本日正式発売となる鉄道雑誌の4月号では、RP誌とRM誌がミャンマーに関する研究記事を載せておりますが (昨日神保町で早売りを買ってしまいました)、このうちRM誌につきましては、いつもお世話になっております斎藤幹雄様によります現存レールバスをめぐる事情が掲載されています。
いっぽうRP誌につきましては、リンク頂いております『民柄場』の管理人でおられるフ・エータ様によります、日本から戦後ミャンマーに新造車として輸出された車両に関する研究の続編で、とりわけネーウィン政権による「ビルマ式社会主義」が全盛であった1960~1970年代の車両が扱われています。かつてミャンマー軍事政権時代には、鉄道車両の全貌を知ることは到底難しかったところ、近年の民主化・開放の流れの中でミャンマーの鉄道事情へのアクセス可能性が格段に増し、これに加えて戦後長年にわたる日緬両国間の経済援助とそれに伴う輸出車両の概要に関する史料・データが日本国内に残っていますので、こうしたフィールドワークと史料を総合させたうえで、鉄道車両という見地からみた戦後ビルマ・ミャンマー史と日緬関係史が誌面で見事に立ち上がっているのは、さすがミャンマー史研究を志しておられるフ・エータ様らしい業績であると言えましょう。
日本からの中古車両には絶大な注目が集まる一方、日本から新車として輸出された車両につきましては、日本国内で活躍しているわけではないことと、ネット・現地訪問による情報激増を迎える前はヴェールに隠されていたことから、今でもなかなか注目が集まらないものです。現地を訪れると何だかんだで現地オリジナル車にも関心が湧いてしまう者としましては、まさに現地鉄道事情や日本をはじめ外国との関係を物語る存在として、少しは関心が盛り上がると良いかな?と思っております。というわけで、さらに続編・1980年代編にも強く期待したいところです。
というわけで、今回の記事で触れられていた車両として、1970年代に近車・川重で製造された客車・BDTEZ10400をアップしてみましょう。この客車はその後、ウリナラ大宇 (確か) やミンゲ工場により大量増備されて今日の急行列車の主力をなしていますが、とにかくもミャンマー国鉄主力客車の基礎を作ったという点で記念すべきグループであると言えます。しかし、製造から既に約40年が過ぎ、クリームと茶色の急行塗装ではなく、青と茶色の鈍行塗装となっているのが哀れを誘います。実際、ヤンゴン近郊では、ダゴン大学や東大学へ向かう東郊ルート(トーチャンカレーまでマンダレー本線を走る)の輸送力列車や、チミダイン~ピィ間の鈍行列車で眼にします。
今回の記事で「なるほど」と思ったのは、これら青茶のBDTEZ10400の車番位置にある (J) という補記が古参車を意味する、という記述です。しかし、個人的に最後に遠征した2017年3月の時点で、1950年代に日本から輸出されたヴィンテージ級客車の車番に (J) が加えられていないのは、逆に「あれ?」と思いました (今は1950年代車にも補記されているのでしょうか)。また、そもそも「J」って一体何の略……? 単に古参であるのなら、OldまたはAgedから取って「O」「A」と補記すれば良いでしょうし、「腐食」「錆びた」ということでしたら、Rustから取って「R」とすれば良いはず……。私の英語力の無さを吐露するかのようで恐縮ですが、あるいはミャンマー語で古参・老朽を意味する単語から取っているのかも知れません。