地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

鉄コレ東急3450形発売記念・デワ3043

2020-01-31 07:15:00 | 事業用車両


 本日は、毎年恒例となったヨコハマ模型フェスタの開催日にして、ヲッサン東急ヲタ待望の鉄コレ東急3450形発売日。近年の中国の物価・賃金高騰や、3450形現役時代を知る世代の高齢化をうけて、生産数がかなり絞られて3両6,000円の大台に乗ってしまいましたが、GM板キットを組むよりも遥かにリアルな3450形のN模型が得られるとあっては、何が何でも購入しないわけには参りません。というわけで、土日確実1000箱発売・一人2箱限定=500名様の枠に無事入るように、開場3時間以上前にみなとみらいに到着しました。このあとの実況は、試験的に開設したツイッター版で行いますので、宜しければご覧下さい (ツイッター検索で「地味鉄庵」と入力しても出て来ます)。



 というわけで、鉄コレ3450形の発売を記念しまして、2009年まで恩田のヌシとして君臨したデワ3043の画像をアップしておきます。デワ3043は1981年、3450形のうち3両のみ残っていた両運車のひとつであるデハ3498を、椅子の撤去など簡単な改造のみで荷物電車に充当したものですが、翌年に荷物電車が廃止されると恩田の入換車となりました。その間、東急グリーンから、このブルー+薄黄色、そして2007年には彩度の高いブルー+黄色となり、恩田を訪れるヲタを大いに楽しませてくれたものです。既に実車は解体され、3450形の面影を偲ぶのであれば「電車とバスの博物館」を訪ねるしかありませんが、逆に言えば一部カットモデルが残っていること自体、3450形の偉大な存在感のあらわれでしょう。
 そこで思うに……来年の事業者限定東急鉄コレは、折角両運車デハ3450が鉄コレ化された以上、3450形ツートンでも良いですが、是非デワ3043の3色セットなど如何でしょうか!! そう思っているヲッサンヲタは少なくないはずです。
 なお、このデワ3043・2代目塗装姿は、2005年5月の撮影となります。あっという間に約15年も過ぎてしまったのですなぁ……(遠い目)。

相鉄12000系@新宿駅2番線

2020-01-30 15:27:00 | 大手民鉄 (相鉄)


 相鉄JR線の開通から、早いもので2ヶ月となりました。開通初日のお祭り騒ぎは一体どこへやら、羽沢横浜国大駅は余り人の気配がなく (ゆめが丘状態?)、直通列車そのものも朝8時半を過ぎれば余裕で座れてしまう状態ですが (ラッシュアワーにして大和から西大井まで座って行けるのは神状態)、JRE関係者が先日記者会見した通り、今後は半年定期の切り替え時期を経て徐々に客が増えて行くことになるでしょう。何しろ、横浜駅及び横浜発着列車で増した混雑を避けるに越したことはありませんし、鉄ヲタ的視点からみれば、これまでライナーを除けば旅客列車がほとんど走らなかった線路を通って相鉄から都内へ行けるというのは、昔しばしば運転されたミステリートレインのような感覚があってたまりません (個人的にはミステリートレイン未体験ですが。笑)。



 もっとも、そもそも相鉄沿線民は、横浜駅を経てさらに横浜中心部や東海道・京浜東北・京急・東横沿線に向かう人々が住まいとして選択しているようなところがあり、横浜駅西口こそ最もお手軽な買い物と食の殿堂だと思っているようなところもありますので、横浜駅の求心力は依然として圧倒的であり、果たしてJREと相鉄の読みの通りに客が転移するかどうかは、引き続き注目に値するでしょう。
 と申す私は、東京駅周辺での仕事にちょうど都合が良いため、大和〜西大井〜東京ルートをしばしば選択し、ラクをしております。最大の難点は、西大井における相鉄直通列車と横須賀線の連絡が必ずしも宜しくなく、下手をすると10数分待たされることでしょうか……。そもそも、新宿行ではなく東京行にしてくれよ、と思わなくもないのですが (^^;)。
 それはさておき、周知の通り直通列車の運用は埼京E233の方が多く、相鉄12000系でのJR直通をなかなか果たせていなかったのですが、先日土日出勤をした際に、海老名発朝イチの特急新宿行12000系に乗りまして、敢えて新宿まで通し乗ってみました。空いている車内で相鉄@山手線内を楽しんでみたかったのと、人が少ない時間帯の新宿駅で12000系を激写するためです。
 いやはや……性能はE233と同じとはいえ、デザインはあくまでYNBであり相鉄オリジナル。そんな電車の車内から渋谷の街を眺めて、ちょっとしたお上りさん気分になったことは否めません(←都内通勤通学歴30年超であるにもかかわらず、未だに田舎者な江ノ島賎民です。笑)。そして、巨大な新宿駅にて、成田機場特快を横目に佇む12000系を激写しつつ、早く12000系が池袋、大宮、川越へ毎日運転しないものか……と思ったのでした。

西武2000系を撮る (2019年10月)

2020-01-28 18:40:00 | 都市民鉄 (首都圏)


 昨日は、いつもお世話になっております西武ヲタ写真家「きえふにいさん」様と、都内某所のジョージア&ロシア料理店にて、おそロシアなビールを傾けつつ美食に舌鼓を打つ小宴を楽しんだのですが、お互い下世話でマニアックな共産趣味者を兼ねていることもあって、目下の情勢に到るここ20〜30年の歴史に鑑みて、「同じプーさんであっても、プーチンと習近平のどちらが老獪で有能か」というネタから議論が白熱し始め、「プーチンの圧勝、習近平は足下にも及ばない」「中国の特色ある社会主義は、マルクス・エンゲルス・レーニンが書いた内容に照らしてもとんだお笑い種だ」という結論で一致しました。しかし、そんな話から自ずと、昔のロシアと中国はユルユルで良かったよなぁ〜という話に転じ、ロシアまたは中国で撮り鉄・乗り鉄する際に出会った鉄道関係者や公安関係者のユルユルで行き当たりばったりな態度を懐かしむ、という濃厚すぎる話題に花が咲いたのでした。その行き着く先は、近々鶴丸航空が直行便を飛ばすウラジオにさっくり飛び、釣掛エレクトリーチカに乗りたい……という共通認識でした (笑)。



 その後は話題が国内鉄に移り、上信700形の復活旧塗装に「マジかよ!」、そして秩父デキ201の黒デキ化に「マジかよ!」、さらには南海6000系をめぐる様々なウワサに「マジかよ!」……という感じでハイテンションな会話が続いたのですが、最後のシメの会話は西武に移り、ち○○特急もといLa Viewは、構想イラストの段階では「何じゃこりゃ」レベルだったものの、実物の完成度は侮れないという結論となりました。
 いやはや、新春鉄漫談としては最高にマニアックなひとときでした。きえふにいさん様には心よりお礼申し上げます!

 というわけで、何か西武の画像を……と思いつつHDを漁ったところ、昨年10月に相鉄12000系が川越に来たのを見たさで川越を訪れたついでに、ちょこっと西武新宿線を撮ったのを思い出しました。新宿線は池袋線と比べ、他社への直通なし、輸送人員頭打ち……ということで、今ひとつパッとしない印象もありますが、裏返してみればそれだけ新宿線が「昭和の西武佳き時代」を偲ぶベストスポットとなりつつあることを意味しているようにも思います。新宿線も笑電がそれなりに来ますが、それ以上に2000系が未だに大きな存在感を示していますし、池袋・秩父線の特急が全てLa Viewとなった後も、しばらく「小江戸」はNRAのまま、101系サウンドを大都会にも響かせ続けることになります。勿論、2000系も二段窓車の廃車が進んでいることは否めないわけで、今回レタッチしながら、そのうちじっくり撮っておかないとな……と思ったのでした。


武漢の悲劇から東風4型黄金時代を想う

2020-01-27 17:30:00 | 中国の鉄道


 中国でどれほど高速鉄道や最新鋭の情報通信技術が発達し、モノとカネがあふれようとも、政治体制そのものは愚昧を繰り返した毛沢東時代のまま。せっかく知的魅力に満ちた人々がたくさんいても、様々な創意工夫で中国と世界に幸福をもたらそうとする願いがどれほどあろうとも、この誤魔化しと胡麻擂りの中共党体制が満天下を覆い尽くす中では、必ずや何らかの形でスポイルされることになります。党と国家の下っ端官僚が、プーさんの怒りを買って鉄槌を下されるのを深く恐れ、様々な政務を無事に済ませて出世の得点を稼ぐことを優先するあまり、自分の持ち場で何も起こらないのを深く望む事なかれ主義に徹し、ご機嫌取りで数字をいじることに徹した結果、ついには真実を語る人を「社会の安定を乱した」と称して罰し、解決・緩和されるべき問題に手が付けられない中で破滅的な危機が進む……。今般の武漢肺炎の蔓延は、そんな中共党体制の本質を改めて白日の下に晒したと言えましょう。



 事ここに至り、誠に同情を禁じ得ないのは、武漢市民をはじめとする無辜の老百姓(庶民)の皆様です。中共党体制の弊害によって引き起こされた前代未聞の危機が、いつの間にか「党中央の英明な指導による困難の克服」という、いつもの陳腐な英雄物語に置き換えられつつある中、当の武漢市民は封鎖の中、ただでさえ下手をすると自生自滅(誰からも放置された状態)を強いられるかも知れないという不安に陥っているというのに、武漢の外側においても、武漢市民であるというだけで厄介払いのための拘束や蟄居を強いられ、あるいは宿泊や医療など様々なサービスからも排除される現象が起こりつつあります。「武漢加油」という声が中国全土で起こる一方で、武漢・湖北の人であるというだけでこの仕打ちとは一体何という矛盾でしょうか。既に中共は、新疆のイスラム教徒を「社会の安定を蝕む病原菌」扱いして迫害し、香港の抗議運動も「祖国統一の何たるかを理解しない邪魔者」として弾圧しているものですが、この期に及んで、本来であれば主流派の極みである一千万以上の武漢の漢人をも、新疆のイスラム教徒と同様に国民統合の外側に追いやりつつあるのですから何をか言わんや。これまで、「党と安定した社会があればはじめて幸せがあり、中国が世界を導く《中国夢》が実現する」と称する中共の言説を何の疑問もなく信じていた武漢の人々も、この極限状態に至り、そんな党と国家が本当に老百姓を救ってくれるのか、疑問を持ち始めることでしょう。

 というわけで、今すぐ中共が消えるとは思えませんが、これは有り体に言って今から120年前の義和団事変と性格が似ているような気がします。無知蒙昧な義和拳教にすがって外国を蹴散らそうとした清朝が、結局日本軍を中心とした八ヵ国聯合軍に呆気なくしてやられ、以来多くのエリートが血相を変えて日本に留学し、政治体制の変革へと向かった挙げ句、ついには鉄道利権と清朝官僚の黒い関係に対する怒りが蔓延し、武漢で革命ののろしが上がって清朝が倒れてしまったものです。では、今後武漢だけでなく全国規模で交通網が政治的に寸断された状態を中国の人々が目の当たりにするにつれ、果たして何を思い、どう行動するのでしょうか。
 そもそも、同じ中共党体制であっても、今ほど技術の発達を悪用した独裁がはびこっていなかった80年代から2010年代初頭は、批判的なメディアの存在に加えて、そもそも中共自身に金も技術もなかったため、結果的にある程度柔軟というかテキトーで「自由」な社会があったはず。それがプーさんの独裁ですっかり変わり、党と国家機構が巨大なイエスマン体制になってしまったのが致命傷だと思います。

 こういう独裁の極みが引き起こした出来事を目の当たりにするにつけ思うのは、昔の中国は今よりも貧しかったかも知れないものの、それなりにユルくて楽しく良かったなぁ、ということです。中途半端な独裁とテキトーな社会ゆえに戸惑うことも多かったですが、何と言っても老百姓の皆様には「人情味」がありましたし(今もある)、何だかんだで上手く楽しく旅行できてしまう。そんな雰囲気が結構大好きで、昔は多くのバックパッカーが中国を旅したものだ、と認識しています。
 いろいろあって、最近の中国からはすっかり足が遠ざかり、最新の中国鉄道画像はほとんど持ち合わせていませんが(数年前にベトナムで撮った25系客車が最後。笑)、その代わりに、中国が改革開放の登り坂で、ある意味で緩くもあり明るくもあった時代の象徴である東風4型の未アップ画像を貼っておきます。

神奈臨浮島線2020・新春のタキ (上)

2020-01-26 17:21:00 | 貨物列車 (神奈臨)


 昨日は、天下御免の極悪鉄ヲタ軍団である「あまのじゃく軍団」毎年恒例の新年会が、首都圏某所のあまのじゃく亭にて開催されまして(実際は紳士の集いです )、あまのじゃく家手製料理に宅配のピザ、冷蔵庫一杯の酒、そして沢山の差し入れで口福を満たしつつ、JRからローカル私鉄、そして今は引退したマニ30をめぐる逸話、さらには猫 (笑) に到るまで、のんびりだらだらとマニアックに語り合うひとときとなりました。あまのじゃく御夫妻をはじめ、御参加の皆様には大変お世話になりました。心よりお礼申し上げます!! (^O^)
 それにしても、ついこの間あまのじゃく亭を訪れて新年会をしたはずが、瞬間風速的に一年間が過ぎてまた訪れた、という気がしてなりません。恐ろしや……。



 ちなみに、私があまのじゃく軍団の末席に加わらせて頂いているのは、主に神奈臨をはじめとした超マイナー・マニアック系貨物シーンへの愛がきっかけです。そこで温故知新というわけで、先日約1年ぶりに、川崎大師初詣のついでに撮影した、神奈臨川崎地区の画像をアップしてみることにします。
 かつて神奈臨川崎地区を訪れる際には、12時45分〜50分頃に川崎貨物を出発する千鳥線の午後便をバッチリ決め、その後は徒歩で浮島線に移動し石油タキを2往復ほど撮ると、16時頃の浮島町最奥部・JOT&日触入換があるという一連の流れがあり、半日で車扱貨物超満腹を味わえたものです。しかし、浮島町の日触は既になく、JOTは早朝に移り、千鳥線は13時過ぎになったと思ったら2019年3月改正から11時52分出発に変更になり……だいぶ訪問時の行動パターンも変わってしまったものです。昨日は、『川崎界隈貨物事情』のSFL様と、こんな今昔話で盛り上がった(?)次第です。
 でもって、先日の撮影ですが……千鳥線は西群線にコキが留置されていたのにウヤ! 浮島線の午後第1便(往路は単機)も、この異例の暖冬のためかウヤ! 川崎貨物14時10分発の第2便はやっと来ましたが……この日はかなり寒く、しかも場所柄空気が悪いこともあり、バスで千鳥町に降り立ってからこの撮影まで待つこと2時間半、本当に疲れました……(つづく)。