地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

江ノ電304編成チョコ電、併用軌道を行く

2020-02-29 21:20:00 | 地方民鉄 (東海道)


 江ノ電305編成と近似の正面を持つ車両として、かつて304編成が存在していましたが、台枠の限界が近づいたことが発覚して廃車となってから、早いもので今年で15年となります。305編成は京王の小型車の台枠を流用して車体を新造したものであるのに対し、304編成の場合はタンコロを種車として台枠を広げ連接車に改造したものですので、両者を同列に論じるわけには行きませんが、304編成は1958年、305編成は1960年の登場で、改造内容からいって両者とも当時相当金がかかったものと推測します。それに加えて冷房化・カルダン化済みですから、江ノ電としては304編成も大事に使いたかったのでしょう。



 それでも、とにかくも台枠がヘタレてしまえば、寿命はその時点で終わります。304編成の場合、引退が決まったのち、さよなら記念でチョコ電塗装を標準色に戻しましたので、辛うじてギリギリで問題なく運転可能という判断だったのかも知れませんが……。
 個人的には、304編成のチョコ電塗装が結構お気に入りでして、当ブログを始める前のポジフィルム→デジカメ導入過渡期には、何度も沿線に通ったものです。今と比べて江ノ電沿線には、ヲタも観光客も多くなかったですし……。
 というわけで、2003年の末に併用軌道区間で撮影したカットを外付けHDから掘り起こしてみました。週末のためか車が多いですが、雰囲気は今とほとんど変わらないですね……。出来ればこの塗装、1000形で復活しないものでしょうか。


大いなる長寿看板電車・江ノ電305編成

2020-02-27 22:00:00 | 地方民鉄 (東海道)


 ある意味で江ノ電を最も代表する車両である305+355は、車体については製造後60年、台枠に至っては製造後95年を経ているという驚異的な車両ですが、余程台枠が頑丈に造られているためか、あるいは極楽寺の保守技術が余程優れているためか、常に苛酷な潮風にさらされる環境でありながら、今日でも堂々の主力の座を保っています。台車と下回りも1980年代以後、次第に新調されており、古さを感じるのはもっぱらバス窓と木張りの床の外観・内装程度といっても過言ではないでしょう。しかし、300形の他の車両が台枠の致命傷発見によって廃車となったのと同じく、305編成もいつ終焉を迎えるか分かりません。



 ところがどっこい、幸運に恵まれて相変わらず長寿を保っているのが305編成です。最近も、いつもお世話になっておりますあまのじゃく様をはじめとした江ノ電ヲタの皆様が、検査上がりホヤホヤの305編成の試運転シーンをネット上にアップされています。これは要するに、まだまだ台枠はイケるという江ノ電保守陣の判断によるものでしょう。
 それでも、いずれ必ず現役走行には台枠が耐えられなくなるときが来るでしょう。そこで、JRWが35系4000番台客車を新造した例にならって、305編成についても外観が全く同じな代替新車が現れないものか……と思わなくもありません。むかし「クリープを入れないコーヒーなんて」というCMがありましたが (嗚呼昭和!)、それと同じく「305編成がない江ノ電なんて」というのも真理ですので……(爆)。
 というわけで、数年前に撮影した検査ホヤホヤの姿をアップし、305編成の長寿を喜びつつ、将来の完全レプリカ305編成の登場を期待したいと思います。
 そして同時に、305編成がどれほど巷における江ノ電・湘南のイメージと結びついているかを象徴的に示すものとして、数年前に小田急や江ノ電の駅に貼られたポスターもアップしてみます。


 江ノ電ネタ編成を追っかけ回すヲタの生態とは何とまあ真逆の、ナウでヤングな雰囲気であることでしょうか! (笑)

秩父鉄道石炭列車終焉に寄せて・デキ100

2020-02-26 22:00:00 | 貨物列車 (民鉄)


 鶴見線の扇町と秩父鉄道の三ヶ尻を結ぶ石炭列車は、既に3月ダイヤ改正を機に運行を終了する旨がアナウンスされていましたが、荷主の都合でダイヤ改正を待たずに、昨日扇町を最終列車が出発したとのことです。そして最近は、一旦武川まで進んでから三ヶ尻へと折り返す手間を省いていたため、きょう熊谷貨物ターミナルから三ヶ尻に到着して完全に歴史に幕を閉じることになります。当ブログ開設からさほど時間を経ていない頃、この石炭列車の扇町シーンを紹介したところ、「おせっかい」と称する無識の徒が「石灰列車だろ?」とドヤ顔でコメントし、当方が「いや石炭だ。検索されたし」とたしなめて、結局この輩がトンデモな赤っ恥をかいたという爆笑失笑級の珍事もありましたので、なかなか思い出深いものがあります (遠い目)。
 既に釧路の石炭列車も消え、これで本邦の石炭列車の歴史も終焉ですか……。非常に大きな歴史の節目を感じます。



 ともあれ、熊谷貨物ターミナルでJRから秩父鉄道へと直通する貨車は、かつての車扱セメントホキや有蓋車がとっくの昔に消え、細々と残っていた石炭列車も消え、今後熊谷貨物ターミナル〜三ヶ尻間はたまに甲種輸送のみが運行されることになるのでしょう。路線の維持が秩父鉄道にとって負担になるとしたら、今さら熊谷駅の連絡設備を復活させるのは現実的ではなさそうですので、もしや甲種は寄居での授受に変更とか……(妄想失礼)。
 いっぽう、秩父鉄道をある意味で最も象徴するヲキ・ヲキフの鉱石列車は今後も石灰石が枯渇しない限り残ると思われますので、山が削られて行くことには複雑な気分を覚えますが、引き続きの活躍に期待したいものです。しかし、日常的にはデキ300・500だけで十分に鉱石列車の運用を回して行けると思いますので、既にヴィンテージ級の古さとなったデキ100の今後については心配しています。いつまでも、EF15の私鉄版とも呼ぶべき雄姿を拝めますように!

JRW関西3扉転クロ礼賛 (3) 225系

2020-02-25 22:00:00 | JR発足後の車両


 本日は2月25日ということで、225系の未アップ画像をレタッチしてみました。225系は窓の設計の関係で、座る位置によって当たり外れが大きいのが難だと思っているのですが、それもまたあくまで221・223系との比較の話であって、JREに慣らされてしまった関東人から見れば羨ましい車両であることには違いないでしょう。



 それにしても、阪和線であれだけ大所帯を占めていた103系を置き換えるために、JRWが225系の4・6連を大量に新造し、天王寺口の普通列車すら真新しい転クロ225系で来るようになったことには度肝を抜かれました。阪和線の普通列車が3扉転クロでも全く問題ないことが、関西線・おおさか東線普通列車の221系化という大胆な決定に結びついたのだと思われますが、良く言えば、それだけ関西のラッシュ輸送には余裕があるということですし、悪く言えば少子高齢化時代における通勤客のつなぎ止めに必死、ということなのでしょうか。

岩手県乗物縦断 (9) キハ111・112

2020-02-24 21:21:00 | JR発足後の車両


 しばらく間が開いてしまいましたが、そろそろ新緑の季節に出かける奥州街道徒歩鉄旅の続きを考えなければならない頃合となりましたので、昨年11月の画像をアップすることにしましょう。
 盛岡で東北本線が尽きた後は、いよいよIGR・青い森が走る区間へと進んで行くことになります。今回の旅は紫波中央〜渋民〜御堂〜小鳥谷と歩きつないでおり、渋民と御堂には宿がないことから、盛岡駅前の宿を拠点として、一日の終わりと翌日の始めには必ずIGRを利用していたのですが、折角好摩までは花輪線のキハ110・111・112が走っている以上、架線下DCの旅も少々楽しんでみることにしました。しかも盛岡〜好摩間といえば、かつて朝方一本のみ、ED75牽引による「旧客・沼宮内行き」+「DC・大館行き」という珍列車 (539レ) が走っていたことから、盛岡655発の大館行きに2日連続で乗ることで、そんな時代に思いを馳せつつ、線形の良い区間での爆走を楽しもうという企画です。



 そこで、早朝の下りにつき十分空いている車内で、キハ111・112のエンジン音を満喫しつつ、701系とはまた一味違った旅を楽しみまして、1回目は滝沢で下車後速攻で跨線橋を渡り、発車の直前にパチリ。その後、滝沢でしばし撮り鉄したのち一駅だけ一戸行きに乗り、渋民で盛岡行きをパチリ。滝沢駅の駅舎がIGR時代になって全く斬新な建物に変わっているのを除けば、JR時代とは何ら変わらない情景なのかも知れません。翌日、2回目の乗車は、快晴につき岩手山や姫神山の絶景をボックスシートで堪能したのち、好摩にて後続の一戸行きに乗り換えたのですが、好摩駅にて、下車し階段を登ってきた客から切符を受け取ろうと仁王立ちしていた嘱託駅員氏は当初、私が持っていた一日乗車券を見ながら、「花輪線と八戸方面のホームは違うのに、何でこんな面倒臭い乗換をするのか」と訝っていました。乗換ついでに硬券入場券を購入したい鉄ヲタだということを説明して、納得しておられましたが……(笑)。
 なお、初日の出発地点である紫波中央では(花巻まで夜行バス)、釜石線のキハ100・3連がやって来たのですが、17m車の3連という地方私鉄っぽい編成に、今さらながら萌えました……。いっぽう、日詰発盛岡行きキハ111・112の4連の送り込み時刻を知らず、ポカーンと見送ってしまったのは痛かったですが、キハ111・112も4両つなぐと結構見映えがするということを初めて知りました。逆にいえば、今までそれだけJRE世代の気動車には興味が薄かったということで、反省することしきりです。