地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

第五ヤンゴン熱鉄記 (24) 仙台色日緬友好2

2019-07-02 00:00:00 | ミャンマーの鉄道


 先日、JREの新型電気式DCであるGV-E400の正式デビューが8月19日と決まり、今後新潟・秋田地区で急速にキハ40系列が消えて行くことになりますが、そこで余ったキハ40系列は果たしてどうなるのやら。JREから改めてミャンマーに譲渡され、ヤンゴン地区で2種類の新潟色やら五能色やら、復活国鉄急行色やらを楽しめるようになると良いな……と期待してしまうのは私だけではないでしょう。



 いっぽう、水害による只見線の不通区間(会津川口〜只見)が、上下分離方式により運行再開の見込みとなったことが報じられていますが、只見線は当面GV-E400の投入対象ではないようで、しばらく仙台色キハ40の最後の砦であり続けるのでしょうか(全線再開後、新潟の車両は撤退することになるはず)。もっとも、最近の只見線はロングシート率が相当高いようですし、何と言っても外国人観光客が激増して、早朝の会津若松発会津川口行が超盛況と伝えられるところですので、「我が心の中の絶景ガラ空き只見線」を保つためにも、敢えて鉄目的では足を運ばないようにしよう……と思わなくもないのですが (滝汗)。
 というわけで、一昨年のヤンゴン画像の続きです。既に日緬友好ステッカー付き仙台色の画像はアップしておりますが、まだ未アップカットもありますので、それらを引っ張り出してレタッチしてみました。


第五ヤンゴン熱鉄記 (23) キハ40仙台色4連

2019-05-28 20:46:00 | ミャンマーの鉄道


 このたびは外務省のミャンマー担当専門職員の方が痛ましい事件に巻き込まれたとのこと、心よりお悔やみ申し上げます。拙ブログ管理人は直接面識ございませんが、落花生。様をはじめとして日本の対ミャンマー実務に従事されている皆様のご心痛はいかばかりかと存じます。日緬関係にとって大変な損失ですが、鉄道の全面改良をはじめとしたさまざまな協力案件の着実な進展を鉄ヲタのはしくれとして祈念申し上げます。



 いっぽう、RP誌の最新号には、いつもお世話になっております斎藤幹雄様のヤンゴン最新事情が掲載されていますが、今回衝撃を受けつつもある意味で納得したのは、ヤンゴン近郊で運用されているキハ40系列のプラ製ロングシート化です。あの高温多湿かつ客がいろいろ怪しい荷物を持ち込む環境にあっては、モケット張りのボックスシートは衛生面でも混雑緩和面でも難ありですので……。また、定期的な検査を徹底し、予備車を確実に確保するためにも、5両編成が4両編成に減車されているとのこと。
 というわけで、ヤンゴン環状線RBEの日常となっている仙台色4連を貼っておくことにします (ちょうど宮城特集を始めた折でもありますし)。ただ、下段窓が開いて快適なボックスシートの旅を楽しむのは、間もなくロングシート化完了に伴い過去のものとなりますので、5連といいボックスシートといい、思い立ったが吉日、行けるときに行かないといつの間にか変わってしまうという「東南アジア鉄の鉄則」は依然有効なようです。

祝!三陸鉄道全通・ミャンマーRBE3004

2019-03-23 00:00:00 | ミャンマーの鉄道


 本日は震災から8年目にしてようやく山田線の宮古~釜石間が全通し、それと同時に三陸鉄道に移管され、三陸鉄道全体が「リアス線」と改称されることとなりました。関係者の皆様のご苦労は並大抵のものではなかったかと存じます。まずは、こうして鉄路が復活したことに、一介のヲタながら心よりお慶び申し上げます。
 しかし、これでJR山田線は「陸中山田に行かないのに山田線とはこれ如何に」ということになってしまいますので、個人的には宮古線、または早池峰線と改称してしまえば良いのに、と思わなくもありません。それが出来ない大人の事情でもあるのでしょうか?



 何はともあれ、160km以上に及び軽快気動車が1日数回直通ロングランするというのは、何だか奈良交通の大和八木~十津川~新宮っぽくもあります (これは未成線である五新線に相当するものでもあり、三陸は全通、奈良はバス専用道となった一部区間すら放棄というのは明暗分かれの極みと言えそうです)。そして個人的には、震災直後の2011年7月、十和田観光電鉄イベントの後で開通区間と代行バス区間を乗り継いで久慈~岩手船越間を乗ったきりですので、全通フィーバーが落ち着いた頃合を見計らってまた再訪してみたいものだと思っているところです。
 というわけで、そんな三陸鉄道の佳き日を勝手に祝うことにしまして、ミャンマーでも三陸色の美しさを保っているRBE3004の画像をアップします。線路脇で他の列車を撮っていたところ、たまたまティラワでの幹部出席行事から戻って来たこの三陸を撮影出来た云々という話題を以前アップしたものですが、他にも撮りたい列車を撮って駅に戻ったところ、この三陸が駅でず~っと待機しており、しかも日射しも燦々と照らし始め、白い車体と青・赤の帯が美しく映え、本当に感動・感激したものです……。

第五ヤンゴン熱鉄記 (22) キハ40仙台色5連

2019-03-07 12:00:00 | ミャンマーの鉄道


 先月下旬に発売されたRM誌最新号の斎藤様ミャンマー・レポートは、日本国内でほとんど消えたボギー車レールバスのミャンマーにおける現状を詳細に伝えておられるものですが、各社それぞれに微細な差異があるレールバスをなるべく詳細に訪ねて回られるのは、もう何と申しますか、愛としか言いようのないレベルであろうかと存じます。私自身はと申しますと、小坊から高坊までの間は釣掛式電車専門で(18きっぷ遠征の際にボックスシート付きの国鉄形DCに乗るのは好き)、ボギー車のレールバスが大量に登場し活躍していた1990年代には非鉄でありましたので、2000年代になってから初めて非電化ローカル民鉄や三セクを訪ね歩いてこれらのレールバスを撮ったものの、やはり思い入れという点で斎藤さんの足許にも及ぶ者ではありません。ヤンゴンで来れば「をっ!来た!」と激写したことは言うまでもありませんが、ヤンゴン初訪問時にはまだまだ現役であったキハ52・58をはじめ国鉄型車両の方がウレシイのもまた否定しがたい内心ですので……(^^;)。



 というわけで、レールバス好きな方は是非RM誌をご覧下さい、と申し上げたところで、早いもので約2年前となってしまった第5回ヤンゴン遠征の記録のつづき……仙台色キハ40・48のうち、日緬友好ステッカーを貼っていない5連です。……と申しますか、等倍に拡大してみますと、この5両は全てキハ40で、ブツ5と呼ぶべき圧巻さですね (笑)。この時点ではまだヤンゴン登場後間もない頃で、車体も下回りも結構キレイですが、とにもかくにも豪雪の季節もある只見線から酷暑のヤンゴンに転じて、これらのキハ40にもし心があるとすれば、さぞかし目を白黒するような気分だったことでしょう。
 それにしても、現在はヤンゴン環状線の改良工事は真っ盛り、運休区間や減便区間があり、とりわけダニンゴン周辺の本数が減っているのは痛いですね……。改良工事が完成し、ついに新型電気式DCも御目見得、そして既存DCもそれなりに赤クリームのツートンに塗り変わったという頃合になったら再訪したいものですが、最近はとにかく仕事が詰まり、長い休みを取りづらいのが問題です……(この3月の再訪予定は全く立たなかった、ということです。苦笑)。

第五ヤンゴン熱鉄記 (21) 70年代近車川重客車

2019-02-21 17:02:00 | ミャンマーの鉄道


 本日正式発売となる鉄道雑誌の4月号では、RP誌とRM誌がミャンマーに関する研究記事を載せておりますが (昨日神保町で早売りを買ってしまいました)、このうちRM誌につきましては、いつもお世話になっております斎藤幹雄様によります現存レールバスをめぐる事情が掲載されています。
 いっぽうRP誌につきましては、リンク頂いております『民柄場』の管理人でおられるフ・エータ様によります、日本から戦後ミャンマーに新造車として輸出された車両に関する研究の続編で、とりわけネーウィン政権による「ビルマ式社会主義」が全盛であった1960~1970年代の車両が扱われています。かつてミャンマー軍事政権時代には、鉄道車両の全貌を知ることは到底難しかったところ、近年の民主化・開放の流れの中でミャンマーの鉄道事情へのアクセス可能性が格段に増し、これに加えて戦後長年にわたる日緬両国間の経済援助とそれに伴う輸出車両の概要に関する史料・データが日本国内に残っていますので、こうしたフィールドワークと史料を総合させたうえで、鉄道車両という見地からみた戦後ビルマ・ミャンマー史と日緬関係史が誌面で見事に立ち上がっているのは、さすがミャンマー史研究を志しておられるフ・エータ様らしい業績であると言えましょう。

 

 日本からの中古車両には絶大な注目が集まる一方、日本から新車として輸出された車両につきましては、日本国内で活躍しているわけではないことと、ネット・現地訪問による情報激増を迎える前はヴェールに隠されていたことから、今でもなかなか注目が集まらないものです。現地を訪れると何だかんだで現地オリジナル車にも関心が湧いてしまう者としましては、まさに現地鉄道事情や日本をはじめ外国との関係を物語る存在として、少しは関心が盛り上がると良いかな?と思っております。というわけで、さらに続編・1980年代編にも強く期待したいところです。
 というわけで、今回の記事で触れられていた車両として、1970年代に近車・川重で製造された客車・BDTEZ10400をアップしてみましょう。この客車はその後、ウリナラ大宇 (確か) やミンゲ工場により大量増備されて今日の急行列車の主力をなしていますが、とにかくもミャンマー国鉄主力客車の基礎を作ったという点で記念すべきグループであると言えます。しかし、製造から既に約40年が過ぎ、クリームと茶色の急行塗装ではなく、青と茶色の鈍行塗装となっているのが哀れを誘います。実際、ヤンゴン近郊では、ダゴン大学や東大学へ向かう東郊ルート(トーチャンカレーまでマンダレー本線を走る)の輸送力列車や、チミダイン~ピィ間の鈍行列車で眼にします。
 今回の記事で「なるほど」と思ったのは、これら青茶のBDTEZ10400の車番位置にある (J) という補記が古参車を意味する、という記述です。しかし、個人的に最後に遠征した2017年3月の時点で、1950年代に日本から輸出されたヴィンテージ級客車の車番に (J) が加えられていないのは、逆に「あれ?」と思いました (今は1950年代車にも補記されているのでしょうか)。また、そもそも「J」って一体何の略……? 単に古参であるのなら、OldまたはAgedから取って「O」「A」と補記すれば良いでしょうし、「腐食」「錆びた」ということでしたら、Rustから取って「R」とすれば良いはず……。私の英語力の無さを吐露するかのようで恐縮ですが、あるいはミャンマー語で古参・老朽を意味する単語から取っているのかも知れません。