最近は、日本人が中国や韓国(そして香港……)を避けて台湾に殺到したり、韓国人が日本を避けて台湾に行こうとしても余り歓迎してもらえず、中国からも飛行機増便を断られ、中国人が「上級の指示」により台湾や韓国を避けて日本に押しかけ、台湾人や香港人はここ数年来中国に嫌気が差すにつれて中国旅行から足を洗って久しく……というように、いわゆる東アジアというか北東アジアの海外旅行事情は、時々の内外の政治情勢に激しく影響を受けるところとなっています。グローバリズムや相互依存を喧伝したところで、短期間のうちにこのような激変が起こるとは、何という脆い関係でしょうか。
尖閣事件が起こる前、中国経済の爆上げを中心にヒト・モノ・カネの激しい往来がアジアを席捲する中、多くの政治家・研究者・ジャーナリストが「東アジア共同体」の成立可能性を熱く語っていたものですが、そこに予め仕組まれていた各国各様のナショナリズムの怪しさを思えば、それは時期尚早の夢物語としか思えなかったものでした(2004年から始めた当ブログのバックナンバーのうち、近隣諸国の鉄道について触れた記事をご覧頂ければ、安易に友好万歳とは言っていないことがお分かり頂けるかと存じます)。実際「台頭した」と思い込んだ中国や韓国が、自らの「理想」に基づいて国際関係の現状変更に邁進するようになり、様々な不協和音が起こるほど、今まで安易に思い込んでいた「共同性」がガラガラと崩れてしまったのが実情です。私はウヨでもサヨでもありませんが、人間のダークな側面を見て見ぬ振りをしながら、「協力すれば何でも克服できるさ」式の安易なヒューマニズムや共同体論には共感できませんし、砂を固めたような「相互依存」が崩れるリスクを予め損得勘定としてしっかり考えておかなければと思うものです。
では、昔の大東亜共栄圏に至る日本主導の地域秩序なら良かったのかといえば、これもまたダークな話に蓋をして「協力すれば何でも克服できる」という類の話の日本国体論バージョンですので、やはり全く好きになれません。ただ単に、近代中国も近代朝鮮も余りにまとまりがなかったため、たまたま日本の主導性が持続したということでしょう。
ただ、日本の主導性が日露戦争後から第二次大戦敗戦まで何と40年も続いたため、「東亜」の地には驚くほどパックス・ジャポニカな近代化の風景が広がり、その中では今となっては信じがたいほどお手軽な旅行環境が満鉄・鮮鉄(やがて華北交通・華中鉄道も)を中心として提供され、その気になれば、カネさえあれば、思いのままに移動できる時代が確かにあったことは注目されるべきでしょう。
鉄道史家・小牟田哲彦氏の近刊『明治・大正・昭和 日本人のアジア観光』は、とくに明治から今日までの日本人と海外旅行の関係全体の中で、アジア近隣諸国への旅行の変遷をとらえるもので、満鉄・鮮鉄など戦前の日本「外地」鉄道や植民政策全般に関心がある方、そして戦後の海外旅行自由化以後におけるパックツアーやバックパック旅行の歴史に関心がある方は必見の一冊と言えます(余りにも面白くて一気に読んでしまった。笑)。その中でもとりわけ圧巻なのは、戦前の旅行指南書や統計・時刻表・広告などを丁寧に読み解いたうえで、概ね大正期以後都市部で一般化したサラリーマンなど中産層以上の人々であれば、国内旅行の延長で何の違和感もなく、日本統治下であった朝鮮・台湾・樺太は勿論のこと、満洲国、そして中華民国まで、パスポートを持たず日本円のみで旅行できてしまった、という趣旨です。例えば上海や山海関での中華民国との出入国にあたっても、パスポートは必ずしも必要ではないということに至っては、まさに驚きの一言で、これぞ大東亜共栄圏の極みといったところですが (あるいは、国境を越えるときに必ずパスポートが必要であるという観念自体、近代になって形成されたものなのかも)、その代わりに荷物検査は厳重を極めたとか。また、個別地域への入域に際し、旅行許可証の取得や届け出がそれなりに必要な場合もあったようです。
また、そのような「ユルさ」は、日本人の大陸渡航と同時に、実は中国人の日本渡航を容易にしていたということかも知れません。1920年代から30年代まで、近代中国のエリートは、何かあるとすぐに日本にやって来る(例えば、中華人民共和国国歌作曲者の聶耳[ニエアル]も、政敵から逃れて日本に潜伏し、藤沢の鵠沼海岸で遊泳中に溺死)というのも、本書が紹介する旅行事情に照らして実に納得の行く話です。
そして、いくら日本人の間では「ぜいたくは敵だ」「ブラブラしていないで真面目に働け」といった類の、他人を縛る心理的障壁があっても、お伊勢参りの昔からの習いで「参観・視察」と称して「外地」に物見遊山し、とりわけ団体旅行に興じる気運が一般的だったようです。鉄道会社や旅行業界もそんな「参観・視察」需要に応じて、例えば豊臣秀吉の出兵や日本軍の戦跡を紹介するガイドブックの類を出しまくって旅行ブームを煽り、こうした国家・企業体・個人の視線が複雑にからまることによって、戦前における「外地」観が形成されていたことなど、目から鱗の内容です。
戦後も、極端な外貨不足から脱して海外旅行が自由化された1960年以後、近場の韓国・台湾・香港が、まず下半身系目当てのオヤジツアーを中心として盛り上がり、旅行ガイドもそういうものとして出版されたものの、1980年前後からバックパッカーの一般化、個人旅行女性の海外旅行市場への参入により、あっという間にガイドブックの内容も変わっていった……という趣旨は、私自身も粗悪印刷時代の『地球の歩き方』世代だけに超納得。また、1972年の日本と中華人民共和国の国交成立・台湾にある中華民国との国交断絶に伴い、中華人民共和国に関する記述が大いに中共と毛沢東におもねりまくった内容に変わっているのにもニヤリ。ゴマを摺って忖度しないと到底やって行けない「友好」関係の中で、暗闇の中をまさぐるようにしながら徐々に進んだのが日中の鉄道協力というものであり、その結果として今日のCRHや重量級貨物の大繁盛もあるのでしょう。
さて、そんな本書を読んでいて「なるほど」と思った点をひとつ。いくら戦前の中華民国にパスポート無しで行けてしまう環境があったとしても、さすがに雲南省は仏領インドシナの勢力圏であり、交通インフラ面でもハノイから昆明までフランスが建設したメーターゲージの昆河鉄道を利用するのが最も至便だけに、パスポートが必要であったとか。
そんな昆河線がハノイのロンビエン橋を渡って最初に着く主要駅・ザーラム (嘉林) は、ハイフォン (海防) に上陸した日本人がハノイに足を踏み入れるにしても昆明に行くにしても必ず通るターミナルにして、今日でも釜山から続く標準軌がここで途切れ、東南アジア大陸部共通のメーターゲージに切り替わるところです (1枚目の画像では、ちょうど三線レールが途切れている地点が写っています)。鉄道による大東亜共栄圏(そして今日の一帯一路)が、今の大陸部東南アジアを視野に入れる場合、ここザーラムはまさに「勢い尽きる地」であり、さらに南進するためにはここで必ず乗り換え・積み替えをするか、さもなくば改軌・標準軌新線建設をしなければならないことになります。
かつての日本の大東亜共栄圏は、東京から昭南市 (シンガポール) に至る弾丸列車計画も空しく崩壊し、仏領インドシナと南北ベトナムはゴタゴタの時代の中でここから南を改軌する余裕などなく、ベトナム新幹線計画も宙に浮いているところです。そして、中国からのハノイまでの直通列車も、今や南寧からザーラムまでの一日一本と限られる中 (2枚目の画像の左にチラ見え)、結局中国はシンガポールを目指す高速鉄道の道をラオス・タイ経由と見立てたわけですが、今や航空路の時代、果たしてそんなに乗るのか?という気もします。
というわけで、ザーラム駅で撮った未アップ画像がまだ多数あるのを思い出してシコシコとレタッチしつつ、鉄道による大東亜共栄圏・諸国連絡輸送は見果てぬ幻であり、何のかの言って戦前の一時期が最も華であったことを思うのみです ちなみに、ザーラム駅の一つ北に位置するイェンビエン駅から、毎日1本ハロン行きの満鉄客車が走っていますが(一時期運休説が流れていましたが、何だかんだで運転中のようです)、鉄路の大東亜共栄圏が尽き果てるところで奇跡的に生き残っていることもまた、限りなき興趣と感慨を抱かずにはいられないものがあります。乱筆長文失礼しました。