地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

ジャカルタ炎鉄録 (8) 都営6000系オレンジ帯

2009-08-31 07:45:00 | インドネシアの鉄道


 ジャカルタ遠征撮り鉄の記録はまだまだ膨大な量がありますが、その第2部としてこれから数回、東京の地下鉄車両として生まれ、日本政府の海外援助に関連してジャカルタに送られたため現地で「Hibah (贈り物)」と総称されているグループについてご紹介したいと思います。
 その第一回はもちろん、今から9年前に日本中古冷房車の初陣としてジャカルタ入りした都営6000系です! 都営6000系といえば、個人的な印象では……東京の地下鉄網を走る電車の中でも銀座線釣掛や103系1000・1200番台に次いで走行音が物凄い車両でありまして (その次くらいに203系、やや開いて東急8500系といったところでしょうか)、三田線非冷房時代などは全開にした窓から轟音が容赦なく響き渡り「うほっ♪」と思う反面、一般の利用客にとってはさぞかし迷惑な話であろうと思ったものでした (^^;)。そんな都営6000系は90年代に入ってようやく冷房化が進みましたが、その後間もなく東急目黒線乗り入れ&ホームドア設置に備えて6300系の大量増備がなされ、6000系はあっけなく廃車に……。それだけに、6000系のジャカルタ大量移籍は「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉通りだなぁと思ったものです。
 その後6000系が冷房通勤車としてジャカルタに定着するまでには、ネットで調べるにつけ相当苦労があったようで……インドネシアに冷房通勤車という文化を定着させてジャカルタの交通事情を改善し、かつ日本・インドネシアの良好な関係を一層増進するためにご尽力された関係者の方々には心より敬意を表したく存じます(おかげで今日の日本中古冷房車の隆盛があり、私のような一介の鉄ヲタにもインドネシアという国がとても身近に感じられるようになったのですから)。以来約9年。都営6000系は、東武東上線乗り入れ計画の中止により幻に終わった8連の勇姿を赤道直下に輝かせながら快走しています! ここ数年都営6000系といえば、秩父5000系3連が緑の中を走る光景ばかり目にしていたものですが、やはり大手町や日比谷といったオフィス街を走っていた都営6000系には、こんな大都会の風景が似合うなぁと思った次第です。もちろん、三田線での現役時代の地上運転は高島平団地付近の高架線しかなかったわけですが (^^;;



 さて、そんな都営6000系、ジャカルタ入線当初は三田線時代と同じ青帯にゴツい排障器を取り付けた姿でデヴューしたようですが、のちにこのオレンジ帯に変更となりました。しかし、さらに続々と日本製中古冷房車がデヴューする中、都営6000系についてもデザイン面での模索が続いているようで、南国の陽光に晒されてすっかり色褪せてしまったオレンジ帯は急速に減少しつつあります。とくに、オレンジ帯の8連は6171F (1枚目の画像) のみとなっており、検査入りによって現在流行 (?) の緑+黄帯に切り替わるのも時間の問題かも知れません。この編成……と申しますか、ボゴール所属の都営6000系8連3編成は、基本的にジャカルタ・コタ~ボゴール間の急行「パクアン」(パクアンとは、ボゴール周辺で数百年前に栄えた王国の名称との由)の主力として用いられておりまして、1往復2時間半程度ですので結構頻繁に走っているかの印象があります。さらに、夕方16時40分頃にボゴールを発車後、マンガライとタナ・アバンを経由してスルポンまでの長距離を走る運用や、日曜祝日限定でボゴールからマンガライ・ジャティヌガラ・東線を経由してアンチョール(遊園地あり)まで向かう運用も都営6000系8連が充当されるなど、たとえ東急8000系列が増えようとも急行用花形車両としての位置づけは続いているようです。
 いっぽう2枚目の画像は、ラッシュ時にタンゲラン~ドゥリ~タナ・アバン~マンガライというルートで運転される6連の急行「チサダネ」(ボゴールの南の山岳地帯を源流とし、タンゲランを経て海に至る川の名前。先日『神奈川新聞』を読んでいたところ、かつて横浜~ジャカルタ~南米航路の主力として就航していた客船も「チサダネ」を名乗っていたそうな・・・) が、さらにデポック入庫のため南下しているシーン。とりあえず当初すべて8連でジャカルタ・デヴューした都営6000系は、その後の増発や支線への乗り入れに備えて多くの編成が6連化されていますが、その原形先頭車編成も帯色が変わりつつありますので(改めてご紹介)、オレンジ帯の記録は今のうちかと思われます。今月上旬には、6151Fがボゴールを発車後、延々と続く長い急勾配を加速し始めて間もなく、異常のため緊急停車していた非冷房エコノミーに激突する事故を起こしてしまいましたので……。


 ボゴール電車区にて、許可を得て撮影。
 ATCもATSもないインドネシアの鉄道では目視と無線が頼り。先行する緊急停車中エコノミーの運転士・車掌が無線連絡をせず、何も知らない急行列車の運転士がいつも通り下り坂&右カーブを加速したためにこうなったとか……。お会いしたYさんから伺ったところによると、事故車の再起を検討中だそうですが……この台枠の状態を見るとムリっぽい雰囲気が強く、恐らく廃車は免れないでしょう (T_T)。
 こんな感じで、追突事故が多いインドネシアだからこそ、今フツーに走っている編成の記録はなおさら大切なことだと痛感……。JR103系や東急8000・8500がこうなりませんように……。

西武秩父線40周年記念 (?)・南入曽夏祭り

2009-08-29 18:41:00 | 都市民鉄 (首都圏)


 E851は無けれども……西武秩父線華やかなりし頃を彷彿とさせる光景!



 新101系すら数を減らしつつある今や、これすらも相当貴重な並び……!



 現在の西武秩父線の主・4000系も新宿線にゲスト入線。「準急・武蔵丘」!



 どう見てもメーテルが大口を開けているように思えるのは私だけ? (^^;;

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 本日、西武新宿線の南入曽車両基地にて、毎年恒例となりつつある(第5回だそうで)夏祭り一般公開が開催されました。西武というと普段はたま~に東飯能と西武秩父の間、または多摩川線を利用する程度で、これまで開催された西武のイベントもことごとく他に用事が重なっていた……ということで、とにかく西武との縁が薄い私ではありますが、E31は一度で良いから撮ってみたいなぁ、と思っていたことに加え、窓まわりベージュ色の登場時塗装に戻された新101系にも興味が湧いていた今日この頃だっただけに、この両者が展示されるという事前告知にグッと引きつけられました。しかも今日は予定が空いていた……! 
 そこで、初めての西武イベントは一体どのような感じだろうかと期待しつつ所沢へ向かったのですが、問題は……私が住む神奈川県央と所沢のあいだは、直線距離ではさほど遠くないにも拘わらず、とにかく鉄道でのルート選択が難しいこと (→そのことがなおさら神奈川県民にとって西武沿線を縁遠いものにしているという現実……)。最も速いのは、遠回りでも新宿を経由した小田急快速急行と西武特急or急行の乗り継ぎですが、往路では快速急行に着席出来ない可能性大 (-_-;)。そこで、田都8500→約1年ぶりの副都心線→有楽町線からの準急小手指行き(何と有楽町線のY編成で登場) という、必ず着席可能ながらもやや時間を要するハードコアな乗り継ぎを楽しみ (笑)、所沢駅の駅蕎麦を賞味して腹ごしらえをした後、新所沢駅から「笑電」もとい「スマイル・トレイン」使用の送迎列車に乗車(ドア上の表示が「臨時・南入曽行き」を表示していたあたりは芸が細かい……。30000系は初めて乗りましたが、まぁ車体幅の広い東武50050系60番台という感じですね。→どういう例えじゃ? ^^;)、無事南入曽に到着と相成ったのでした。
 到着ホーム(洗車台を流用)の目の前にいきなり新101系2連が停車しているという好ましい光景を眺めつつ、いざ撮影会場に向かってみますと……E31とベージュ顔新101系の並び! 何と素晴らしいのでしょう! そして別の留置線では2本の新101系が顔を並べていたり、秩父線から4000系を拝借して休憩所としていたり(「コバトン」と「レオ」のぬいぐるみが貫通路踏み板にちょこんと鎮座していたのもミソ。笑)、さらには池袋線から拝借した「零士」3000系も「区間準急・田無」という非現実的な幕を出していたり……。新宿線のイベントでありながら、西武秩父線40周年を祝い、池袋・秩父線色も前面に押し出すという雰囲気が感じられたのでした。
 人出が多過ぎだったらイヤだなぁ……と思っていた会場内の様子も、とにかく暑かったためでしょうか、あるいは開場直後を避けて昼過ぎに訪れたためでしょうか(最近は経験から申しまして、車庫公開系イベントは開場直後が一番カオスだと悟っております ^^;)、とにかくまったりムード。模擬店にて黄金色の燃料水 (爆) を補給しつつ、木陰での休憩と幕が変わるたびの激写を繰り返していたところ、いつの間にか約2時間も居座ってしまいました (笑)。
 というわけで、「堤商店」からの脱却を目指して (?) 大いにファンサービスに努める西武の姿勢に認識を新たにしつつ、帰りはとにかく暑いため「赤い矢号」で涼んで新宿へ戻ったのでした。ファンにも沿線のお子様にも十分楽しめるイベントを開催して下さった関係者の皆様に、この場ながら御礼申し上げます。

ジャカルタ炎鉄録 (7) 国産冷房車KRL-1

2009-08-28 20:20:00 | インドネシアの鉄道


 ボンバルディアや日立の技術を取り入れたVVVF車(一応、韓国の現代重工業から部品の供与を受けた車両もあったそうですが、調子が悪過ぎて早々に離脱・放置となってしまったそうな。さすが台湾に故障続出のPP自強や通勤電車を売りつけて、アフターサービスで知らぬ顔をした韓国メーカーらしいエピソードだなぁ……と)を製造し、非冷房エコノミーの主力の一角を占めさせるに至ったインドネシアの鉄道車両会社・INKA社は、さらに今世紀に入りVVVF冷房車の製造に乗り出しました。その作品がこの車両、KRL-1形です! まぁずんぐりとした流線型ボディに派手な色彩感覚ということで、恐らく日本人ウケはあり得ないかも知れませんが、少なくとも「一つ目小僧」ではなくHITACHIとの連続性があるデザインとなった点は評価しても良いのではないかと思っています。
 しかし、この車両の誕生はちょうど日本の国際協力による都営6000系の譲渡の時期と重なってしまい、日本製中古冷房車は導入費用が格安で使い勝手も格別だという評価がインドネシア国鉄内部で固まったためでしょうか、結局この車両は4連2本の製造にとどまり、生まれながらにして悲運の継子扱い (?) が決定づけられてしまったようです。とくに、当然のことながら非冷房エコノミーと都営6000系双方との混結も出来ないことから、運用面での制約が極めて大きいようで……現在では以下の運用で細々と使用されているようです。
  (1) マンガライ→環状西線→カンプン・バンダン→環状東線→ジャティヌガラ→マンガライというルートで、ジャカルタ中心部の外周を時計回りに一周するエコノミーAC「チリウン号」(「チリウン」は、ボゴール南東の標高3000m近い山に源を発して、ボゴール植物園を経てジャカルタに至る川の名前ですが、ジャカルタ市内では残念ながらドブ川 -_-;)。ちなみに、時計と反対回りの「チリウン」は乗客僅少につき没有了……。
 (2)タンジュン・プリオク(ジャカルタの外港として、かつては恐らく多くの列車で賑わいながら、しばらく旅客列車が消滅、最近復活)から環状東線を経て、ジャティヌガラで本線に合流してブカシに至る区間を2往復するエコノミーAC。



 というわけで、日本製中古冷房車が目当てでジャカルタ初訪問を果たした私でしたが、KRL-1の乗り心地や、山手線よろしくジャカルタの街をグルッと一周する気分は果たしてどのようなものか……という興味もありまして、訪問の2日目(13日)、マンガライ駅で朝の撮り鉄祭りを終えたのち、環状運転エコノミーAC「チリウン」に乗ってみることにしたのでした。
 まず出札口にて……「チリウン」という固有名詞をすっかり忘れていたのと (^^;)、環状運転を意味するインドネシア語を知らなかったことから、指でグルグル環を描きながら (爆)「サークルライン、ジャティヌガラ!」という何とも情けない表現で (^^;) 環状列車に乗りたいのだ!という意思表示をしてみますと……出札氏は「ああチリウンね」と言いながら4500ルピアの切符を売って下さったのでした (それで「この列車の名前はチリウンだ!」ということを思い出した次第 ^^;)。そこでいざ、駅本屋の脇に停まっているKRL-1の車内に入りますと……クーラーがキンキンに効いて清潔に保たれた車内は快適そのもの。駅の待合い椅子のようなプラスチック製椅子はさておき、肌色の化粧板や塗りドアを基調とする車内の雰囲気は……下ぶくれの車体と相俟って、ソウルメトロ3号線の旧3000系 (小田急9000のような顔) を思い出すのは私だけでしょうか (^^;
 午前10時、ラッシュアワーも終わってまったりとした空気が漂うマンガライ駅1番線を発車した「チリウン」は、ジャカルタ・コタ方面への線路を横切ってタナ・アバン方面へと入って行きましたが……何と、そんなシーンを撮っているインドネシア人「鉄子」サンが2名!! (@o@) しかも一眼レフを構えているし……。いやはや、鉄道趣味をたしなむ余裕がある中間層が増えつつあることは知識として分かっていましたが、そんなインドネシアの鉄道趣味勃興にあたって最初から女性陣がしっかりと加わっているというのは、ある意味で健康的で、ある意味でスゴいことなのかも知れません。
 それはさておき、タナ・アバンまでは新都心としての開発が急激に進むジャカルタ南西部の一角を走り、ボゴール・デポック・ブカシから来た一部の通勤列車は中央線経由ジャカルタ・コタ行きではなく、そんな新都心へ通うサラリーマンを乗せてタナ・アバンへ向かっているわけですが……線路周辺だけは著しくスラム化が進み、貧富の格差を痛感せずにはいられません。そして、スルポン線(今回乗りそびれ。残念!) との分岐にして一部客車列車の始発駅でもあるタナ・アバンを過ぎますと、さらに沿線のスラム度は強烈に……。次の、タンゲラン線との分岐にあたるドゥリ駅の南側は、鉄道用地全体がにわかバザール化し、列車が来るときのみ荷物を退かせるという光景が広がっていました (汗)。その次はアンケ駅。やはり低所得者層が密集して住む中にある超下町の駅ですが、日中ここで折り返してボゴールに向かう唯一の列車として東急8613Fが停車している風景は……何と申しますか、異次元的な組み合わせでした、はい (^^;;;
 アンケを過ぎてしばらく走りますと、かつてジャカルタがバタヴィアと呼ばれていた当時の、オランダによる支配の栄華を伝える一角として、洋館が数多く残る一帯をかすめます。保存された跳ね橋も目の前に見えて、なかなか風雅なものです。ここらへんに駅を設置すれば、多少は歩くことになるかも知れないものの、観光やジャカルタ・コタ駅周辺へのアプローチとして便利になりそうなものですが……(いやその前に、建物がことごとく老朽化して空洞化した洋館群の保存と街並み再生の方が先のような気がしますが、植民地時代の遺物に政府・市当局や世論がどれだけ歴史的遺産としての価値を認めるかがカギでしょうか。例えば台湾と韓国ではまるっきり違いますし)。
 そんなことを考えていると、やがてジャカルタ・コタ駅からの線路が合流し、東線に入ってカンプン・バンダンに到着。ジャカルタ・コタからこの駅の高架部分を通ってタンジュン・プリオクに向かうルートは列車が途絶えて久しく、線路上がスラム化する一方だったところ、今年中の運行再開を目指して移転作業や工事などが進められているそうですが……パッと見、どうしてもそれが実現しそうには見えない……(苦笑)。その後は東線をタラタラと進みますが、東線のスゴい世界につきましては別の記事で改めてご紹介することにします (^^;
 というわけで、山手線と同じく約1時間の旅を終えた電車は、マンガライ方面からの本線と合流してジャティヌガラに到着、乗っていた客(といっても大した数ではありません) のほぼ全員が下車した後、回送同然の姿でマンガライまでの残り一駅分へと踏み出して行ったのでした……。ジャティヌガラは、ジャカルタ市街の南東にあり、長距離優等列車も停車する主要駅でもありますので、ホーム上は列車待ちの客で常に賑わっていますが、駅の建物やホーム上屋はあくまで昔気質。何とものんびりした雰囲気が好ましいです (^^
 こんな感じで、KRL-1の環状列車「チリウン」のプチ旅を楽しんだのですが……この列車、とにかく乗客が少な過ぎ (-_-;)。原因の一つは、山手線のようにそれぞれの駅の周辺が一大商業・ビジネス地となっている環境では全くなく、環状運転の列車への需要が極めて少ないためだと思われますが(山手線の開業当初が超空気輸送だったのも同様の理由による)、もう一つの原因として考えられるのは……遅れが発生すればいつ何時運転自体が取りやめになってしまうかも分からない頼りなさ。マンガライ7:40発の「チリウン」がマンガライを約20分遅れで発車して行ったのを目撃したことから、「それでは次の8時50分頃の便と10時発の便はそれぞれ20分ほど遅れそうだなぁ……」と思っていたのですが、何と!9時頃にマンガライに戻って来たKRL-1は、そのまま約10分遅れの8時50分発「チリウン」として運行されるのではなく昼寝 (?) モードに入り、何と8時50分発は完全に運休……!!(爆) これでは、駅で待っていても仕方がないので、利用客離れが進むのもやむを得ない気が……。何とか4連冷房車と環状運転を活かす方策はないものか……という思いがしばらく後を引いたのでした。
 というわけで、インドネシア・オリジナルの電車のご紹介はこれにて完結。この連載の次回以降は第2部として、日本の海外援助がらみで入線した「贈り物(Hibah)」電車=都営・メトロ・東葉編となります。お楽しみに~(って、期待している方はそんなに多くないか。笑)。

ジャカルタ炎鉄録 (6) 非冷房HITACHI編成

2009-08-27 08:47:00 | インドネシアの鉄道


 ジャカルタの非冷房VVVF車にはもう1種類、INKA社が日立から下回りの供与を受けて1997年に製造した車両がありまして、現地では「HITACHI」と通称されているようです。同時期に製造された「一つ目小僧」(^^;) と比べますと、個人的にはやはりこちらの方がデザイン的に遥かに高好感度であることは言うまでもありません。とくに、整った流線型の湘南顔 (?) に側面の細かい窓、それに屋根上のグローブ型ベンチレーターなど、非冷房車の中では最も日本的なデザインに近いような気がしなくもありません (こじつけ? ^^;)。それにこの車両、起動時のサウンドが如何にも日本の私鉄車両っぽい音であるのも、何とも親近感をかき立てます (日立製だから当たり前か……笑)。



 ただ残念ながら、この車両はもともと多数派ではないようで、私が訪れている間に運用に入っていたのは、ボンバルディア系VVVF車と同じく4+4の8連1本のみ。基本的にはブカシ電留線に常駐し、ジャカルタ・コタ~東線~ブカシ線のエコノミーを中心に運用されていました(朝のラッシュ時には、ブカシ線から中央線に直通するという、エコノミーでは数少ない運用にも入っていました)。東線~ブカシ線系統の普通列車は、ネットで閲覧出来る時刻表や駅の時刻表で見ると、まだまだ非冷房車の割合が高いようにも見えますが、実際には東京から来た中古冷房車の運用に余裕がありさえすれば極力冷房車による代走となっており(そこで、駅の出札口には次の冷房車と非冷房車の時刻が掲示され、乗客にはそれを見て選択を迫るというシステムになっています。1等車扱いの冷房車と3等車扱いの非冷房エコノミーでは全然運賃が異なりますので……)、既にかなりの割合で冷房車がやって来るという勘定。そこで、非冷房車はせいぜい日中(時間帯により)2~3運用となっておりますので、そのどれかを選べばHITACHIに当たる確率は高いように思われます。……って、やはりわざわざ狙って乗るほどの車両でもないか (^^;)。何と言っても暑いですし……(-o-;)。

ジャカルタ炎鉄録 (5) 非冷房VVVF編成

2009-08-26 20:42:00 | インドネシアの鉄道


 東京の中古電車に日本製の抵抗制御非冷房車と、何かと日本との縁が深いジャカルタの電車ですが、いっぽうでインドネシアの鉄道車両会社としてINKA社というメーカーがありまして (社名は恐らくIndonesia Kereta Apiの略。さしずめ「インドネシア鉄道車両会社」といったところでしょうか)、電気式DLや客車・貨車などを生産しています。これらの車種においては、川崎市営埠頭から電車と一緒に運ばれた神奈臨のDD5512のような例外を除けば、ほぼINKA社が生産を独占していると思われ、まぁとりあえずの技術力もあると思われますので(客車列車の乗車記はいずれ触れます)、電車についてもINKA社が独自に設計・製造したいと思うのも恐らく自然の流れでしょう。そこでINKA社と、国際鉄道車両業界の超メジャーどころであるボンバルディアの合弁により1990年代以降製造されたのが、このVVVF車でありますが……正面のデザインがまさに巨大な一つ目小僧 (爆)。正直なところ、ワイコー (^^;) な気がしないと言えばウソになります……(汗)。



 そんなVVVF車、これまでネット上でジャカルタの通勤電車事情をあれこれ調べるにつけ、かなりの本数が運用されているという印象があったのですが、今回約1週間ジャカルタに滞在して連日線路脇に立ち続けたところ……何と運用されていたのは4連+4連の8連1編成のみ!! 「こればっかり来るのか……」と覚悟していた車両が、フタを開けてみると実は珍車だったというのは何とも奇妙な体験でありますが (^^;)、これも恐らくは東京の中古電車の急増によって、非冷房エコノミー運用のエコノミーAC運用への転換が進みつつあることが大きく作用しているのでしょう。加えて、INKA/ボンバルディア製VVVF車の保守・部品確保状況よりも、日本製抵抗制御車の方が保守が容易で性能的に安定しているという事情があるのでしょう。かくして、車齢10年前後のVVVF車 (インドネシアの電車・客車は5ケタナンバーの上2ケタが製造年を意味)が早々に消え、車齢20数年~33年の「インドネシアの103系」が踏ん張り続けるという、ある意味で痛快、ある意味で不可思議な光景が展開しているという次第……。
 というわけで、個人的には結局一度もこのVVVF車には乗らなかったのですが、乗っても特に嬉しさを感じそうな車両というわけでもないので、まいっか (笑)。
 ちなみに、VVVF機器の不調により離脱しつつあるこの電車は、ジャワ島内地方都市圏の輸送改善のために相次いで電気式DCに改造されつつあるようで(改造後は、非常にキレイで快足な車両ということで、エコノミー運賃ではなくビジネス=2等運賃を徴収している模様)、西ジャワ第二の都会であるバンドゥンに日帰りで出かけた際にも目の前を発車して行くところを撮ったのですが……逆光 (^^;)。ま、いずれバンドゥン撮り鉄編をアップするとしたらご紹介するかも……(^^;