富岡製糸場入り口(北口)
深緑の一日、群馬県富岡市に残る富岡製糸場を訪ねた。この工場、20年以上前に遡るが、同じ地域のいくつかの企業をめぐる見学旅行に参加した折に訪れたことがあった。その当時は片倉工業の下で、まだ操業していた。
富岡製糸場を訪れる以前から繊維工業には、強い関心を抱いていた。その理由については長くなるので省略するが、日本ばかりでなく、アメリカ北東部ニューイングランドから南部の原棉生産州への移転について調べるために、ローウエル、フォールリヴァーなどに残る産業遺産、南部の新鋭工場、さらにイギリス、イタリアの工場なども訪ねたことがあった。富岡製糸場については、世界遺産に登録されるために努力の途上ということを、なにかの折りに知り、時間に制約されることなくゆっくり見てみたいと思っていた。
今回はローカル線の旅を楽しんでみたいと思い、高崎から上信電鉄に乗り、「上州富岡駅」で下車する経路をとることにした。休日であるにもかかわらず、観光客の姿は少なく、社内も空いていた。ワンマンカー、無人駅化などが進み、地方電鉄の経営の困難さが見て取れる。
製糸場は「上州富岡駅」を下車、町中を10分程度歩いた所にある。富岡は日本の各地にみられるようになった駅前から人影の少ない、閑散とした町並みである。自動車だけはかなり往来が激しい。街角に掲示された案内に従い、ゆっくり歩いていると、目の前に煉瓦色の壁と立派な門が現れた。
富岡製糸場は明治政府の富国強兵・殖産興業政策の一環として構想され、最初の官営工場として、1871年(明治4年)に着工、翌72年(明治5年)に完成した。
民間企業の経営に移管した後も幾多の星霜を経て、最終的に1987年に操業を止め、2005年に富岡市に寄贈され、国指定史跡、国指定文化財として継承されている。2007年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産暫定一覧表の追加物件として選定、受理された。目指す世界遺産登録までは、まだ遠い道だが、努力は実りつつある。いくつかの点で充実したらと思うこともあるが、多分関係者はすでにお気づきのことだろう。
明治政府の掲げた殖産興業政策の一環として構想された最初の官営工場・富岡製糸場については、歴史の教科書にも記載され、かなりよく知られているので改めて繰り返さない。上記の世界遺産を目指すサイトでも概略を知ることができる。
明治3年(1870年)「官営製糸場設立の議」が決せられ、フランスからの経営・技術の導入が決まり、立地決定、翌年から建設が開始された。交通の点でも決して便利な場所でないにもかかわらず、大変迅速な決断、実行に感心する。
操業が開始されたのは明治5年(1873年)だった。その後明治26年に、富岡製糸所として三井家への払い下げが決まった。明治35年原合名会社に委譲された。そして、昭和13年片倉製糸(株)の経営するところとなった。
富岡製糸場通用門(明治5年と刻まれた銘板に注意)
完成後、百数十年を超える年月を経過した今、眼前に広がる工場施設は、操業はしていないとはいえ、現代人の目にも圧倒的な存在感がある。
富岡に導入された技術は、フランスからであったが、当時のフランス製糸の技術は、イタリアなどとその先端性を競っていた。日本にも両国の技術が導入されている。単に製糸技術ばかりでなく、経営の様式も注目すべきものだった。その技術に日本独自の工法が融合して生まれたのが富岡製糸場だった。
往事をしのばせる繭や道具
繰糸工場、繭倉庫の一部
高い煙突(創立時のものではない)と繭扱場の一部
繰糸工場への入り口
左右の建物は指導に当たったフランス人検査人、女工など住んだ宿舎
よく知られている長野県松代からの伝習工女として、この製糸場での日々を経験した横田英の『富岡日記』に記されているように、煉瓦造りの壮大な製糸場と、設置されたばかりのまばゆいばかりの器械設備、そこで忙しく立ち振る舞う異人や工女の姿などは、始めて入場した工女たちをさぞ驚かせたことは、今でも十分類推できる。この最新の製糸場で伝習を受けることは、工女たちにとって大きな誇りを抱かせるものだった。
製糸場が操業を停止した今では、場内に工女やフランス人の姿は当然ない。しかし、目を閉じて、1世紀を超える昔に思いを馳せると、独特の機械音や繭を茹でる匂い、工女の会話などが聞こえてくるようだ。
明治6年(1873年)3月31日、横田英が富岡に到着した時の町と印象を次のように記している。
「早朝坂本を出立致しまして、たしか安中の手前を右に折れ、段々参りますと高き焼き筒(鉄製の煙突)が見いました。一同いよいよ富岡が近くなったと喜びも致しましたが、ここに初めて何となく向こうが気づかわしく案じられるように感じました。それより富岡に着き致しまして、佐野屋と申す宿屋に入りましたのは、まだはようございましたから、町を見ますと城下と申すは名のみにて村落のようなる有り様には実に驚き入りました。」
翌日の4月1日、製糸場へ入場したが、その時の印象は次のようであった。
「一同送りの人々に付き添われまして富岡御製糸場の御門前に参りましたときは、実に夢かと思います程驚きました。生まれまして煉瓦造りの建物などまれに錦絵で見るばかり、それを目前に見ますることでありますから無理もなきことかと存じます。それから一同御役所へ通されました。」
「第一に目につきましたは糸とり台でありました。台からひしゃく、さじ、朝がお(繭入れ湯にこぼしのこと)、皆真ちゅう、それが一点の曇りもなく金色目を射るばかり。第二が、車、ねずみ色に塗り上げた鉄木と申すものは糸わく大枠、第三が西洋人男女。第四が日本人男女見回りいること。第五が工女が行儀正しく一人も脇目もせず業についている。」
References
横田英『富岡日記』中公文庫、1978年
上條宏之『絹ひとすじの青春『富岡日記』にみる日本の近代』日本放送出版協会、昭和53年
富岡市編『富岡製糸場』改訂版、平成19年