[写真]田中けいしゅう(田中慶秋)さん、今から12年前の2010年8月、議員会館内で、宮崎信行撮影。
田中けいしゅう(田中慶秋)さんが亡くなったそうです。享年83。
ちょうどきょねんの今ごろ伊藤英成さんも亡くなりました。
中野寛成さんはご健在です。
それにしても、法務大臣の辞任への新聞社の圧力はひどかった。もちろん与党・民主党国対が大臣に対して法務委員会欠席を求める「与党審議拒否」は論外でしたが、慶秋さんは説明したかったと、当時の政策秘書から聞きました。理由は、東海道53次「戸塚宿」でその後の「横浜開港」で栄えた選挙区で、ヤクザとツーショットが出たこと。ヤクザ対策は国家公安委員長だと私は認識しますが、「ヤクザとの対決の先頭にあたる法相」という南米のような間違った構図を新聞社がつくりました。
田中けいしゅう(田中慶秋)さんが亡くなったそうです。享年83。
ちょうどきょねんの今ごろ伊藤英成さんも亡くなりました。
中野寛成さんはご健在です。
それにしても、法務大臣の辞任への新聞社の圧力はひどかった。もちろん与党・民主党国対が大臣に対して法務委員会欠席を求める「与党審議拒否」は論外でしたが、慶秋さんは説明したかったと、当時の政策秘書から聞きました。理由は、東海道53次「戸塚宿」でその後の「横浜開港」で栄えた選挙区で、ヤクザとツーショットが出たこと。ヤクザ対策は国家公安委員長だと私は認識しますが、「ヤクザとの対決の先頭にあたる法相」という南米のような間違った構図を新聞社がつくりました。
法務大臣をめぐる報道では、慶秋さんが、福島県の浜通り・浪江町の出身で、神奈川・旧戸塚宿の選挙区から出ていたため、西日本出身者が多い政治部新聞記者が、明治維新の負け組・東北訛りのアクセントで標準語を話すから、小ばかにして叩きやすかったのが一点。
しかし、それからの10年間で、株式会社朝日新聞社の売上高は年1800億円減りました。最大の理由は値上げをしないからです。商品に自信があれば値上げすれば販売量が同じなら売上高は増えます。歴代代表取締役は政治部でも経済部でも、財務省研究会が長くデフレ脳の、単なる馬鹿だったのでしょう。そして、新聞製作の費用では、10年間で、販管費が年600億円減り、新聞製作費に思いっきり食い込んでしまっています。私の高卒の両親が創業して私が名義上代表取締役を務める宮崎機械株式会社の数字だと、仮に売上高が1800万円減っても販管費は360万円減らせばオッケー。なぜでしょう。売上高が減れば、仕入れが減るからです。相手は100倍の上場企業ですから気兼ねなく仕入を減らせば、電話・ファクス・コピー複合機の体制は同じままでも、最終損益は消費税・法人税納税額は減ってまあ黒字です。この程度のことが分からない、新聞記者のどこがインテリか。
[写真]田中けいしゅうさん、今から10年前の2012年8月、都内で、宮崎信行撮影。
[写真]田中けいしゅう(田中慶秋)さん、今から12年前の2010年8月、議員会館内で、宮崎信行撮影。
その新聞記者出身者たちが、その他政治団体「民社協会」(事務担当者は長くE職員)を「川端グループ」などと呼んでいました。1年生議員は、月8万円の会費を上納していましたし、民主党には珍しく独自の政治資金パーティをしていましたが、1年生議員だって自民党派閥と違って、一円ももらえません「同盟系労組の推薦がもらえるらしい」と思ったようですが、別に民主党公認なら、同盟系労組の、産業別・地方協議会は推薦はくれます。まったく金の流れの見えない報道。呆れて物も言えません。馬鹿も馬鹿も大馬鹿です。
慶秋さんは、1989年、みなとみらい地区の街開きを兼ねた横浜博「YES’89」の打ち上げで、市役所職員を「川下り」に招待。参加した人もいました。費用の折半は良く分かりませんが、横浜市職員はもともと清潔マインドがないので、「田中事務所主催の川下り、楽しかった」と単純に喜んでいました。飛鳥田一雄市長が、金沢区の釜利谷東という崖を崩して、京浜急行電車を便利にして、その土砂を海に埋め立て「八景島」をつくりました。地権者は第三セクターや西武鉄道で、なぜ京急を通すために崩した崖が西武の土地になっているかは「横浜ミステリー」ですが、それはさておき、「横浜シーパラダイス、シーパラけいしゅう祭り」を毎年開きました。切符は数千円で、多少は、事務所が持ち出していたのかもしれません。その辺の脇の甘さはあったかもしれませんが、そもそも民主党の叩き上げでそんなイベントをする豪胆さは、他に皆無でした。
そのため、リクルートの江副さんから未公開株を譲渡されていました。おそらく文教・労働行政での見返りではなく、江副さんは川崎・横浜の野党の安定株主対策だったのではないかろうか、と私は長年邪推しています。けいしゅうさんは落選しても、現金化しなかったのですが、法務大臣就任記者会見では株数が増えていると問題視されました。これも、おそらく株式分割で表面上の株数が増えたんだと思いますが、福島出身の田中さんに説明はうまくできませんでした。
神奈川県・全国の柔道連盟では、筑波など国立と、東海など私立の二大派閥があるようですが、田中さんは、東海・神奈川で力があり、民社協会国会議員団会議の廊下に、小沢一郎グループの谷亮子参議院議員が表れて、記者が一瞬驚くことがありました。これも、呼ばれて田中会長の方が「なに?なに?」となぜかひな壇を降りて部屋を出ていく「民主しぐさ」でしたが、神奈川・帝京の谷さんは、連盟・私大で田中先輩を信頼していたようです。
また、国会議員団会議では、カレーライス600円と引き換えに、センセイから1000円札を受け取り、領収書と400円を渡すのですが、西新橋のビルからその時だけ議員会館に出てくるE事務局長がテキパキ対応。会長の政策担当秘書が手持無沙汰で茫然としていたら、田中会長が「君、ちゃんとお手伝いしなきゃだめだよ」と説教型のフォローを入れて、E事務局長は「では、これをやってください」と合いの手を入れる、部下思いの説教型フォローもできる方でした。
こういう、福島から首都圏に出て代議士になったということで、当時だれ一人浪江町域内に住んでいなかった浪江町民は、田中法相を喜んでいたようですが、明治維新の全国新聞に引きずり降ろされました。
いまだに怒ってます。
以上です。
以上です。