした……。
 そんな2009年のジャカルタの電車シーンで、圧倒的に輝いて見えたのが、ジャカルタ・コタとボゴールを結ぶパクアン急行です。停車駅はジャカルタ・コタ、ジュアンダ、ガンビル、ゴンダンディアといった都心部を除けば、あとは終点のボゴールのみ!! もっとも、朝夕はチタヤムやボジョングデなど一部のベッドタウン駅に停まる列車もありましたが、とにかくゴンダンディア〜ボゴール間は、マンガライでの信号待ちや徐行を除けば基本的に飛ばしまくりで、ジャカルタ・コタ〜ボゴール間が1時間しかかからないという夢のような列車だったのです! そんなパクアン急行に103系や東急8000・8500系が入れば、もう本当に大歓喜・大感動の嵐で、とりわけデポックから南の山登り区間におけるパクアン急行のアツすぎる走りは伝説級だと信じて疑いません。
 パクアン急行様におかれましては是非、そんなパクアン急行の走りっぷりを初心として忘れず、読む者を唸らせる御論考を量産されることを夙に期待するものですが、そこで当時のパクアン急行の画像を発掘しようとしたところで……さて困った。ほとんどの列車は単に正面窓に「BOGOR」を表示するのみで、表示も何もない列車も少なくない中、ちゃんと「PAKUAN」を掲げた列車は実は少ないという……(苦笑)。目を皿のようにしてHDを漁ったところ、東急8608Fのジャカルタ・コタ側に掲げられているのを発見しましたので、未公開画像をレタッチしてみました。この黄緑+黄色帯は、8500に本当に似合っており、ただただ懐かしいの一言に尽きます……。


インドネシア・消えゆく1等現行塗装

2019-08-17 12:00:00 | インドネシアの鉄道


 本日8月17日は、インドネシア独立74周年の節目にあたります。インドネシアの独立にあたっては、良くも悪しくも日本が極めて大きく関わっているところですが、以来多くの波瀾万丈を経て、今日の日本とインドネシアの友好関係が成り立っていることを喜ばしく思うものです。とりわけ今年はジャカルタのMRTが開業し、ジャカルタの末期的な交通渋滞に一石を投じ大好評を博しているようです。もっとも、現政権はオラン・チナ寄りであることは否定しようもありませんが、何はともあれ、とりわけ鉄道分野で協力関係を進めて来られた方々に敬意を表したく存じます。



 そんなインドネシアのジャカルタから日々発信されるパクアン急行様のブログを拝見してマジビックリ……。ついこの間 (?) 制定されて一気に塗り変わったはずの、現在の客車塗装 (青白ストライプ+オレンジの変形ストライプ) が、ステンレス新型客車の風模様 (?) カラーリングに合わせたものに早くも変更とは……(@o@)。もっとも、それはステンレス新型客車とも連結する1等 (eksektif) 客車がメインで、3等 (ekonomi) の在来ボロ客車のみで組成される一般の中・長距離急行には波及しないのかも知れませんが、Tidak Apa Apaな朝令暮改にもほどがあるというものです (^^;)。
 というわけで、1〜2年後には「懐かしの」という範疇に入ってしまいそうな現行塗装のオール1等客車列車の画像ストックをアップしてみましょう。
 1枚目は、チルボン行の近距離ビジネス特急Argo Jatiですが、何と、この列車がちょっと格下なCirebon EkspresやTegal Bahariと統合されて、Argo Cheribonと改称されるとな……?? かつてバンドゥン行の豪華ビジネス特急Argo Gedeが、伝統の列車ながらもちょっと格下なParahyanganと統合されて、Argo Parahyanganとなったのと全く同じ変化が起ころうとしているわけですが、このオール小窓2010年編成で揃った優美な編成も過去のものとなろうとしているとは……。
 2枚目は、朝ラッシュのピークが一段落した頃に撮影地にやって来る、ジョグジャカルタ行きの伝統特急Taksakaですが、何だかんだでArgoが冠せられていないため、長らく「ややボロ」な客車が充当されて来ました。現行塗装となった2016年の段階では、かつて1990年代にArgo用として新造された世代の客車で組成されていましたが、この客車も2009年の初訪問時にはまぶしく見えたのに、2010年代になると様々な新型客車の登場ですっかりボロの仲間入り……。こんなところからも、インドネシア鉄道事情の変化の速さを見せつけられ、感慨に耽るのみです。
 何はともあれ、この塗装で揃った編成や、過渡期の混色編成を撮りたいという方は、今のうちにジャカルタにGo!……って、ネットを眺めるにつけ、ジャカルタに押しかける日本人鉄の間で客レへの関心がなかなか盛り上がらない(私が参加させて頂いているジャカルタ鉄の宴関係者を除く)のは不思議なことです。乗ってみれば、日本や台湾の客レと近似のノリを結構楽しめるはずなのですが……。逆に言えば、それほどまでに日本の鉄道はEMU・DMU中心になったということであり、僅かに残る日本の客レへの関心は、特定のブランド化した客レへの関心ということなのかも知れません。

ジャカルタの103系@ドゥリ (2014年)

2019-08-05 00:00:00 | インドネシアの鉄道


 ここ3年ほど、仕事の都合で5日以上の長い休みがなかなか取れず、ジャカルタでの鉄活動から遠ざかってしまっているのですが (泣)、2009年から16年まで毎年通っていたときは、概ね8月上旬からお盆休み冒頭にかけての頃合で、6〜8日を確保して遠征していたものでした。時季的にもちょうどジャカルタは冬で、連日概ね最高気温31〜32度程度、雨も基本的にはさほど降らない、というのが好都合でもありました (たまに異常気象の年には、雨が降り止まない日があったり、午後激しいスコールがあったりもしましたが)。
 そして今年……怪社での哀しい中間管理職業務のため休めない、ということさえなければ、 だいたいお盆前を狙って遠征しようと思わなくもなかったのでした。ところが、いつもお世話になっておりますパクアン急行様のブログによりますと、ジャカルタ首都圏の電源を担う火力発電所がブラックアウトしてしまったため、数日間は運休の可能性が大とか……。
 (5日夜補筆:既に平常運転に戻っているとのことです)



 もっとも、ジャカルタは公共交通が余りにも発展途上であるだけに、逆にこうなったときトランスジャカルタや凄まじい普及率のバイクがセーフティネットになるあたり、さずがジャカルタと思う反面、日常的には電化が進んだ都市とそうでない都市のどちらがシアワセなのだろうか、と思ってしまうのも事実です。
 何はともあれ、一刻も早い火力発電所の復旧を祈りつつも、一方では今年の8月上旬にジャカルタ遠征を組まなくて助かった……という感じです (^^;)。

 というわけで、ジャカルタで撮影した未アップ画像としまして、2014年に撮影した103系最後の雄姿(@ドゥリ)をお楽しみ下さい。
 この当時は、既にドゥリの線路市場がほぼ廃止に向かいつつも、まだ新たな代替地を得られていない一部の商売人が粘っていたものですが、基本的にタンゲラン線との分岐付近の非常に狭いスペースに集中し、その脇を103系がのそりのそりと通過していたものです。この2014年8月の遠征時、103系は超まぐれでスルポン線運用に入ることもありましたが (マジャからタナアバンまで103系で乗り通すという感動体験もしたものです)、基本的には引退を控えた編成の定番運用と化していたマンガライ=ドゥリ間のフィーダ運用に入っていました。
 そんな光景も……何もかもが懐かしい。今やドゥリ駅は橋上駅舎化されて空港特急も出入りしますし、ホームから線路に下りた客や線路市場への買い物客を完全に締め出すためのゲートも設けられているとか。
 そして、ジャカルタの103系は今や完全に過去のものとなってしまいましたが、ジャカルタでの最後の活躍ぶりすら非常にボロに見えますので、いわんや奈良線で現役のウグイスや引退を控えた桜井・和歌山線の105系も、最近は輪を掛けて古くなったように見えます。昭和はこうして終わって行くのでしょうか。

さよなら、ジャカルタの都営猫バス!(下)

2019-07-28 15:00:00 | インドネシアの鉄道


 東京の電車見本市状態のカヲスと化したジャカルタの地に、究極の謎電として現れた都営猫バスは、当初それこそボゴール事故の生き残りということで4連を組んでおりました。しかし2010年代にもなれば、最早タンゲラン線の急行も存在しない中、輸送力面で4連OKな主要系統など存在せず (今やタンゲラン線も12連の時代……)、結局例えばブカシ=タンジュンプリオク間の超ニッチ運用や、完全な環状運転にはならない環状線オンリー各停チリウン号の運用、あるいはカンプンバンダン・フィーダの類でちまちまと神出鬼没していたものでした。まぁ、どれも非常に濃いぃ運用であることは確かで、とりわけ猫バスが主に充当されていたブカシ=タンジュンプリオク運用は、ほとんど誰も乗っていない電車が、クマヨランからタンジュンプリオクへの連絡線に入って行き、しかもこの連絡線もコンテナ貨物で大盛況な今日の有様からは考えられないほどゴミだらけの単線でしたので (一応複線ながらも東側の線路は使わず放置)、謎電+ショボショボ線の組み合わせに狂喜乱舞したのも懐かしい思い出です。



 事故当該編成の中間車にやっつけで顔をくっつけた猫バスだけに、そんなうらぶれた運用が当たり前……と思っていたはずが、突然の編成替え・8連化の報せに思わず一瞬腰が抜け、次の瞬間血湧き肉躍る気分になったのも、昨日のことのように思い出しますね……。もともとクーラーの効きが悪かった都営6000系の中でも、猫バス編成6151Fはとりわけ効きが宜しくなく、4連のスッカスカ運用に入っていた頃は車内の人口密度の低さゆえ、辛うじて涼味を感じることも出来ましたが、8連化後は、乗ろうとするときに来れば絶句ものでした。生暖かい風を引っかき回しているだけと申しますか……。しかし、そんな猫バスも、撮るときに来れば最高にご機嫌であったことは言うまでもありません (笑)。
 何はともあれ、ジャカルタにおける都営6000系全般がそうであったように、猫バス編成も車両不足・整備暗中模索の時代において、事故やら何やらの満身創痍を乗り越えて、よくぞメトロ6000系やJRE205系の全盛期へとバトンを渡したものだと思います。ジャカルタにおける冷房電車列伝の中でも、最高に特異な一ページを飾る電車であり、乗って撮ったことがあるヲタによって、その存在感と功績は末永く語り伝えられることになるはずです。さようなら、猫バス!!

さよなら、ジャカルタの都営猫バス!(上)

2019-07-26 15:00:00 | インドネシアの鉄道


 ジャカルタで都営6000系が引退したのは、既にだいぶ前の話となってしまいましたが、先頭車化改造編成であるLakitanと猫バス (Djoko Lelono2) は、2連でもOKというフレキシブルな特徴を活かしてデボックの入換車となり、最後まで現役で残ってKCJ色となっていた6181Fもデポックの肥やしとなっていました。しかし、いつもお世話になっておりますパクアン急行様のブログによりますと、ますます増える武蔵野205系に場所を譲るため、このほど都営車を一斉に廃車回送することとなり、猫バスの廃回はジャカルタのネタ鉄が多数馳せ参じるさよなら劇となったとか……。



 思えば猫バスは、今と違って予備車も事欠くギリギリの運用状況の中、ボゴールでの大事故で生き残った車両にやっつけの顔を取り付けて復活させたという数奇な車両でしたが、パクアン急行様が述べておられるように、その凄まじいインパクトある姿には、ジャカルタで鉄活動をする誰もが大いに心惑わされ狂喜し、思わず追っかけたくなる気分になったものと思量します。他ならぬ私も、突然姿を現した猫バスを何とか撮ろうとして無理な行動をしてしまい、骨折してしまったという苦い出来事がありましたので……。その後、歩くこと自体の喜びを痛感したことで、20代の非鉄時代にやっていた山登りを再開し (このため、多少撮り鉄活動から遠ざかってしまうことになりましたが)、さらには旧街道歩き鉄などという酔狂にも手を染めることにもなりましたが、それもまた猫バスの降臨によって運命が大きく変わったためであろうと理解しております。(つづく)